1183年2月~9月
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1183年2月
寿永二年二月、頼朝の叔父志田義広が鎌倉を攻める兵を挙げ、足利俊綱・忠綱父子を誘い軍に加えた。
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同じく志田義広に誘われた小山朝政は、父・政光が在京していたため兵力が少なく対応に苦慮した朝政は、義広軍に加わると偽り、野木宮での待ち伏せ作戦を取ることにした。
二月二十日、鎌倉に居た小山朝政の弟・長沼宗政などが援軍として下野に向かった。
小山朝政から返答を受けた志田義広は合流しようと朝政の館に向かう。
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二月二十三日、志田義広が野木宮の前に来た時に、小山軍の兵が等々力沢の地獄谷で一斉に鬨の声 を挙げ義広らを狼狽させる。(野木宮合戦)
小山軍は、小山朝政の郎党、太田菅五、水代六次、次郎和田、池二郎、小山朝光の郎党、保志泰三郎らが攻めた。
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その後、志田義広は野木宮の西南に陣を構える。
小山軍には援軍として鎌倉から駆け付けた長沼宗政が合流し、他には八田知家、下妻淸氏、小野寺道綱、小栗重成、宇都宮信房、鎌田爲成、湊川景澄らが加わり東から攻めかかる。
下河辺行平と弟の政義は、古河と高野などを固めた。
足利俊綱の異母弟・足利有綱と、その子供達の佐野基綱・浅沼広綱・木村信綱や、太田行朝らは小堤や小手差原に陣を張った。
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敗れた志田義広は木曾義仲のもとに走る。
頼朝に敵対した義広を義仲が受け入れたことが、後に頼朝・義仲対立の要因となる。
足利俊綱・忠綱親子は上野国山上郷に籠もった。
子の忠綱はその後、山陰道を通って九州方面に向かったがその後の消息は不明。
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1183年9月
九月になって、頼朝は、和田義茂に足利俊綱追討を命じた。
和田義茂は三浦義連・葛西清重・宇佐美実政と共に追討に向かったが、俊綱は追討軍が到着する前に家人に裏切られて殺害された。
藤姓足利氏の嫡流は途絶えるが、一門の多くは御家人として存続した。
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