『ハムネット』(Hamnet)['25]
監督 クロエ・ジャオ


 今なお上演が途切れない劇作家シェイクスピアの時代と言えば、ICTどころか、電気ガス水道さえもない十六世紀なのだから、現代人には想像も及ばない野性が人間に備わっていた時代であることをジェシー・バックリーの圧巻の演技によって見せつけられた気がしている。妻アグネスの剥き出しの野性とともにある確かな悟性を窺わせて見事な造形だった。

 先ごろ観たばかりのウンタマギルー』['89]の日誌に、1970年頃の沖縄について異界と現実世界が地続きになっているような神秘と不思議の土地柄の魅力と記したが、十六世紀ごろは世界中の人間社会がそうだったに違いないという気がする。

 本作には名台詞として知られる【ハムレット】の生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ(To be, or not to be: that is the question)とともに、【マクベス】のきれいは穢ない、穢ないはきれい(Fair is foul, and foul is fair.)も出て来ていた。○か×か、右か左かといった“分かりやすさ”と称される、浅はかさというか愚かさの代名詞として人口に膾炙されるに至っている現代が失い、大統領や首相の言葉でさえも口から出任せの軽さで流通するようになった現代が喪っている“言葉の重みと力”が、この時代には確かにあったことが描かれていて痛烈だ。

 人にとっての価値の重みが偏にカネに片寄る時代とはまるで異なる“演劇の持つ力”が見事に現出されていたラストの場面には、圧倒された。折しも先ごろ国立美術館・博物館に重いノルマ。未達成なら閉館含めた再編も── 国が突きつけた、第6期中期目標の衝撃といった記事が報じられていたが、文化・芸術の存在価値をも金勘定で測ろうとすることに臆面もなくなっている有様に対して本当に唖然としただけに、とても時宜に適っていると感じた。

 本作のタイトルが、ハムレットでも、シェイクスピアでも、アグネスでもなく、ハムネットになっていることの意味など、この中期目標の設定を支持するような人々には、とうてい理解できないのだろうが、電気ガス水道もない十六世紀のハムレットの舞台に参集した観衆には、ただ涙するだけではなく、手を差し伸べるほどに共感し、心洗われる感性が宿っていたことを示して感慨深いラストだった。

 ここにいては駄目になってしまうからと追い立てるようにロンドンへ送り出してくれたアグネスから、ウィリアム(ポール・メスカル)の不在こそがハムネット(ジャコビ・ジュープ)の夭折を招いたかのように詰られ、己が不在中の務めを幼い息子に押しつけた引け目に傷みつつも、劇団を背負う者として再びロンドンに向かう決意を固めるまでの苦悩こそが『ハムレット』を書かせたように描かれていた気がする。言わばハムネットこそが『ハムレット』の産みの親だったわけだ。

 そして、その悩み苦しむ姿を舞台に結実させた公演を目の当たりにして、このうえない供養のように感じるとともに、ウィリアムの胸中を感知して思わず手を差し伸べていたアグネスに感銘を受けた。さらには、そのアグネスの心からのカタルシスが劇場に集った観衆に伝播していくさまに心震える思いが湧いた。これぞ演劇の力の真骨頂のように感じた。
編集採録 by ヤマ

'26. 4.12. キネマM



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