1180年12月~1181年6月
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1180年12月
二年ほど時を巻き戻した治承四年十二月、市原合戦で木曾義仲に敗れた笠原頼直の逃走先、越後の城資永が「甲斐・信濃両国の反乱勢力を他人を交えず攻め落とす」と申し出た。
城資永は平清盛と同じ高望王流桓武平氏で母は、奥羽の覇者であった清原氏一族、清原武衡の娘と云われる。
清原氏は出羽国の有力士族、前九年の役で安倍氏を滅ぼし奥羽の覇者となる。しかし後三年の役により滅亡した。
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城資永の母と云われる女性、年齢的には年齢的にはどうであろうか?
むしろ永基の室ではないどろうか?
もしくは、資永の兄弟とされる長茂らは資永の子なのか?。
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ついでながら、板額御前、おおよそ二十年後、城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱で女性武将として奮戦した。
捕らえられた板額御前の態度に感銘を受けた甲斐源氏一族の浅利義遠(義成)が、鎌倉幕府二代将軍・頼家の許しを得て妻とした。その後、一男一女をもうけた。
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城資永は越後国奥山荘を拠点に、阿賀野川沿いに、南陸奥の会津。そして信濃川沿いに、越後中部・北信濃・北上野にも勢力を広げていた有力士族であり、平清盛とも親交が有ったらしい。
1181年2月
しかし、遠征の準備を進めていた城資永は、翌治承五年二月二十五日、急死してしまった。
1181年6月
城長茂が資永の跡を継ぎ、出羽南部や、会津なども加えた一万の兵を率いて北信濃に侵攻し、横田城に布陣する。
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一方の義仲は、信濃国佐久郡の依田城を拠点に木曽衆・佐久衆を従え、上野・北信濃へも勢力範囲を広げていた。
義仲の家臣団の中で義仲四天王と云われるは、樋口兼光,今井兼平,根井行親,楯親忠。
義仲の妻たちは、中原兼遠の娘・巴御前、伝承では海野氏の娘・山吹、栗田氏の娘・葵、そして金刺盛澄の娘ら。
中原兼遠は、大蔵合戦で命を狙われた幼い義仲を救った斎藤実盛から託され、匿って養育した人で、信濃権守で松本平にも地盤があり樋口兼光・今井兼平・巴御前の父。
義仲は三千ほどの軍を集結して北上。
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六月十三日、横田河原において両者が激突。(横田河原の戦い)
城長茂の軍勢は長旅の疲れや井上光盛の奇策により、兵力では遥かに劣る義仲軍に敗れ、長茂はわずか三百余人を率いて越後に逃げ帰った。
敗走する長茂軍は、以前から対立していた越後国府の在庁官人たちの追い討ちを受け、会津に逃込んだ。
しかし、会津では奥州の藤原秀衡による攻撃を受けて、わずか四・五十人となった長茂は、越後に身を隠した。
勝利した義仲は越後国府に入り、越後の実権を握る。
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