大同二年(807)征夷大将軍・坂上田村麻呂・さかのうえのたむらまろ、 が斐太平定の折りに戦勝を祈願して登山したのが 乗鞍の歴史の始まりとされています。
江戸時代には「鉱山鎮守」の氏神として尊崇され、権現池など山上の湖は農業に欠かせない水の神として、雨乞いの場になっており、円空(1680年代)や木喰行者も登山したと伝えられる。
姿が馬 の鞍に似ている事から「鞍ヶ峰」と呼ばれ、1645年ごろから「乗鞍岳(元禄 飛騨国絵図)」(角川日本地名大辞典・巻21)に定まったというのが通説である。位山(平安時代 古今和歌集)、朝日岳(信州側)、日岳、愛寶山(三代実録・貞観十五年)、騎鞍岳(長谷川忠崇の 飛州志)、くらがね(斐太後風土記)、(祈座のりくら)と歴史の中で変遷したり、裾野の広い乗鞍岳なので、様々な呼び名があった。
大正13年 丹生川村青年団によって「乗鞍花園道」が切り開かれる
観光地として多くの人たちに親しまれるようになったのは、県道5号乗鞍公園線、通称「乗鞍スカイライン」の恩恵が大きいだろう。太平洋戦争が激化する中、米軍の爆撃機に対抗するため、旧陸軍航空本部が昭和16年に突貫で軍事用道路(延長15km、幅員3.4m)を建設し、高地実験所を作ったのが始まりとされる。高高度でのエンジンテストが可能で、敵航空機からの目視されにくい地形を乗鞍が持ち合わせていた為、選ばれたと推測できる。進駐軍の接収を受けるに当たり、ほとんどが地中に隠滅されたが、現在でも当時を伝える痕跡を見つけることは不可能ではない。
接収解除後、昭和23年に、県道として認定され、戦後に登山ブームが訪れると予想した濃飛乗合自動車株式会社初代社長 上嶋清一と高山市によって、旧道の拡幅改良を行うに至った。 「日本一標高の高いところを走る道路」として全国的に有名になり「下駄ばきでも登れる乗鞍」とまで言われるほどになる。昭和24年には天井ガラス張りのロマンスカーバスが運行されている。
乗鞍の歴史を知るうえで、とてつもない構想が動いていたことも忘れてはいけない。昭和41年、県の総合開発計画「アルプス、スカイライン構想」が創案され、建設準備室を設置するまでに至っている。高山市大洞を起点として、乗鞍・御嶽稜線を南下し、下呂、川上村へと至る延長186kmの大計画だ。約一年半に及ぶ建設基本調査は、現実味を帯びたもので、今でも、とんでもない場所に測量跡を見ることができる。この構想は、現環境省にあたる厚生省によるルート変更要請等、採算の問題から、既設道路の拡幅改良に落ち着いた。 実現していたら、乗鞍と御嶽の自然がはたしてどのように扱われたか、想像はたやすい。
昭和29年には利用者の増大によって「主要地方道」に昇格されたものの、急こう配、狭い幅員の未舗装道路は車社会のニーズには応えられず、ピーク時には交通制限を余儀なくされていた。(昭和42年のピーク日に5.600台が利用したというデータがある)先に述べた「アルプス・スカイライン構想」の代替案として、昭和44年に有料道路事業の認可を受けて県道乗鞍公園線を大幅に改良、昭和48年に山岳有料道路「乗鞍スカイライン」が完成した。
「乗鞍スカイライン有料道路」としてオープンしマイカーや観光バスで多くの人が観光や登山で訪れるようになったが、環境への負荷や、登山者のモラル低下などが大きな問題となる。
平成15年4月に有料道路としての料金徴収期間を終了し、過剰な利用から自然を守るため、マイカー規制を開始。
交通手段が比較的楽な高山帯として、様々な研究機関や大学のモニタリング調査も多く行われている。
平成24年 観光客の減少に伴い、環境保護と観光のバランスを模索するためEV自動車の乗鞍スカイライン乗り入れ試験を開始。
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