【北川】 建築家でいっらしゃいます今井裕夫さん、よろしくお願いいたします。

 僕はこういう場所にあんまり出てこないという心理状態だったんですが、黒部節子という美しい懐かしい名に呼びとめられてここに来ました。さきほど写真に写っておりました美術家の 久野真 さんとか、桜画廊の 藤田八栄子 さんとか、その辺の周辺で建築の設計活動をしていましたので、今黒部さんと一緒に写真に写っている男性の方の写真を見てますとね、久野さんと同じような表情をして黒部さんのこと見てたなあなんて(笑)思いました。僕は傍からいつも見てたわけです。
  僕は黒部さんの詩と最初に出会ったのは、今思い返してみると、1965年の初冬だったと思います。中日詩人会の、例会だったか朗読会だったか忘れましたが、そのようなものがありまして、丸山薫さんが見えてたような気がします。場所は景雲橋でした。そこで、黒部さんの 「空の果ての見えない星の下で」 というのが朗読されました。
  それがすごく印象に残る詩で、当時ベトナム戦争に対してだったかどうかは判りませんが、反戦的な意味合いを含めながら、そう直接的にはその事を言わない……。僕は、ああこういう反戦詩を書ける人がこの地には住んでいるんだと強く思いました。

  その後、『もう誰もいません』ですか、『いまは誰もいません』ですか――僕はいつも「いま」を「もう」と言っちゃうんですが(笑)、 『いまは誰もいません』 という詩集ですと、だいぶ言葉と言葉の間が距離がある感じですが、あの詩は、すごくドラマというか、全部繋がっているようなリズムの言葉を記憶しています。あんな詩を書ける人が、名古屋にはいるんだと強く印象づけられました。

 同時に、 小池亮夫(こいけあきお) という人の遺作の詩集が出まして、その中の「平田橋」―Hにおくる私の紅という詩が印象に残っています。そのとき千円か千五百円がなくて、その詩集が買えなかった記憶がありまして(笑)、今二冊持っている人がいたら譲ってもらいたいなとは思うんですが(笑)。この二つの詩が、その時朗読されましたので、僕のイメージの中では、この二つの詩が、その時間とともに、分かちがく重なっています。
  あと黒部さんとは桜画廊で何度かお話しする機会がありましたが、特に印象に残ることはありませんでした。たまたま僕は芸大の建築にちょっと関係がありましたので、あそこの 建築の実技の試験 はどんな具合ですかと聞かれたことがありました。
  「空の果ての見えない星の下で」という詩が、詩人黒部節子と僕との時間をこえた永遠の接点です。




久野 真(1921-1998)

名古屋市にあって活躍した現代美術家。1950年代に石膏を画材にした絵画作品を発表し、1960年代からは鋼鉄をおもな画材とし、以後一貫して金属による絵画表現を探求しつづけた。黒部節子とは、1965年に朝日新聞に連載された詩画『柄』でコンビを組んだ。 節子作品集『耳薔帆O』(69年)では、ブックデザインの他に制作上のサジェスションも与えたようである。

藤田八栄子(1910〜1993)

「桜のオバチャン」として慕われ、多くの美術家を輩出した桜画廊の主。その飾らない人柄や、 戦後の日本現代美術に果たした役割りについては、今も語り継がれている。 93年の死去にともない桜画廊は閉廊したが、翌年には藤田八栄子追悼展「桜画廊と作家たち」が開催され、 また今年(04年)7月には、庄司達氏らの尽力により、 「藤田八栄子の軌跡 桜画廊34年の記録 1961〜1994」集が発行された。

●「空の果ての見えない星の下で」
詩集『空の中で樹は』(1966)所収
初出は、「アルファ」17号(65年4月)

「空の果ての見えない星の下で」
空の果ての
見えない星の下で
いましがたひとりの兵士が死ぬ
一片の襤褸が 地におちるように

そして こんなにはなれたところで
わたしは立っている
わたしの足の下にある土は
そのはるかな部分で
くろい血を吸って 少し重くなる
わたしをとりまいている親しい空は
そのかくれた半分を ただれた
不当な時間のためにちぢらしている

(…後略)全文は→ こちら

●詩集『いまは誰もいません』(74年)

小池亮夫
詩人の小池亮夫が急逝したため、友人たちが作った遺稿詩集がこの詩話会で朗読されたものと思われる。

建築の実技の試験
三男の三樹が大学受験期に建築科志望であったため、東京芸大建築科出身の今井氏に入試情報を聞いたのではないだろうか。

黒部節子さんを偲ぶ会