1183年4月~6月

1183年4月
寿永二年四月、これまでに北陸の諸将達は平家への防御を固めるべく越中では宮崎・石黒氏が宮崎・木曽ヶ平・御服山(白鳥城)に、
加賀では林・富樫氏が高尾・根上・安宅・篠原に、
越前では平泉寺斉明らが長畝・今庄(燧城)に城を築いていた。

平家が北陸に出陣する。
この時の宣旨は「源頼朝、武田信義の追討」であり、追討対象は義仲ではなかった。
大将軍は平維盛、そして通盛、行盛、経正、忠度、知度、清房。
侍大将は平盛俊、盛嗣、そして富士川の戦いで侍大将を務めた藤原忠清(秀郷流藤原氏)の子供達・忠綱、忠光、景清など。

本隊は敦賀を経て木ノ芽峠越えの道、別動隊は栃ノ木峠越えの道を進み、南条郡今庄で合流した。
これに対し、北陸の反乱勢力は藤倉山東端の燧城で向え討つべく、能美川と鹿蒜川(かひる)をせき止めて追討軍の渡河を防いだ。
守備の主力は稲津実澄、平泉寺の長吏・斉命、林六郎光明、富樫入道仏誓、斎藤太など、越前・加賀の勢力。
燧城の戦いが始まる。

四月二十七日、攻めあぐねた平家軍は数日間城を包囲していたが、斉命が平家に寝返ったため落城した。
斉命はもともと平通盛軍に属していたが、養和元年九月に北陸の反乱軍側に付いていた。
斉命の再度の寝返りを長門本『平家物語』では平家の侍大将盛嗣との外戚関係としている。
他の越前の武将と同様平家と反平家の間を揺れながら内乱を乗り切ろうとしていたのだろう。
平家進軍の知らせを受けた義仲は今井兼平に兵六千を付けて先遣隊として越後国府を出発させた。

平家軍は斉命の案内で越前を席巻。
加賀に入った平家軍は安宅で北陸反乱勢力と合戦。(安宅の戦い)
越中の宮崎と石黒は深手を負うが、二人を越中へ逃がすため加賀の井家二郎範方(いのいえ)と津幡小三郎隆家(つばた)らが楯となって戦死した。

平家軍は別動隊を北上させ、志雄から能登半島を横切って越中側の氷見に出るルートに向かわせた。
林・富樫が籠る高尾城が攻め落とされ平維盛の軍勢が大西山に着陣、加賀も平家に席巻された。

1183年5月
平維盛は義仲軍を越中・越後国境で迎え撃つ作戦を立て、越中の地理に詳しい越中前司の平盛俊に兵五千を与えて先遣隊とし越中へ進軍させた。
しかし、義仲軍の先遣隊・今井兼平が平家軍より先んじ越中に入り御服山に布陣し、平家軍を迎え撃つ体勢を整えた。
五月八日、越中を進軍していた平家の先遣隊・盛俊軍は、今井兼平軍が御服山に布陣したことを知り般若野に留まる。

五月九日明け方、盛俊軍が般若野から前進しないことを察知した今井兼平軍が奇襲を仕掛ける。(般若野の戦い)
午後になり平盛俊軍は戦況不利に陥り退却。
その頃、義仲の軍勢は越中国府に到着しており、道々で従軍して来たものも含め五万の軍勢を六渡寺(ろくどうじ)で整え、埴生へと向かった。
平家軍は、能登国志雄山に平通盛の三万余騎。
砺波山に平維盛・行盛・忠度らの七万余騎の二手に分かれて陣を敷いた。

五月十日、今井兼平軍が義仲軍と合流。
安宅から逃れてきた宮崎・石黒、加賀の林・富樫ら北陸諸将も含めて、軍議を開く。
二手に分かれた平家軍に対抗するため、能登の土田を先導に源行家と義仲四天王の一人・楯親忠を兵一万騎を付けて志雄山へ向かわせた。
ここで加賀の林・富樫は平家の逆走を防ぐため、倶利伽羅の山々を迂回して加賀に戻ることを申し出た。そこで義仲四天王の一人・樋口兼光に三千騎を付けて向かわせた。

五月十一日、平家軍の背後に回りこませた樋口兼光らが着陣するまでの時間稼ぎのため、今井兼平が矢立まで進み小競り合いを仕掛けた。
更に、余田次郎・宮崎・向田の三千騎を安楽寺から平家軍の北側へ。
そして、今井兼平の二千騎、巴・水巻兄弟の千騎、根井小弥太らの二千騎を夫々密かに地獄谷に忍ばせた。(倶利伽羅峠の戦い)

こうして昼間はさしたる合戦もなく過ごして平家軍の油断を誘い、平家軍が寝静まった夜間に大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。
浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。こうして大混乱に陥った平家軍は大敗した。

この戦いで、平知度は源親義(甲斐源氏、岡田親義)・重義父子と相打ちとなり討死。
平知度は治承・寿永の乱における清盛一族の最初の戦死者となる。

五月十二日、義仲は志保山に援軍として二万余騎を率いて向かう。
氷見の湊を渡河し駆け付けると、行家軍は散々に蹴散らされていたが、義仲軍は平家軍を圧倒し勝利。(志保山の戦い)

1183年6月
六月一日、南加賀の篠原で敗走中に追撃を受けた平家軍の斎藤実盛は自陣が総崩れとなる中、殿を引き受け奮戦した。
斎藤実盛は、義仲の父が大蔵合戦で討たれた際に幼い義仲を木曾へ逃がし救った人だが、義仲の手勢に討ち取られた。(篠原の戦い)

六月六日、敗れた平家軍が帰京。
六月十日、義仲は、越前に入る。
