治承・寿永の乱(12)金砂城の戦い

1180年10月~11月

 1180年10月
 治承四年十月二十七日、頼朝軍は常陸の佐竹氏を攻撃するために出発。

 十一月四日、頼朝は常陸国府に到着。

 相手の出方を探るため、上総広常が当主・佐竹隆義の留守を預かる義政・秀義兄弟と交渉、兄・義政は広常の誘いを受けて大矢橋に来たところ騙し討ちにあい上総広常に殺された。

 弟の秀義は常陸の金砂城に籠る。

金砂城の戦い

 頼朝は、下河辺行平・政義、土肥実平、和田義盛、土屋宗遠、佐々木定綱・盛綱、熊谷直実、平山季重らの軍勢を派遣。
 しかし、金砂城は山城で、頼朝勢は攻めあぐねていた。

 十一月五日、攻撃部隊からの苦戦を伝える報告を受け、上総広常が秀義の叔父にあたる佐竹義季を抱込む調略を提案。
 寝返った佐竹義季は、頼朝勢を城の背後に導き、そこで一斉に鬨の声を上げさせた。
 城内の佐竹秀義勢は予想外の方角から敵の声が上がったことで混乱し、統率がとれなくなってしまう。
 やがて頼朝勢が城内へ攻めこむと、秀義勢は敗走、花園城へと落ち延びた。(金砂城の戦い

 十一月六日、頼朝勢は、金砂城の城壁などを焼き払い破却し引き揚げた。

 頼朝は、これ以上佐竹秀義を追撃することはなかった。
 佐竹氏の当主・隆義の母は藤原清衡の娘であり、姻戚関係にある奥州藤原氏の介入を恐れていた。

 

 十一月七日、頼朝の叔父の源行家と志田義広が国府にやってきて頼朝と面会。
しかしこの二人、頼朝には合流せず独自の動きをして行く。

 

 十一月八日、頼朝は、常陸国府を発ち小栗重成の館に立ち寄る。

 小山氏の室・寒河尼の兄とされる宇都宮朝綱と、その嫡男・業綱は、大番役として在京しており、態度を明らかにしていない宇都宮氏など下野の勢力への牽制をおこなう。

 上野では、新田義重も態度を明らかにしていない。

 信濃から上野へ進出してきた木曾義仲は、藤姓足利氏と睨み合いを続けており、下野へ勢力を拡大する懸念もあり、事によると、こんな事を考えていたのかも知れない。

 これらの諸勢力への牽制の意味も有ったと考えられている。

 小栗重成の館を発った頼朝は、途中葛西清重の館に立ち寄り、 十一月十七日、鎌倉に帰還した。

 尚、吾妻鏡によると、木曾義仲は十二月頃信濃へ引き揚げた。