享徳の乱(7)文明7年から文明9年1月、長尾景春の乱勃発

(1475年~1477年1月)これ以降は太田道灌書状を原典とする記載が多く、道灌寄りの内容が多くなります。

享徳の乱、景春は道灌に顕定と定昌を討つと打ち明けた

1475年6月
 文明7年6月、太田道灌が長尾景春の不満の調停のため五十子陣へ向かうと、景春が使者を派遣して「五十子陣への参陣は無用、上杉氏への忠誠をやめる。」と伝えてきた。
 道灌が小川に着陣すると、景春が飯塚(寄居町)から出向いてきて、五十子陣で管領上杉顕定とその兄越後上杉定昌を討ち果たす計画を打ち明けた。
 道灌は管領山内上杉顕定の元に参上して「五十子陣で大事が起こらないよう配慮すべき。」と具申したが顕定は無視した。
アドバイスを無視された道灌は面白くなかったであろう。

1476年3月
 文明8年3月3日、長尾景春は軍勢を率いて五十子陣を離れ鉢形城に移る。

 駿河国では今川義忠が死去し家督相続の争いが起こる。 後に、関東を席巻する後北条氏の祖、北条早雲の登場である。今川家の親戚筋にあたる道灌は介入のため江戸をたつ。

享徳の乱、五十子の上杉軍は成氏軍と景春軍に挟まれた

1476年6月
 道灌、足柄山を越えて駿河に入る。随分とゆっくりした足どりである。

 この頃になると長尾景春の家臣や山内家の家宰に就任した長尾忠景に反感を抱く国人らが上野・武藏・相模で2~3千人を数えるようになった。

 景春は二千五百余騎の手勢で五十子の上杉軍を攻撃した。

 松陰私語に依ると、上杉顕定方都合七千余騎五十子近辺の榛沢(深谷市)、小波瀬(こわせ、本庄市)、牧西(もくさい、本庄市)、堀田(本庄市)、滝瀬(本庄市)などに陣をとり、鳥川をはさんで上杉方・成氏方、終日見合して馬を入れての戦は、まことに勝負もいまだ定まらないほどの大戦であった。
 とあり成氏と景春は示し合わせて北と南から攻撃し、上杉方は完全に包囲された。
 この後、景春は包囲軍を残して鉢形城へ引き上げた。

1476年10月
 駿河国の家督相続の争い事の調停を終えた道灌は江戸に帰城したが、江戸城に留まり五十子へは出陣しなかった。
    
1477年
 文明9年、水戸城に匿われていた佐竹義定が佐竹義俊方の刺客に暗殺されると、江戸通長はこれに驚いて義俊に降伏した。

享徳の乱、景春は上杉軍の本陣(五十子陣)を占領

1477年1月
 1月18日、長尾景春が鉢形城を出て再度五十子の陣を襲撃した。

 山内上杉顕定・扇谷上杉定正・越後上杉定昌・長尾忠景・太田道真らの武将がいたが、不意を突かれた上杉勢は、太田道真をしんがりとして利根川を渡り那波荘(伊勢崎市)を抜け、山内上杉顕定は阿内(あうち、前橋市)へ、扇谷上杉定正は細井(前橋市)へ、越後上杉定昌は白井城へ撤退した。
 景春は上杉方の本陣(五十子陣)を占領した。

享徳の乱、文明9年正月、景春は北武蔵の要所を手に入れた

 この時、
 江戸城には太田道灌以下、上杉朝昌・三浦義同・千葉自胤・吉良成高・大森実頼らが、
 河越城には太田資忠・宅間上杉憲能・上田上野介・松山衆が、
 金山城には岩松家純が、
 深谷城には上杉房憲が籠もった。