1183年2月~9月
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1183年2月
寿永二年二月二十三日の野木宮合戦は、その時期や内容について色々な説が有り謎が多い合戦です。
時期については、寿永二(1183)年二月二十三日説と、治承五年(1181)閏二月二十三日説が有り、二年間の隔たりが有る。
一般的には寿永二年とされている。
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この合戦には、北関東への勢力拡大を目論む木曾義仲の関与説もある。
また、参戦している者達は、殆どが、小山氏一族かその縁者、小山氏と同じ秀衡流藤原氏の一族でであり、小山氏と志田氏の単なる勢力争いによる戦闘ではないかとの説もある。
参戦している武士達は、小山朝政と、その郎党達、鎌倉から駆け付けた長沼宗政、小山朝光の郎党・小野寺道綱。
朝政の母・寒河尼の実家、宇都宮信房、と八田知家。
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そして、高望王流桓武平氏の小栗重成は地理的な近さから加わったか?
周辺を固めたのは、
下河辺行平と弟の政義。
藤姓足利有綱とその子供達。
そして、太田行朝ら。
主戦場ではなかった彼らは、小山氏本家から少し離れた間柄。
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この戦いには、頼朝の弟・範頼も参戦していると『吾妻鏡』に書かれている。遠江に居るはずの範頼はどの様な経緯で登場したのだろうか?
範頼はこの地域に何らかの地盤を持っていたのか?
もしくは小山氏と何らかの繋がりが有ったのか?
範頼の妻は安達盛長の娘。
安達盛長の妻は比企尼の娘。
範頼の外祖母である比企尼が領した地域との繋がりが窺える。
一方の小山氏、政光の先妻は、吉見頼茂 の娘と云われており、その子・朝信は吉見を名乗っていた。
吉見は比企尼が領していた事から範頼と小山氏は、比企尼を軸として繋がっていたのではないだろうか。
後に、範頼は、謀反の疑いを掛けられ、伊豆国修禅寺に幽閉され誅殺されたと云う。範頼の孫・為頼は小山朝政の娘を妻とし吉見を名乗っている。
この合戦の恩賞として結城を得た小山朝光は、結城朝光と名乗っていくが、朝光自身が参戦していたかは不明。
ちなみに朝光は頼朝の寝所警護のメンバーの一人。
寝所警護は、治承五年(1181)に弓の腕前が優れかつ忠実な者を選び、頼朝の警護をする役を定めたもの。
顔ぶれは、
北条義時。
宇佐美実政、あまり有名な人ではないが、伊豆の大見の庄の住人で、頼朝が石橋山の戦いで敗走した時、殿を務めた人。出自についてはハッキリしないが、高望王流桓武平氏?
三浦一族からは、和田義茂、三浦義連。
鎌倉氏一族からは、梶原景時の息子・景季が選ばれた。梶原景時は大庭軍であったが、しとどの窟に隠れる頼朝を見逃した人。
上総広常の上総氏一族からは無し。
千葉氏一族からは、千葉胤正。
秩父氏一族からは、榛谷重朝、なぜ選ばれたか?-弓の達人。そして、葛西清重、豊島清元・葛西清重親子は、頼朝が下総から武蔵に入る時、最初に出迎えた人。
中村氏一族からは無し。 伊豆の工藤氏一族からも無し。
比企氏や安達氏は、頼朝が流人時代から従い援助していたが、彼らから選ばれる人はいなかった。適任者が居なかったか。
秀郷流藤原氏では、結城朝光、下河辺行平。 そして、頼朝の乳母寒河尼の甥・八田知重。
この中で野木宮合戦に参戦している者は、下河辺行平、結城朝光のふたり、そして九月に足利俊綱追討軍に参加した和田義茂、宇佐美実政、葛西清重、三浦義連の四人も寝所警護のメンバーであり、実に半数以上が野木宮合戦に関わっている。
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