享徳の乱(6)応仁2年から文明6年、上野・下野の攻防、古河を追われた成氏の反撃、長尾景春の不満

(1468年~1474年)

享徳の乱、応仁2年(1468)新田・足利での攻防

1468年10月
 応仁2年10月、成氏は足利荘奪還のため天命(佐野市)に着陣。
 8日夕刻、上野綱取原(伊勢崎市)で合戦。 長尾景信・景春父子が率いる上杉方勝利。
 成氏方は桐生に退散。

1468年11月
 成氏は小曽根(足利市)に陣を移す。

1468年12月
 3日、武藏須加(行田市)で戦闘。
 12日、足利への攻撃の予定日であったが実施されず、足利奪還は成功しなかった。 成氏は古河に帰還。

 この敗退により成氏方の岩松持国の遺児、岩松三郎(成兼)は追放となり、岩松家純が晴れて新田荘を支配することになる。

1469年8月
 文明元年8月、新田金山城竣工。 岩松家純は五十子の陣から金山城に移る。
 上杉方は古河包囲網を固めてゆく。

享徳の乱、文明3年(1471)3月 成氏勢伊豆遠征敗退

1471年3月
 文明3年3月、成氏方の千葉・小山・結城らの軍勢が箱根山を越え、伊豆三島へ攻め込んだ。
 堀越公方政知は、駿河からの加勢を得て三島で防戦したが苦戦していた。
 そこへ上杉方の矢野入道が新手として参戦したので成氏方は箱根山を越えて退却した。
 山内上杉顕定の家臣、宇佐美孝忠が退却中の成氏方を待ち伏せして攻めたので、成氏方の軍勢は漸との思いで古河に帰城した。

享徳の乱、文明3年(1471)3月 上杉方長尾景信の窮地

 成氏方が劣勢と見た上杉方は古河への進撃を開始する。
長尾景信は子の長尾景春、弟の長尾忠景や武蔵・上野の一揆たちを率いて下野児玉塚(栃木市)に布陣。
 佐野氏が味方になると申し出たが、突如佐野城に籠もり成氏に従う姿勢を見せたので長尾景信は只木山(足利市)に移動、岩松軍が佐野城を攻めている間に勧農城を経て五十子に帰りついた。
 成氏方の策略に嵌った長尾景信が率いる上杉軍は危うい所で窮地を脱した。

享徳の乱、文明3年(1471)4・5月 上杉方の反撃

1471年4月 (進軍のタイミングと攻撃の順番は私見です)
 勢いづいた成氏方は足利荘まで進軍、更に新田荘の八幡河原(太田市)や佐貫荘岡山原(大泉町)に布陣。
 上杉勢は成氏勢を押し返して下野大窪(足利市)に布陣。
 また、岩松の軍勢は足利荘の鑁阿寺門前二本杉(足利市)に進み、只木山を越えて佐野天命に布陣した。

 4月15日、上杉勢は足利荘の八椚城を陥落、さらに進んで佐野荘の赤見城を陥落、樺崎城を攻め落とす。

1471年5月 (進軍のタイミングは私見です)
 5月23日、上杉勢は館林城・舞木城を攻撃。
 その後、上杉勢はさらに東の佐野荘赤塚(栃木市)に陣を移動。
 上杉勢は、幕府方に寝返った小山持政の誘導で児玉塚に布陣。
 上杉方が八椚城・赤見城・樺崎城・館林城・舞木城を陥落。
小山氏に続き、成氏方の小田氏・佐野氏も幕府方に寝返る。
 こうして上杉方が古河包囲網を固めていった。

享徳の乱、文明3年(1471)6月、成氏小篠塚城に御所を構える

1471年6月
 6月24日、古河城を守備していた沼田・高・三浦などが打って出て防戦したが、ついに落城し成氏は、下総本佐倉(酒々井町)の千葉孝胤のもとに逃れ。小篠塚城に御所を構えた。

享徳の乱、文明4年(1472)5月、成氏軍の反撃

1472年
 文明4年春、成氏は千葉孝胤や古河の野田、関宿の簗田、騎西の佐々木、下野の那須・茂木、下総の結城、上総の武田、安房の里見氏などの支援で古河城を奪回した。
 これにともない寝返っていた小山氏などが再度寝返って成氏方に付いた。

1472年5月
 成氏は、結城・小山・那須・宇都宮氏などの大軍を引き連れて足利荘に発向した。
成氏勢は新田荘八幡河原から佐貫荘岡山原に及ぶ利根川北岸に布陣、上杉方の本拠五十子の陣に対峙した。
 上杉方の勧農城が攻められ、城主長尾景人が戦死、嫡男定景が家督を継ぐ。
 この最中、五十子陣では岩松氏家臣である横瀬氏をはじめとする金山在城衆が成氏方と通じていると噂が立ち、人質を五十子陣に差出し収まる。

1473年6月
 文明5年6月23日、関東管領山内上杉家の家宰、長尾景信が死亡。

享徳の乱、文明5年(1473)11月扇谷上杉家当主戦死

1473年11月
 11月24日、成氏方は、五十子の陣へ大攻勢を仕掛けた。
 この戦いにより、扇谷上杉家当主、上杉政真が二十四歳の若さで戦死した。
政真には子がなかったため、持朝の三男定正に扇谷上杉の家督を継がせた。

1474年
 文明6年、松山城が成氏勢に攻略され城主上田綱直戦死。
松山城には成氏の重臣、関根重隆が入った。

享徳の乱、長尾景春の不満

 山内上杉家の家宰長尾景信が死去して約1年後、関東管領山内上杉顕定が山内上杉家の家宰職を景信の子景春ではなく、景信の弟長尾忠景に申し付けた。
 この決定を不満とした景春は、関東管領山内上杉顕定から離反して成氏に味方するような素振りを見せるようになっていった。
 長尾氏は景仲・景信の二代にわたって家宰職を務め、武蔵や上野の守護代も務めたことで所領も多く、景春はあなどれない勢力を有していた。