治承・寿永の乱(14)西国の反乱(2)

1180年11月~1181年9月 近江・美濃・尾張源氏の蜂起、墨俣川の戦い、北陸豪族の反乱

 近江・美濃・尾張・摂津では、清和源氏の各士族が蜂起する。

 甲斐源氏の安田氏は遠江まで来ている。

 木曾義仲は信濃の木曾谷。

 1180年11月
 治承四年十一月二十日、近江源氏の山本義経・柏木義兼兄弟が、近江国の勢多(滋賀県大津市)・野路(滋賀県草津市)で、平家の家臣、藤原景家一行を襲撃。
 藤原景家の軍勢は、平家打倒の兵を挙げた以仁王を討ち取っており、山本義経は以仁王の仇を討った事になる。
 近江源氏は琵琶湖を占拠し、北陸から都へ上る物資を遮断。 近江攻防が始まる。
 柏木義兼は勢いに任せ、京に打ち入ろうとするが、甲斐源氏が使者を送って、乏しい兵力での討ち入りを止めさせたらしい。甲斐源氏と近江源氏は連携していた。

 近江源氏が蜂起した同じ頃、摂津源氏の、能瀬高頼は、福原で人家に火を放ち東国へ向けて逐電し近江源氏と合流を企てる。

 

 1180年12月
 摂津源氏の能瀬高頼は、近江へ攻め込んだ平田家継により、十二月一日、討たれた。

 

 十二月二日、平家は、平知盛・平資盛・平信兼(山木兼隆父)・平貞能を派遣。

 また、同時期に園城寺に立て籠もった暴徒に対し、平清房とその侍大将・平盛俊が園城寺を攻撃。

 戦況不利となった近江源氏勢は、馬淵城に引き籠もる。

 十二月十三日、
 平家軍が反乱軍の拠点・馬淵城を攻略。山本義経・柏木義兼は逃れて山本城に籠るが、間もなく山本城も平家軍に攻められて落城。

 この頃、美濃源氏は、柏原の辺りに出向く。

 平家は、平維盛を、近江国に追加派遣。

 1181年1月
 治承五年一月、近江を制圧した平家軍は美濃に進撃し、美濃源氏の土岐光長の拠点を攻撃。

 一月二十日、蒲倉城の反乱軍を撃破。この合戦で尾張源氏の小河重清・葦敷重義などが戦死。山本義経の長男・箕浦義明も戦死。
 この戦いには平通盛も参戦している。

 この頃、頼朝の叔父・源行家が尾張国に現れる。平家軍は疲弊していたが尾張の反乱軍の制圧を計画していたが・・・

 1181年2月
 二月十二日、平知盛が病のために前線より京に戻ってしまう。代わりに南都を焼き討ちにした平重衡をの投入を計画するも・・・

 1181年閏2月
 閏二月四日、清盛が死去した為、平家軍の動きは暫らく止まる。

 清盛の跡を継いだのは、重盛の系統ではなく宗盛。
 宗盛の母・時子は、平時信の娘で後白河上皇の皇后・慈子(高倉天皇の母)の姉。慈子の妹・清子は、宗盛の妻。つまり、叔母であり・義理の姉は後白河上皇の皇后。
 そして同母妹・徳子(建礼門院)は、高倉天皇の皇后。 家柄が物を言う。

墨俣川の戦い

 十五日、平重衡が尾張制圧を目指して出発。

 1181年3月
 平重衡を大将とした平家軍、維盛・通盛・忠度・知度・盛綱・盛久等が墨俣川右岸に布陣。

 源行家の軍勢は墨俣川左岸に布陣。

 三月十日、行家軍は夜間の奇襲を企てたが敗退。(墨俣川の戦い
 この戦いで、頼朝弟・義円が討死。
 また、尾張源氏の山田重満が討死、足助重長は捕虜となり後に殺害されたという。
 足助重長が属す尾張源氏は河内源氏との間の姻戚関係による繋がりが強い、足助重長の娘は、鎌倉幕府二代将軍となる源頼家の室となっている。

 行家軍は、三河の矢作川まで敗走。

 平家軍は尾張国府を確保したのち、矢作川を挟んで対峙したが、折からの養和の飢饉のため兵糧の調達も難しく、それ以上進撃せずに撤退した。

 その後平家は反乱鎮圧の主眼を畿内・西国へ向けるようになり、東国に対しては奥州藤原氏を動かして鎮圧する事を模索する。

 1181年7月
 養和元年七月、越中・加賀で有力武士たちが蜂起した。

 八月、平家は追討使として平通盛を北陸道に送り込み、平通盛は越前国府に入る。

 九月六日、加賀の国住人等が坂井郡や大野郡に攻め寄せ、通盛軍との間で合戦。
 敗れた通盛は敦賀城まで敗走その後、敦賀城も追われる。

 以降、平家による北陸出兵は、養和の飢饉の影響で寿永二年(1183)四月まで見送られることになる。

 この北陸の反乱軍は、木曾義仲と合流し、七月の平家都落ちへと繋がってゆく。