播 磨 掎 鹿 寺 多 宝 塔 ・  狭 山 山 不 動 寺 第 2 多 宝 塔

播磨掎鹿寺<椅鹿寺>多宝塔(狭山山不動寺第2多宝塔)、附:本掎鹿寺心礎(掎鹿寺廃寺心礎)

播磨掎鹿寺<椅鹿寺>

高野山真言宗。寺伝では聖徳太子の創建とする。応永32年(1425)赤松教康が金堂・食堂再興と伝える。
江戸期には寺領18石余。明治13年多宝塔・鐘楼・大乗院・南蔵院以外の全ての堂宇を焼失。
現在大乗院・南蔵院の2坊を残す。左記以外に教正院も存続しているとも思われるが未確認。

現掎鹿寺は丘状台地の上にある。参道途中に南蔵院があり、さらに進むと他の堂宇は退転したのか広い平坦地に本堂と鐘楼のみ存在する伽藍中心部があり、その右手前に大乗院がある。

○播磨掎鹿寺多宝塔跡

旧伽藍地に建つ多宝塔: 左図拡大図、播磨椅鹿寺に建つ多宝塔
撮影時期不詳:染井勝氏写真

移建は染井勝氏の手に依ると云う。
   

2014/12/13追加:
「加東郡誌」加東郡教育会、大正12年(1923)
 播磨椅鹿寺多宝塔:左図拡大図 、播磨椅鹿寺に建つ多宝塔
白鹿山と号する。開基は聖徳太子。高野山金剛峰寺末。
本堂・鐘楼・宝蔵・多宝塔がある。
応永32年(1425)赤松教康金堂の懐廃を憂ひて改造したり。
永享7年(1435)多宝塔成り、11年堂宇の落慶を慶したり。
寛文5年(1665)観音堂成る。
明治13年失火のため、多宝塔鐘楼及び2ヶ寺を除くのほか全部烏有に帰す。
明治16年本堂再建。
塔中:往古は50坊有と伝ふ。
南蔵院;本堂・楼門・庫裡
大乗院:本堂・位牌堂・護摩堂・庫裡



中世あるいは近世の掎鹿寺伽藍配置は不明であるが、掎鹿寺多宝塔跡は大乗院境内にあり、塔跡には記念(推測)の変形石造層塔が建つ。
変形石造層塔の廻りには基壇地覆石、塔縁廻石、縁礎石、側柱礎石がほぼ原位置で残る。但し中央部の礎石は石塔の設置ためおそらく除かれ、周囲に放置されている石がその礎石であったと思われる。
なお、この石塔は昭和54年に大乗院18世が建立、平成6年の阪神淡路大震災で被災し、平成8年修復したとある。(背後の銘による)
なお塔はかなり高い土壇もしくは地山の上に塔基壇を造成していたと思われる。

 播磨掎鹿寺多宝塔碑
   同     石塔1
   同     石塔2(左上図拡大図)

 


播磨掎鹿寺多宝塔礎石1(左下図拡大図)
  同    多宝塔礎石2(正面及び左礎石)
  同    多宝塔礎石3(左側柱礎石・縁礎石・縁廻縁石)
  同    多宝塔礎石4(右側柱礎石)
  同    多宝塔礎石5(右縁礎石・縁廻縁石)
  同    多宝塔礎石6(後側柱礎石)
  同    多宝塔礎石7(後側柱礎石・縁礎石・縁廻縁石)

播磨掎鹿寺多宝塔

 

狭山山不動寺両塔
(向かって左:播磨掎鹿寺多宝塔、
右梶原永福寺多宝塔)

 

 

播磨掎鹿寺多宝塔:
永亨7年(1435)建立。播磨守護赤松教康の建立と伝える。
移築の経緯は不詳であるが、移転前は老朽化し崩壊寸前であったと云う。
昭和39年現在地に移築完了。
一辺約4m、純和様の塔婆である。
現在は狭山山不動寺第2多宝塔として武蔵狭山にある。
2007/11/06追加:
「O」氏ご提供(1998/01/03撮影)
播磨 掎鹿寺多宝塔11
  同        12
  同        13:左図拡大図
  同        14
  同        15
  同        16
  同        17
  同        18
  同        19
  同        20
  同        21
  同        22
  同        23
2003/03/27撮影:
播磨掎鹿寺多宝塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7

20011/06/03追加:
「歴歩」様ご提供画像:2011/05/19撮影:「歴歩」サイト
◆狭山不動寺第二多宝塔(西塔)鬼瓦

狭山不動寺第二多宝塔

狭山不動寺第二多宝塔鬼瓦:左図拡大図
鬼面両脇に「丹波丹列篠山■■作 寛永九年申四月吉日」の作者銘・年紀が読み取れる。

写真は初重の何れかの隅の鬼瓦であるが、上重も含めて全ての隅の鬼瓦に「銘」があるかどうかは不明。
またこの鬼瓦が移建の時、播磨の地から運ばれ、再び屋根に載せられたかどうかも実見してはいないので不明。
上記に関しては、一見して寛永9年の年紀はこの多宝塔建立後の年紀であるので合理性があり、屋根葺替などの修理が寛永9年に施工され、その時葺かれた鬼瓦が移建に際して播磨から運ばれ、そのまま復原されたとも推定される。
しかし写真を見た判断ではあるが、新しいそうな瓦とも思われ、寛永9年の鬼瓦なのか、あるいは例えば昭和39年の移建・復原に当って新しく造られた鬼瓦なのかの判断は付かず、不明とするしかないであろう。
昭和39年移建に際して瓦は再造され、作者銘・年紀は旧鬼瓦のものを忠実に再現した可能性が考えられるからである。

旧瓦の銘を再造したと推定される鬼瓦(椅鹿寺多宝塔とは何の関係もない)の例がある。
 ◇近江法道寺跡観音堂鬼瓦2
 この鬼瓦には「天保4年三月製 建 昭和三拾五年四月」「謹製 東浅?井郡湖北町 大西瓦製造所」との銘があり、この鬼瓦は昭和35年の修理・再営に際し、鬼瓦を再造したが、天保4年製造の年紀を残したものと解するべきものであろう。
 ※湖北町は昭和30年成立。
このような例もあるので、上記の寛永9年の年紀は昭和39年の移建で再造された鬼瓦に旧の銘を残したものである可能性は捨てきれない。
 (もしそうであるならば、瓦の見えない部分に昭和39年の年紀がある可能性は大いにあるとも思われる。
  →近江法道寺跡

摂 津 永 福 寺 多 宝 塔       狭 山 山 不 動 寺


本掎鹿寺心礎(椅鹿谷廃寺心礎)<椅鹿寺心礎>

現掎鹿寺南東山麓の薬師堂境内に心礎を残す。この付近が古掎鹿寺の跡地とされる。

第3回播磨考古学研究集会編『古代寺院からみた播磨』:
「心礎現存。詳細不明。8世紀中葉〜末の創建で11世紀ころまで存続。」
『古代洲聚落の形成と発展過程』赤松啓介著:
「心礎は薬師堂からおよそ1間半のところにあり、竹に囲まれてある。
心礎は一辺1.2mほどの方形(もしくは不整形五角形)に近い形で、高さは55cmほどある。ほぼ中心に径40cm、深さ10cmの孔がある。その外の加工の痕跡はない。
薬師堂の礎石およびその付近に廃寺の柱礎と思われる礎石が7,8個残存する。
無装飾で火災にあった跡が歴然としている。
なお現在は農場整備で地形が一変している。」

播磨椅鹿谷薬師堂(左上図拡大図)
播磨椅鹿谷廃寺心礎1
  同         2
  同         3(左図拡大)
  同         4
  同         5

2007/11/06追加:
 播磨 掎鹿寺心礎実測図
  :「埋蔵文化財年報2000年度」加東郡教委、2001 より


心礎は薬師堂西側にある。大きさは1.6m×1,2m×50cmで、中央に径約40cm×約11cmの孔を穿つ。
奈良末期から平安初期まで、掎鹿寺はこのあたりにあったものと推測される。
以前は山林もしくは藪の中にあったが、農地整備で、無慚にも地形は一変すると云う。
それでも粗末な薬師堂は健在で、薬師如来坐像(平安後期・寄木造・相当痛んでいるが藤原期の特徴を残すと云う)を安置し、須彌壇・厨子はかなり精巧な造りで室町期のものと推定されると云う。
堂及び周囲には廃寺の転用と思われる礎石があり、数点の石造品が散乱する。
なお薬師堂左(西)の付属建物は十王堂と思われ、破損仏が並ぶ。
2012/08/13追加:
「東条町史」東条町史編簒委員会編、東条町(兵庫県)、1995.5 より
寺伝では推古帝2年(594)聖徳太子の創建と伝える。現在地に飛鳥期に創建され、その後おそらくは平安初期に現在の掎鹿寺に移ったのであろうか。
掎鹿寺は明治初年の失火で建物の大部を焼失す。近世には朱印18石を有する。現在大乗院、南蔵院を残す。
 掎鹿寺薬師堂厨子:薬師堂厨子・須彌壇は唐様で室町末期の建築様式を残すとされる。
本尊木造薬師如来坐像は破損は激しいが、平安後期の典型的な様式を示す。寄木造で像高85cm。
 


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