【宇佐美】 中日詩人会の元会長でいらっしゃいます黛元男さんから、お願いいたします。
黒部さんは若いときに、松阪の方でしたので、初期の頃から名前をよく知っておりました。それで私が今も大事に残している詩の雑誌が一冊あるんですが、その頃の素朴な詩誌で、こういう表紙で裏表紙がこうで、なぜ大事かといいますと、この号は 「三重詩人」の9号 で、第二次「三重詩人」の創刊号なんです。
その意味と、もうひとつ、この号に黒部節子さんが作品を寄せてみえるというところがあるんですね。で、51年の11月、昭和26年ですから、黒部節子さんは当時19歳の若さなんです。
載せてみえる作品は、 「埋葬」 という作品で、少し暗い作品だけれど、彼女の心象風景がはっきりイメージされて描かれているといういい作品なんです。
この作品が発表されて、その次の年くらいに、「三重詩人」の合評会に出てくれました。
そのときに私初めて黒部さんにお会いしたんですけれど、当時はみな詩人は若くって(笑)、 20代の前半の人たちがですね、20人ぐらい集まった。だけど黒部さんはまだ10代ですから、ひときわ清楚な若さで、輝いて坐ってみえたというのが、まだ私の瞼に残っております。
そういう思い出の頃があって、それから、その当時は 「詩表現」 に入ってみえたと思うんですが、その後「暦象」に入られて、そして岡崎の方へ転居された、というふうに想像してるわけです。
それからもう一つのお話しはですね、これは90年代の半ば頃に初めて気がついたんですけれど、御主人の研二さんと私は三重大の農芸化学科の一年違いの同窓生だということが分かりまして(笑)、二人ともこれは本当に驚いて、世間というのは広いようで狭いなあという実感を抱いたんです。
ですから御主人は自然科学系の方なんですね。詩人の節子さんとどうだったんか(笑)、ちょっと心配したんですけれど、だけど第一詩集の 『白い土地』 はですね、その研二さんがちゃんと装丁をしてみえるわけですね。だからうまくやってみえたんだなあ(笑)と思います。
20年にわたる介護を尽くされて、本当に大変だったと思います。ご苦労さんでしたと、私感謝申し上げたいんですが、どうか、研二さんもこれから是非長命されて、節子さんの分も生きていただきたいと思います。
そういうことをお祈りして、スピーチに替えさせてもらいます。ありがとうございました。
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●「三重詩人」9号51年11月刊
●「埋葬」
輪唱が絶えた。
それから、まだつづいていた。
かろく、すきとおった翅。
かたかたと鳴る骨の形。
まろい、蛾らの裸踊。
はね。無数の触覚。
そして、また、夥しいかげろうのねむり。
死蝶の眼。また、それらの睡り。
まっ二つの、
黒い、愛らしかったものらの、
心臓。
(…後略)
→全文は
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●「詩表現」47年〜85年
1947年創刊の詩誌。編集人は松阪南高校の国語教師でもあった親井修氏。
現在確認できている節子の最初の詩は、「詩表現」15号(49年7月)に掲載された
「眼」
である。
1号〜14号までのバックナンバーは見つかっていない。写真は、「詩表現」30号。
●『白い土地』57年8月刊
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装丁=黒部研二
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