治承・寿永の乱(20)頼朝の信濃侵攻

1183年3月

 

頼朝の信濃侵攻

 頼朝の信濃侵攻に付いては、『吾妻鏡』が欠落しており、疑問な点も有るが、『平家物語』の記述を基にあっさりと追ってゆく。

 1183年3月
 寿永二年三月上旬、頼朝と木曾義仲の間で仲違いすることがあった。
 頼朝は義仲追討軍を信濃に派遣する。依田城にいた義仲はこれを聞き、越後と信濃の国境の能坂山に陣取った。

 頼朝軍が善光寺まで進軍したところへ、義仲が今井兼平を使者として派遣し。
 「頼朝は東海道から攻め上がり平家を追い落とそうとしている。 義仲も東山・北陸両道から平家を追い落とそうとしている。 この様な時に両者が戦うのは平氏を利するばかり。 源義行は頼朝に恨み事があるということで、義仲の所に来たが、義仲は頼朝を少しも恨んではいない」  と伝えさせる。

 頼朝は、謀叛の企てがあると云う者がいるとして。土肥実平と梶原景時を先鋒とした軍を向かわせた。

 義仲はこの報により、遺恨がないことを示すために、十一歳になる嫡子の義高(義重)に、海野・望月・諏訪・藤沢などをつけて、人質として頼朝の許へ向かわせた。

 頼朝が義仲を攻めた理由には頼朝に敵対した源行家や志田義広を義仲が迎え入れた事。
 義仲が平家に接近しているとの武田信光の讒言と有るが、行家や信光の関与を疑問視する説も有る。

 理由は何であれ、頼朝にとっては武家棟梁の座を巡る主導権争いの中で、早めに手を打ったのではないだろうか?

源義高入間河原で討たれる

 1184年1月
 翌寿永三年一月二十日、義仲は、粟津の戦いで追討軍に討たれた。

 1184年4月
 四月二十一日、頼朝の娘・大姫の許婚として鎌倉に居た義高は、頼朝が誅殺しようとしていることを知り、鎌倉を脱出する。
 この時、義高の側近、海野幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ脱出した。
 夜になり事が露見し、頼朝は義高を討ち取るよう命じた。

 四月二十六日、義高は武蔵国・入間河原で堀親家の郎等・藤内光澄に討たれた。 この堀親家は伊豆国の武士で、頼朝挙兵当初から頼朝に従い、山木兼隆襲撃・石橋山の戦いにも参戦している。
 この時、義高は享年十二才だった。

 この事は内密にされていたが、七才であった大姫の知る所となり、大姫は病床に伏してしまう。

 六月二十七日、政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎等の不始末のせいだと頼朝に迫り、藤内光澄は斬首され、晒し首にされた。 この郎等も哀れであり、命令を忠実に守って手柄を立てたつもりが、逆に罪人とされてしまった。

 大姫は、のちの縁談も拒み通し、後鳥羽天皇への入内の話も持ち上がったが実現する事無く、二十歳で早世した。

 義高と共に鎌倉に来た海野幸氏と望月重隆は、その後鎌倉幕府の御家人となっている。