治承・寿永の乱(6)房総半島の情勢

治承四年(1180)8月

 

 下総守・藤原北家為光流の藤原親政は平清盛の妹を室とし、妹が清盛の嫡男の側室となっており、平氏政権に近い存在で、常陸・下総・上総に勢力を広げていた。

 一方、房総平氏は、常長の子の代に、上総氏、千葉氏、そして鴨根氏を始めとした多くの氏族が派生しており、夫々の事情によって平家方・反平家方に分かれていた。

 秀郷流藤原氏の流れを汲む伊勢国の藤原氏、またの名を伊藤氏は伊勢平氏譜代の有力家臣で、この藤原忠清が「治承三年十一月の政変」に関連して上総介に任ぜられる。 藤原忠清は目代を置き在京していた。
 ちなみに、九月二十二日、平維盛が追討使として福原を出発するが、忠清は侍大将として付き従っていた。

 上総広常は忠清と対立。申し開きのため上洛した広常の子が拘禁されるなど。広常は、反平氏の思いを強めていた。

ついでながら、同じ「治承三年十一月の政変」に関連して平時家が上総国へ配流となった。時家は清盛の甥。
 継母の讒言により配流となった時家は広常の娘婿となる。
 時家は都の作法にも通じていたため、平氏の滅亡後も頼朝の側近として活躍した。

千葉氏の領地紛争

 千葉氏はどうか? 五十年程前、千葉常重は相馬御厨を巡って当時の下総守・藤原親通から官物未進を理由に相馬御厨を召し上げられてしまう。その後、紆余曲折があり久安二年ごろになりようやく返却を実現する。
 しかし、永暦二年には下総に進出した佐竹義宗に奪い取られてしまう。
 千田荘を巡っては平治の乱で源氏が敗走すると藤原親政に奪い取られてしまう。
 千葉氏は藤原親政や佐竹氏に恨みを抱えていた。  この様に、上総広常・千葉常胤は平氏政権に近い藤原親政への反感をもって居り、頼朝に加勢する土壌ができていた。