治承・寿永の乱(11)大庭軍の武士達のその後

大庭軍に加わった武士達の運命は?

 大庭景親は投降し上総広常に預けられ、十月二十六日、固瀬川(かたせがわ)で処刑され梟首された。

 石橋山の戦いで敗走する頼朝を追い、悪口雑言を浴びせた、荻野俊重も処刑された。

 平井久重(静岡県田方郡函南町平井)は翌治承五年(1181)四月十九日、処刑され腰越の浜で梟首された。
 彼は石橋山の戦いの際、伊藤祐親軍に属し、敗走した北条宗時を討った人。治承五年一月六日、相模国蓑毛あたりで工藤景光が生け捕り、和田義盛に預けられていた。 討取った相手が悪かった。
 石橋山の戦いで大庭方に付いた武士の中で、処刑されたのはこれら、わずかな人たち。

 河村義秀は、大庭景義に預けられ、死罪に処すよう申し渡しが行われていたが、結局処刑されず景義のもとで過ごした。

 曾我祐信は、十一月十七日に赦免されて頼朝に臣従した。

 佐々木義清は、富士川の戦いでは頼朝方に転じたが、義清が当初敵方であったため、一旦は兄・盛綱に身柄を預けられたが、まもなく許される。

 俣野景久は逃亡して平家軍に合流、その後倶利伽羅峠の戦いで討死した。

 

 長尾為宗は、石橋山で佐奈田義忠を討ち取った人で、その義忠の父親である岡崎義実に身柄を預けられ、死罪に処せられる所、岡崎義実が免罪を申し出て出家させた上、釈放した。

 

 長尾定景は三浦義澄の預かりとなる。

 彼もまた死罪を免れて三浦氏のもとで過ごし、三浦方の武士として和田氏の乱で戦功を立てたり、源実朝を暗殺した公暁を討ち取ったことで知られてる。

 山内首藤経俊は、土肥実平に身柄を預られたが、後に釈放された。
 経俊の父や兄は、頼朝の父・義朝に従って平治の乱に参戦し、討死した。
 また次兄の俊秀は父が討死した後、園城寺の僧・慶秀に入門する。その後、以仁王の挙兵に従うが山城国相楽郡で討死した。

 海老名氏(季久、源頼朝が鎌倉に入ると従う)、毛利氏(景行、和田合戦で討死)、糟屋氏(盛久、子が比企尼の娘婿)なども頼朝に従った。

 伊東祐親・祐清父子は、伊豆の鯉名から船を出して平維盛と合流しようと図ったが、天野遠景に捕らえられ、十月十九日黄瀬川の陣に連れてこられた。
 処罰が決まるまで伊東祐親の婿である三浦義澄に預けられる事となる。

 伊東祐親は、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、二年後の養和二年(1182)自害して果てた。

 祐清については、祐親が頼朝を殺そうとした時に、祐清がこれを教えて頼朝の命を救ったので、頼朝はその手柄に答えて賞しようとしたところ、祐清は「父親が敵として捕まっているのに賞をいただけない、暇をいただきたい平家の下に向かうために上洛いたしますゆえ」と言ったと『吾妻鏡』にある。
 『吾妻鏡』や『平家物語』では、祐清は平家軍に参加し、北陸道の合戦で打たれたと有る。
 しかし、『吾妻鏡』の別の条では父・祐親が自害を遂げた際、祐清が自らも頼朝に死を願い、頼朝は心ならずも祐清を誅殺したとあり、『吾妻鏡』の中に矛盾した記載がある。
 いずれにしても二~三年後には死去している。

 子供がいなかった祐清の妻・比企尼の三女は、源氏一門の重鎮として重きをなした平賀義信に再婚した。