治承・寿永の乱(17)木曾義仲と北陸反乱勢力

1181年7月~1182年9月

 

義仲が得田章通を地頭職に補任

 1181年7月
 木曾義仲が横田河原で勝利した翌治承五年七月、北陸で有力豪族たちの反乱が起こる。
 彼らは越後の実権を握った義仲の傘下に入る道を選択をした。

 十一月には、義仲が北陸の豪族・得田章通を地頭職に補任しておりこの頃、既に義仲は北陸まで勢力範囲を広げていた事が窺える。

 1182年3月
 寿永元年三月、敦賀に踏み留まっていた、平家方の源重貞が「謀反の源氏等が越前に入った」と京都に報告。都では反乱勢力としての木曾義仲は未だに認識されていなかった。

以仁王が脱出し北陸へ

 1182年7月
 七月、監視下に置かれていた以仁王の遺児が脱出、宮崎長康が御所を建て保護。木曾義仲は北陸宮と呼ばれる「錦の御旗」を手に入れた。

 1182年9月
 九月、平家全軍が京都に引き揚げ、敦賀も義仲の勢力範囲に入った。