治承四年(1180)8月

河内源氏一族は鎌倉を関東での活動拠点として、常陸には佐竹氏、上野には新田氏。
下野の足利義清は、以仁王方として参戦していた、しかし足利氏の活動拠点は都であった。
これら関東で地盤を築いていた河内源氏の一族で頼朝軍に加わる者は無かった。
甲斐源氏では、僅かに安田氏が動きを見せていたが、武田氏に目立った動きは見られない。
木曾の義仲にも未だ目立った動きは見られない。
頼朝の弟・阿野全成だけが頼朝に合流しようと下向して来たが、頼朝が石橋山の合戦で大敗し敗走していたため、渋谷氏に匿われていた。

代々河内源氏に従ってきた高望王流桓武平氏の一族はどうであろうか。
頼朝軍に加わっていたのは、北条氏、中村氏一族、三浦氏。
鎌倉氏一族の対応は分かれていた。
また上総氏の中では、三浦義明の娘婿であった金田氏が三浦氏と行動を共にした。
秩父平氏の畠山氏、河越氏、江戸氏は大庭軍に属した。同じ秩父平氏の豊島氏、葛西氏は態度を明らかにしていない。秩父平氏の渋谷氏、心は源氏方だが大庭軍に属した。


秀郷流藤原氏の一族では、頼朝軍に加わるものは無かった。

藤原南家の流れを汲み、伊豆に基盤を持つ工藤氏の一族では、頼朝軍に加わる者が多かった。
この様な情勢の中、安房へ逃れた頼朝は再起をはかった。
