治承・寿永の乱(15)鎌倉の整備

1180年11月~1182年12月

 1180年11月
 治承四年十一月十七日、頼朝は鎌倉に帰還。この後暫らくは西国の混乱をよそに平穏な日々が続く。

 1180年12月
 十二月十二日、頼朝の屋敷・大倉御所が完成し転居の儀式が行われた。
 頼朝は、上総広常の邸宅(鎌倉市十二所付近?)から新しい御殿へと向かった。 和田義盛が先頭で、頼朝の馬の左側に加賀美長清、この人は甲斐源氏で平知盛に仕え、頼朝追討軍に従っていたが、富士川の戦いの直前の十月十九日、頼朝方へ下っていた。この時多くの将兵が頼朝方に寝返っていた。
 頼朝の馬の右側は毛呂季光(埼玉県入間郡毛呂山町)、この人は藤原北家の流れを汲む人物で季光の子・季綱が、伊豆時代の頼朝の従者を援助したという逸話があり、そのため准門葉として扱われたのではないか、とも云われている。
 行列は、北条時政・義時親子。この北条氏、頼朝が旗揚げした以降目立った働きも無いが、頼朝が伊藤祐親に命を狙われた時かくまった事と、政子の実家であり上位に格付けされている。

 続いて、足利義兼が続く、義兼の母は頼朝の母・由良御前の姪であり義兼は早い時期に頼朝に従ったと思われる。

 続いて、山名義範(群馬県高崎市山名町)この人、未だ頼朝に従っていない新田義重の子で、父・義重とは別の道をとっていた。
 義範は従兄弟にあたる足利義清の婿で、義清の弟である足利義兼ともしばしば行動を共にしていることから、義範は足利義兼と同じ選択をしたと思われる。
 尚、足利義清と義長は平治の乱で敗走し、木曾義仲の許に居た。

 千葉常胤・胤正・胤頼親子、安達盛長、土肥実平、岡崎義実、工藤景光、宇佐美助茂、土屋宗遠、佐々木定綱・盛綱兄弟らが続き畠山重忠が最後尾に従った。
 そして、お供の者達凡そ三百十一人は、侍所で二列に向かい合って着座し、中央には和田義盛が着座した。

 十二月二十二日、新田義重が頼朝に呼び出され、ようやく鎌倉へやって来たが、山内(鎌倉市山ノ内)に留め置かれた。 義重は頼朝軍への合流が遅れた理由を弁明し、安達盛長の取りなしで、ようやく許された。

 

 

 

 

 

 同じ日、新田義重の孫の里見義成(群馬県高崎市中里見)が京都からやってきた。義成は頼朝が旗揚げした時は、平家に従っていたが、関東に行って頼朝を襲撃する、と嘘をいい平家の許可を得て鎌倉に来た。
 頼朝はその志が義重とは違うとして、御家人として認めた。

 義成は京都からの途中、千本松原(静岡県沼津市)で斎藤実盛と瀬下広親(群馬県富岡市瀬下)等と会ったと云う。
 挙兵した頼朝の名声が東国で高まっていることを承知のうえで、彼ら二人は平家に恩があるので、あえて平家に加わる道を選んだと云う。
 こうして、東国の武士達の運命は、西へ東へと分かれて行った。

 1181年2月
 治承五年二月一日、頼朝の意向で、足利義兼は北条時政の娘と結婚。
 又、甲斐源氏の加賀美長清は上総広常の娘と結婚。

 1181年7月
 七月二十日、鶴岳若宮の社殿の棟上式を行う。 頼朝は鎌倉の整備を進める。
 家臣たちも鎌倉に屋敷を構えていった。 しかし、その配置は記録が少なくはっきりしない。

 1182年1月
 養和二年一月二十三日、上総に流罪となったのちに、上総広常の婿となっていた、平時家が鎌倉に出仕して頼朝に仕えることになった。
 平家一門とはいえ蹴鞠や管弦・礼儀にも通じていたため頼朝から気に入られ、後に義父・上総広常は粛清され平家も滅亡するが、頼朝からの信頼は変わらず、鎌倉幕府初期の政治顧問の一人として活躍し鎌倉で穏やかな晩年を過ごしたという。

 1182年7月
 寿永元年七月十四日、新田義重の立場が更に悪くなる事態が生ずる。
 頼朝の兄・義平の室で未亡人となっている義重の娘に、頼朝が右筆の伏見広綱に言いつけて内緒で恋文を送った事が発端で、義重はこの事が政子にばれた時の事を恐れて、娘を他家に嫁がせてしまった。
 程なくして、八月十二日、政子が男子を出産。第二代将軍となる頼家の誕生である。
 河越重頼の妻・比企尼の娘が、乳母となる。

 十一月十日、右筆の伏見広綱は、頼朝の浮気相手の『亀の前』を自邸に匿っていた事から、政子の命令で屋敷を襲撃され、更に十二月十六日、遠江に流罪となった人。 しかし、彼は遠江出身であり、故郷に帰ったという事になる。 頼朝の浮気のとばっちりを受けた全く損な役回りであった。

北条氏と足利氏・新田氏の系図

 立場が悪くなった新田氏のその後は、同じ義国の子・足利氏と明暗を分けた。足利氏が、北条得宗家との姻戚関係を深めていったのとは対照的に、新田氏の存在感は低下していった。
 しかし、百五十年余り後、上野から武蔵へと入り鎌倉へと攻め込んだ新田義貞によって、鎌倉幕府が滅ぼされる事になろうとは、誰が想像し得ただろうか。

 新田義貞と木曾義仲がどうしても重なってしまう、政権とは無縁であった二人は、劇的な勝利の後、権謀術策渦巻く都の貴族たちに翻弄され、やがて越前あるいは近江で最期を迎えた。

 政子の妹、時子の嫁ぎ先である足利義兼、その七代後の足利尊氏が鎌倉幕府滅亡後、京に室町幕府を創る事になる。 尊氏の室・澄子は鎌倉幕府最後の執権・北条(赤橋)守時の妹、何という運命だろうか。