治承・寿永の乱(9)鉢田の戦い

治承四年(1180)10月

 1180年10月
 治承四年十月十一日、北条政子が鎌倉に入り頼朝と再会。

 平維盛を総大将とし、忠度・知度らも加わり、侍大将として例の上総国司の藤原忠清が従った追討軍は、諸国の駆武者をかき集めながら進軍。

 追討宣旨は、源頼朝ならびに甲斐の武田信義を追討対象としており、平家政権は頼朝と甲斐源氏を別々の挙兵と認識していた。

 八月二十五日に波志田山で甲斐源氏の安田義定らと戦い敗走した駿河目代・橘遠茂は、長田忠致と共に甲斐勢力を撃滅すべく再び進軍。
 この長田忠致は平治の乱に敗れた頼朝の父義朝が東国へ敗走の途中、恩賞を目当てに騙し討ちにした張本人で、頼朝にとっては父の仇。

 甲斐源氏の、武田信義、一条忠頼、板垣兼信、武田有義、武田信光、逸見光長、河内義長、安田義定らは、追討軍が迫ってきていることを受けて若彦路を通って駿河国へ向けて南下。

 十月十三日、追討軍は駿河国手越宿に入った。

 夕刻、大石宿に宿泊中の甲斐源氏軍に、橘遠茂らが富士野を回って甲斐方面へ進軍中との報がもたらされ、先ず橘・長田連合軍を途中で迎撃することを決定。

 加藤光員と加藤景廉が武田軍に合流。
加藤景員と光員・景廉親子は、石橋山の戦いの後、箱根の山中に身を隠していたが。
年配の加藤景員は伊豆山権現へ行き出家。
加藤兄弟は山を下り、伊豆の国府に辿り着いたが、その後、散り散りに敗走。
そして、加藤兄弟は駿河国大岡で再会、この大岡は北條時政の後添 い、牧の方の出身の地とも云われている。
 その後、兄弟は甲斐国大原荘に身を隠していた。

 

鉢田の戦い

 十月十四日、武田信義らは、橘・長田連合軍を迎撃するため、駿河へ向け進軍を開始、鉢田で待ち伏せ。
 鉢田の位置は特定されていない。

 昼頃に、橘・長田連合軍が狭い山道を進軍中に武田信義らが襲い掛かる。(鉢田の戦い
 甲斐源氏方が勝利。

 夕刻には、富士野の伊堤の辺に陣を取り首実験を行う。
『吾妻鏡』では橘遠茂は生捕り、長田忠致の子供二人が討死したとなっているが、橘・長田の両名ともこの時に討死したのではないだろうか?

 大庭景親は千騎を率いて駿河の平維盛の追討軍に合流しようとするが、敵に行く手を阻まれ軍を解散し河村義秀の拠点近くの河村山に籠もった。

 十月十六日、頼朝は、平氏軍を迎え撃つべく鎌倉を出発。
夜、相模国府の六所宮に到着。

 十月十七日、頼朝は、下河辺行平を将とする分遣隊を波多野義常討伐に向かわせる。
 波多野義常は討伐隊が到着する前に自害。

 波多野義常の叔母は頼朝の兄・朝長の母で、波多野義通は妹の推挙によって義朝の家臣となっていたが、保元三年(1158)の春に不和となり、京を去り所領の波多野に帰って来た。
 この頃、頼朝が義通の甥である朝長の官位を越え、義朝の嫡男となっており、嫡男の地位を廻る問題が不和の原因と考えられている。しかし二年後に勃発した平治の乱では義朝方として参戦している。

 波多野義常の嫡男・有常は、頼朝方で母の実家・大庭景義に身柄を預けられた。七年後の文治四年(1188)四月、許されて鎌倉政権に仕え、父の本拠地、松田郷を与えられ松田氏を名乗った。忠綱も後に鎌倉政権に仕えた。
 波多野氏の本領である波多野荘は義景が継承して波多野氏は存続してゆく。

 『吾妻鏡』には、波多野義常が石橋山の戦いで大庭景親軍に加わつたと云う記述は無いが、頼朝が蜂起する前の七月十日の条に「頼朝の召集に従わないばかりか、無礼な言葉を吐いた」との記述が有る。

 この頃、追討軍が駿河国高橋宿まで進軍。
 武田方より「浮島原でお目にかかりたい」と言わば挑戦状が届く。