最近訪問した塔婆・ご提供画像(2003/10/18〜2003/12/04 )

過去の訪問塔婆履歴

2003/12/04 山城永観堂多宝塔 京阪三条駅のポスターを撮影。
2003/12/02 摂津三宅廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
心礎は花崗岩製で、1.5×1,5×0.5mを測り、径70×10cmの円穴を穿つ。(但し「日本の木造塔跡」では若干以上より小さい数値になっています。)また浅い排水溝が1本彫られている。円穴を廻り多くの浅い小円孔が多く穿たれているが、これは不明。(後世のものか?)この地は古来から戦国期まで三宅氏の本貫地で、この心礎は三宅連の氏寺のものと推定される と云う。また心礎は三宅城築城の際持ち出されたが、近年付近の万福寺境内に移されたとも云う。
(摂津法華寺)
摂津伝国分尼寺心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同      礎石
  同      石碑

一重円孔式、100×100×60cm、円孔は46×25cm、白鳳期とされる。 心礎はほぼ直方形で実測値は100×97×56(見える高さ)cm、円孔は46×21cm。円孔の底は平らではなく、やや中央が低くなっています。円孔は かなり深く掘られています。
沿革については真偽の程は定かではありませんが、当寺が摂津国分尼寺を継承したと言われる。長く衰退していた国分尼寺は、応永13年(1406)禅宗の寺として柴島浄水場付近に再建されたという。浄水場拡張により、大正3年創建当時のものと推定される礎石とともに現在地に移転し たとされる。現在、法華寺境内に塔心礎と推定される礎石と間違いなく礎石と思われるかなり風格のある礎石(造出の柱座を持つ)3個を寄せ集めて置いてある。

2003/11/27 河内神感寺跡 詳しくは「神感寺跡」を参照ください。
なお楉蔵寺心礎といわれるものが「幻の塔を求めて西東」にありますが、心礎の有無に関して不明です。この件も「神感寺跡」の「楉蔵寺」の項を参照下さい。
河内西郡廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
大きさは(現地説明碑)120×160×60cm、中央に径67cm深さ37cmの穴があり、さらにその中央に径21cm深さ18cmの孔を穿つ。円孔が非常に深く堂々とした心礎です。平素は穴・孔に水、落ち葉が溜まるのを防ぐためか、大きなベニヤ板が被せていますが、見学者はこのベニヤ板を取除いて良いそうです。おかげで水は半分程溜まっていましたが、幸いに濁りは少なかったようです。
この地は錦織連の居住地でその氏寺西郡寺跡といわれ八間堂の字という。心礎は西郡天神社境内にあり、移動しているようです。
「日本の木造塔跡」では大きさを170×176とする。こちらが実測に近いようです。
摂津堂ヶ芝廃寺 (天王寺区)大阪市文化財協会のHPでは「堂ヶ芝の地付近からは古代の瓦が多く見つかり、かつて巨大な塔心礎も残っていたことから古代の寺院跡として注目されてきた。最近、近隣の細工谷遺跡から「百済尼」・「尼寺」と記された墨書土器が見つかり、「百済尼寺」の存在が浮かび上がってきた。そこで、堂ヶ芝廃寺は、「尼寺」と対になる「百済寺」である可能性が高まっている。」との記載がある。心礎は亡失のようです。「幻の塔を求めて西東」の「亡失した塔心礎の形式と寸法」には「大阪 摂津百済寺 100×100cm 表面が平らで中央に方行の浅い舎利孔がある 創建・白鳳前期」との記載がある。なお出土瓦の様式は白鳳前期とされ、かっては土壇様の遺構もあったとされる。また大別王寺とする説もあるようです。現状は写真の石碑があるのみで、何も遺構はありません。
摂津須牟地廃寺心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同      心礎図
  同      土壇1
  同      土壇2
  同      土壇3
住道(須牟地)寺。「幻の塔を求めて西東」では大きさは130×120×50cm とする。しかし実測すると心礎はほぼ正三角形で三角形底辺は167cm底辺からの高さ150cmで見える高さは57cmを測る。
礎石は付近の浄土真宗常栄寺にある。心礎は径67cmの円形柱座を造り、更に径16cmの孔を穿つ。 穴の深さは現状は深いですが、心礎を手水鉢にした時に掘り下げられたとする。現地説明板では赤紫部分が後世の掘り下げとする。
住道寺は、藤原不比等の建立で、玄ムの開基と伝える(中臣須牟地神社旧記)。常栄寺北東200m、矢田中学校の北30mに須牟地寺の墓壇と伝えられる土壇の一部を残す。あるいはこの土壇は、平安期末兵火に 罹り焼失し、その焼土を集め築いた塚とも云う。 土壇2はおそらく礎石と思われます。(推定)
2003/11/16
「X」氏ご提供画像
三河一畑薬師寺宝塔1
  同         2
  同         3
建立時期不詳。大きさも不詳ですが大型のようです。コンクリート製で、しかも残念ながら正規の建築ではないようです。塔身は八角形、上層は方形で二手先を用いる。水子供養の塔のようで、内部は地蔵菩薩を祀り、玩具類が奉納されているとのことです。温泉も経営?しているようです。
詳しい寺暦は分かりませんが、昭和後半に出雲一畑寺(一畑薬師)の別院として建立されたようです。
三河寿泉寺三重塔1
  同        2
  同        3
ごく最近に建立されたと思われます。外見で判断する限り、木造の、基本的に和様を用いる正規の塔建築のようです。全体的な印象は江戸後期様のスタイルのようです。本尊は薬師三尊とのことです。寺暦については全く分かりません。幼稚園を経営?していると思われます。
2003/11/04 摂津六条八幡宮三重塔1
  同           2
  同           3
  同           4
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  同           6
  同           7
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  同           9
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  同          13
  同          14
  同     本地堂?1
  同           2
再訪
摂津祥福寺二重塔1
  同        2
二重塔は納骨堂で関係者以外は立入は出来ないようです。明治30年建立という。正規の塔建築のように見えますが、近づけないので、細目は分かりません、またなぜ二重なのかは分かりません。
臨済宗妙心寺派の専門道場のようで、多くの修行僧がいるようです。
播磨太山寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
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  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同    塔本尊1
  同    塔本尊2
  同     本堂1
  同     本堂2
  同     本堂3
  同     本堂4
  同     仁王門
再訪
播磨如意寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
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  同        7
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  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
  同       14
  同       15
  同       16
  同       17
  同     文殊堂
  同     常行堂
  同     仁王門
再訪
播磨転法輪寺三重塔跡 詳しくは播磨転法輪寺三重塔 跡のページを参照下さい。
播磨明王院多宝塔跡 詳しくは播磨明王寺・摂津徳光院多宝塔のページを参照下さい。
2003/11/02
X氏ご提供画像
讃岐法勲寺心礎残欠 心礎の一部(約5/1)が現存。全体は上部中央に径約90cm、深さ約9cmの円孔があると復元される。また本堂南の楠の根に包まれるように礎石があり、これが創建当時の位置を残す唯一のものであろう云われている。白鳳期の創建と いわれ、法隆寺式伽藍配置であった推定されているようです。
伊予河内寺塔礎石
伊予河内寺塔心礎
一重円孔式、100×95×30cm、径57×5cmの円孔(あるいは径61×7cm)、白鳳、 円孔はきれいに穿たれていますが、1/3くらいは欠損している様です。
心礎を含む礎石が13個残存する。但し礎石は後年に移転配置されたもののようです。境内から7世紀末頃の布目瓦、軒丸瓦、軒平瓦などを出土。
2003/10/29 河内高宮廃寺東塔土壇
  同    東塔心礎1
  同          2
  同          3
  同          4
  同          5
  同    東塔脇柱礎
  同    西塔跡1
  同        2
  同    金堂土壇
  同    金堂?礎石
高宮大社祖神社の社殿地が伽藍跡で、東西両塔、金堂、講堂、中門、南大門、廻廊跡などが確認されている。薬師寺式伽藍とされる。出土瓦から白鳳期創建で鎌倉−室町期まで存続し、講堂は再建されたようです。
東塔跡はほぼ半壊した土壇及び心礎、四天柱礎1箇、脇柱礎2箇を残す。
 「日本の木造塔跡」によると心礎の大きさは1.8m×1.5m、中央に径41cm深さ7cmで、塔一辺は5.27mとする。 脇柱礎には柱座の造り出しの痕跡があるようです。
西塔跡は土壇は本殿の基壇に転用されているようで、塔跡の状況は良く分かりません。
金堂跡はほぼ全壊と思われるが、僅かに土壇をのこし、本殿裏に積み重ねた状態の礎石4個と本殿右に1個の礎石を残す。いぜれも柱座を造りだした礎石のようです。その他の堂宇跡は埋め戻されているようです。白鳳期の瓦を出土するようです。
東塔心礎1の右下は四天柱礎。
河内岩倉開元寺跡石碑
  同    多宝塔跡
  同  多宝塔跡石碑
  同      石仏
 同 初代開元寺跡石碑
交野山山容
交野山山頂眺望
岩倉開元寺は交野山(標高344m)の山頂付近の南斜面にあり、東西約300m南北30mの範囲に堂宇跡と推定される約20箇所の平坦地があるとされる。(但しかなりの急斜面もあり良く確認はできません。)その中の一つに多宝塔があったらしく、多宝塔跡の石碑が建っています。但し何を根拠に多宝塔跡と断定するのかは分かりません。
昭和29年3箇所で小規模発掘がなされ、 創建は出土瓦から鎌倉期と推定され、堆積層の観察から、、二層の焼土があり、下層は鎌倉・室町期に、上層は戦国期末頃と考えられるようです。
天台系の寺院であったとされるが、室町期には南都興福寺末であった。(嘉吉元年<1441>再改定「興福寺官務牒疎」に交野郡開元寺とある。)あるいは山麓の開元寺は鎌倉期に現地に移され、中世末織田勢 (筒井勢)によって焼かれたとも云われるようです。(交野町史)
山麓の神宮寺から山頂に至る参道は石仏の道と名づけられ4体の石仏が ある。麓から弥勒菩薩(と推定、推定鎌倉初期、総高1.8m)、阿弥陀三尊磨崖石仏(文明11年<1475>の銘、岩は3.4m×3.7m、阿弥陀の種子の梵字キリークを刻印)、阿弥陀如来立像石仏(推定室町期、総高約1m)、阿弥陀三尊磨崖石仏(推定室町期、岩は2.5m×2.1m)がある。(写真も左からその順序です。)
山麓の神宮寺に初代開元寺跡 があり、昭和29年の発掘で礎石が発掘され、奈良期の創建とされる。現状は畑地で石碑が建つ。発掘礎石は教育文化会館(倉治)の前庭に保存と云う。
交野山山頂は岩山で巨大な磐座があり、ここからの眺望は360度きき、絶景です。眺望写真は北方で左から山城愛宕山、天王山、淀川、男山です。
河内中山観音寺心礎?1
  同           2
  同           3
  同           4
標高約45mの丘上に立地し、現枚方観音山公園がその地という。白鳳・奈良期の瓦を出土し、創建は その頃で平安期に最盛期を迎え室町期頃まで存続していたとされる。付近には三法院、奥の坊、阿闍梨坊などの地名があるようです。
公園南隣接地の発掘調査により版築の基壇二基や礎石などを検出し、各種土器類、軒瓦、鴟尾などの瓦類、青銅製観音像懸仏などが出土したようです。 戦前には経筒の出土があったと伝える。河内金剛寺蔵「胎蔵界大灌頂次第」奥書に「交野郡観音寺」とあり、当寺を指すとされる。
塔跡もしくは推定心礎が検出されたかどうかは不明ですが、公園中央南に心礎とも思われる石が存在します。心礎なのか否かは判断出来ません。
心礎かどうかは分かりませんが、概要は次のようです。花崗岩製で、大きさは約150cm×125cm×75cmで、上面を平らに削平し、そのほぼ中央に上面の径約6.5cm深さ約5cmの孔を穿つ。塔心礎だとすると、この孔は極端に小さく、瀬田廃寺の特殊な塔礎石に類似があるだけと思われます。
なお以上とは何の関係もありませんが、公園東端には牛石(牽牛)と呼ばれる石があり、七夕の日に倉治機物神社(実在)の織姫と天野川(実在)を渡って逢うと言い伝えられているようです。
河内百済寺西塔跡
  同   心礎・礎石
  同      心礎
  同     礎石1
  同     礎石2
  同     礎石3
  同    東塔跡
  同     礎石1
  同     礎石2
  同    金堂跡
  同   食堂礎石
寺地は南大門を出て方160m、、中門から廻廊が金堂に取付き、その中に東西両塔がある、金堂北に講堂、食堂を配置。東西両塔基壇は方12m、高さ1,2m切石積み基壇 (凝灰岩)。東西塔の心々距離は42m。
西塔は心礎と四天柱礎2箇(東北、南西)、側柱礎6個を残す。心礎は径1mで、径88cmの柱座を造り、径30cm高さ6cmの出枘を造り出す。塔一辺は5.6m。心礎以外もいずれも柱座を造り出枘を造り出す精巧な造りです。
西塔は心礎はなく、四天柱礎2箇(東北、南西)、側柱礎3個を残す。いぜれも柱座付き出枘を造り出す。
金堂は7間×5間で礎石5個を残すという。講堂も7間×5間。食堂跡には礎石2個を残す。
百済寺は百済王敬福が天平期に建立したと推定されている。伽藍西に百済王神社が残る。
旧北野天神鐘楼 北野→寺町四条→東山の現地(大本山大雲院鐘楼)へと移転し、現存するようです。
詳しくは北野天神多宝塔のページを参照ください。
2003/10/18 播磨東光寺多宝塔1
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  同        3
  同        4
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  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同     本堂1
  同     本堂2
  同     本堂3
再訪
播磨石峯寺三重塔1
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  同        5
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  同        8
再訪
播磨掎鹿寺多宝塔跡 詳しくは「播磨掎鹿寺・狭山不動寺多宝塔」のページを参照ください。
播磨椅鹿谷廃寺心礎 詳しくは「播磨掎鹿寺・狭山不動寺多宝塔」のページを参照ください。
播磨光明寺二重塔1
  同        2
  同        3
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  同        5
五峰山と号し、法道仙人の開基と云う。太平記などによると、中世には足利尊氏と直義との戦となり、直義は南朝軍として光明寺に布陣したと云う。現在も山腹に仁王門、本堂など多くの堂宇を残す大寺です。文明年中には24の坊舎があったというが、現在は多聞院・遍照院・大慈院・花蔵院の4坊が残る。参道左右には坊舎跡の平坦地を残す。什宝として銅造如来坐像(重文・遍照院蔵)、善導大師自画像(大慈院蔵)などがある。
二重塔は大慈院にあり、善導大師の扁額を掲げる。昭和49年の建立と云い、構造はコンクリート製と思われ、軒などが木造と思われます。いずれにしろ本格木造建築ではなく、簡略化されています。扁額から判断して内部には善導大師像を奉安するものと思われます。
播磨一乗寺三重塔1
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  同        3
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  同       10
再訪
播磨多田廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
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  同       10

多田廃寺心礎は現在市川中流域・諏訪神社に置かれている。諏訪神社は全長40mの前方後円墳の横穴式石室を本殿とする。後円部に接し拝殿があり(心礎1)、その傍らに2個の心礎が積み重ねて置いてある(心礎2及び3)。 おそらく東西両塔が存在したものと思われる。
大きい心礎は「日本の木造塔跡」によると、1.8m×1.7m、中央に径30cm深さ20cmの孔を穿ち、その中央に(写真には写っていませんが)径10cm深さ5cmの舎利孔と思われる孔もあり、さらにその周囲に径76cmの環状溝を彫り(幅2,5cm)、孔と環状溝の間に10数本の放射状の溝を彫る。(また環状溝から2本?の排水溝も彫あるようです。)なおまた珍しく孔の縁に径約11cmの半球形の彫り込みもある。この心礎は2割れ、セメントで補修されている(心礎4、5、6、7)。
小さい心礎(上に置かれている)は1.5m×1mで、中央に径20cm深さ6cmの(荒れているためか不整形の)孔がある。また径約75cmの環状溝があるようです(これも荒れているため、明瞭には分かりませんが)(心礎8,9,10)。
この一帯は古代の多駝里とされ、廃寺の元地は諏訪神社の北西300m(林崎池西)付近とされるが、江戸期及び大正期の農地開拓で遺跡は消滅したようです。

過去の訪問塔婆履歴