追熟のすぎたる桃のあやふさにそつと手触るるやうなもの言ひ
この池の鯉も老いしかくろがねの体(たい)のはつかに金色を帯ぶ
人の世は不穏なれども咲きいづるさくら さくらは知らぬ顔せり
よき歌は菩薩ならむよこころどにほつと小さき灯りがともる
ふみづきを降りみ降らずみ長梅雨のなかなか霽(は)れぬコロナ鬱かも
脳病むにあらずよ妻は厭離穢土(えんりゑど)遂げてほほゑむ結界のなか
藤棚を透く秋の日のやはらかく生死(しやうじ)のさかひおぼろにしたり
老い坂は下りならんよたらたらと生きつつ少し加速度がつく
二人きて「よいしょ」と運び出ださるる冷蔵庫白き柩のごとし
永蟄居(えいちつきよ)命ぜられてもおそらくは平気の平左衛門よわれは
秋のいろ褪せゆく苑に大公孫樹ひとつ黄金をたもつ荘厳(しやうごん)
ドッグランは無秩序(カオス)と見えて人間の知覚を超えた秩序(コスモス)のある
折り紙の蛙をピョンと跳ねさせてすこしさびしい冬の指さき
みなづきは夢のなかにも雨ふりて誰かに傘をさしかけてゐし
アカシアの花ぬらす雨したたりて傘に鳴るとき傘は抒情す
秋空にしんと冷たきひかり満ち飛行機雲はながく崩れず
かたつむりが格子をのぼりつめるまで見てゐしころのわうごん時間
多く知り多く忘れて多く会ひ多く別るる倍速時間
西方にまこと浄土のあるごとく夕陽を背負ふ阿弥陀三尊
人道的兵器といふがあるごとき「非人道的兵器」とは面妖な語ぞ
ありえざる死を見届けて帰る夜の雨音が傘に鳴りやまずけり
わくらばが葉を擦りながら落つる音きこゆるまでにしづけき真昼
いのちありて見るしろき雲あをき空いのちといふはほんにさびしき
金と茶の色目きはやかカステラを黒き漆の皿に載せれば
猫好きは忍耐のひと寛恕のひと思惟ふかきひと情あつきひと
〈サイレントニャー〉のゆたかな無音もて猫族は人を思索家にする
2019年後半~2025年前半の464首を収めた第十歌集。2024年、19年間看取り続けた妻を亡くし、その挽歌は決して多くなく、静かに静かに詠われているが、そのことがかえって胸を打つ。戦地へ思いを馳せる歌もあるが、流麗な韻律によって、声高にならず詩に昇華している。この歌集で第18回小野市詩歌文学賞ならびに第60回迢空賞を受賞。