深谷市・東方城と周辺の史跡めぐり

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社長

 

 


1.東方城(1)
 戦国時代、深谷上杉氏は深谷城を中心に、北に皿沼城・西に曲田城・東に東方城を配置し利根川の先の古河公方に対する防御を固めていた。
「平地よりやや高き丘をなし、城下沼を控え眺望佳也、里人城山とよび深谷上杉の家人の居城なりしといえども其何人なりしか伝えず」と大正八年頃の様子を大里郡郷土誌は述べている。
 近年、深谷上杉氏四宿老の一人「矢井伊勢守重家の弟、若狭守重任が東方城預る」と述べた古文書が発見され、城代を置いていたことが判明した。
 お庫屋敷・今井屋敷・お姫屋敷・城主別邸など、城に関係する名前や、仲間町・上宿・中宿・下宿など城下町に関係する地名も残っている。
今井屋敷跡、城主別邸跡やお姫屋敷跡に土塁跡が残っている。
 また大手門や、小高い岡の上に物見櫓があったと伝えられている。
 天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻めにより、深谷上杉氏は小田原北条氏と命運を共にした。
 徳川家康が関東に入った際、東方城に家康の妹の夫、松平丹波守康長が一万石の城主として入城した。
 入城から11年後、康長は関ケ原の戦いで軍功をあげ一万石加増され、上州白井二万石に転封され、東方城は翌年廃城となった。
2.東方城(2)
 東方城は沼を利用した要塞。
 北方の水田地帯を流れる城北川(丈方川、現・福川)は外濠の跡と思われ、篭で出来た篭関が有った。西には根岸沼が有り、東側に続く堀は古文書に依ると「だんだん峡小なり」と有り、押し出し関が作られており、篭関とこの関を閉めると辺り一面が水で覆われる。
 篭関の辺りには堀の土を積み上げて造った、新堀山あるいはお蔵屋敷と呼ばれる郭が有った、ここに食糧・武器・火薬などを備蓄した。
 今井屋敷の北に馬場に通じる通路が有り、押し出し関からお蔵屋敷に繋がっていた。戦闘時には湖に浮かぶお蔵屋敷へはこの通路から出入りした。
 この辺り一帯の低地は、明治に入りレンガ工場のレンガ用の粘土の採取用地として微高地も崩され、開墾して水田となった。
 往時を偲ばせる関場・城下・流などの地名が残っている。
3.松平康長(戸田康長)
 天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻めにより、深谷上杉氏は小田原北条氏と命運を共にした。
 徳川家康が関東に入った際、東方城に家康の妹の夫、松平丹波守康長が1万石の城主として入城した。
 松平丹波守康長は、豊橋の二連木城に生まれ、5才にして父に先立たれたが、父の勲功により遺領と松平の称号を賜った。
 康長は家康の異父妹「松姫君」と婚約、この時、康長は6才、松姫は3才。
 天正12年(1584)の小牧長久手の戦いに軍功をあげ、東方城に移封された。
 康長の在城は僅か11年間だったが、関ケ原の合戦で手柄をたて論功行賞で加増され上州白井城に転封となる。
 以後転封を重ね、元和3年(1617)加増され7万石で信濃松本城城主となっている。
 康長は松姫との間に嫡男永康と娘を儲けたが、松姫は天正16年(1588)、三河国二連木で24歳で没したので、東方城には来ていない。松姫は二連木の全久院に葬られている。
 東方城入城後、康長はイナムラ某の娘を後妻としたと云う事で、慶長3年(1598)次男忠光が東方城で誕生した。
 元和3年(1617)三男庸直(やすなお)が誕生、この時康長は56才。
 しかしそれから2年後、嫡男永康が没し、次男忠光が嫡男となる。3年後、元和8年(1622)忠光の子、光重が誕生。その7年後、嫡男忠光が32才で没してしまい、三男庸直が嫡男となる。
 3年後、寛永9年(1632)康長が71才で没した、戸田松平家の家督は三男庸直が16才で継いだ。
しかし2年後、寛永11年(1634)庸直は18才の若さで急逝した。庸直には子が無くお家断絶になるところであったが、徳川3代に仕えた先代康長の功績により、庸直の兄忠光の遺子光重13才が戸田松平家の家督を継ぐことが許された。 戸田松平家は明治維新まで続いた。
4.増田掘用水路

 昔はもっと川幅が広く、夏は夕涼みがてらホタル狩りをしたそうです。
 この川は六堰(ろくぜき)の中の奈良堰から来ている。この先は上増田から福川に入る。熊谷にある大里用水土地改良区が管理している。

 荒川の水を活用した六堰は、江戸時代初期、備前掘と同じ様に作られた。備前掘りは利根川の水を活用している。

5.全久院、青石塔婆
 東方城主・松平丹波守康長が、祖先戸田家光追善のため、古里の三河国牛窪村全久院の寺号をここに写して開基した。 元は風張寺(かざはり)と云うお寺だった。
 本堂の庭前にそびえるの木は、樹齢八百年、樹高十八メートルあり、市の天然記念物に指定されている。
 全久院境内の青石塔婆は、秩父の青石(緑泥片岩(りょくでいへんがん))で作られた塔婆で、板碑ともいわれる。この三尊像は中央に舟形光背を彫り、阿弥陀三尊をその中に浮彫りにする、いわゆる善光寺式阿弥陀三尊像である。 鎌倉時代末から南北朝時代の物。
6.弥勒院(みろくいん)、江森天淵・天壽
 慶長7年(1602)松平丹波守康長が東方城より上州平井城へ移封のとき、寺号及び住僧ともに彼の地へ移っても、その後一寺として現在に至った。
 文久3年(1863)本堂、庫裡を新築し、大正7年(1918)1月改築して現在に至る。
 江戸時代は東方村の鎮守熊野社(現熊野大神社)の別当寺であった。
 郷土の画家、江森天淵(えもりてんえん)・天壽(てんじゆ)父子の墓がある。
天渕は日本画家で、山水画を得意とした。
 子の天壽は東方に生まれ、大正13年(1924)宮中へ献上した「菊花」「桐」を制作、特に花鳥画を得意とした。残念なことに38才でなくなった。 どちらも深谷を代表する画家。
7.熊野大神社
 ここは木の本古墳群の一角で1400年前に栄えたところで、家の埴輪が出土した。
 延長5年(927)ごろ、小さな祠があった。
 天文年間(1532~55)の頃、深谷上杉氏の重臣皿沼城主・岡谷加賀守がこの地方を領有し、熊野大神社を深く崇拝し、社殿を寄進し今でも熊野免という年貢を免除した土地がある。
 同じく重臣の一人、上野台領主・秋元但馬守景朝(かげとも)とその子越中守長朝(ながとも)は、この神社が秋元氏館の東北の鬼門にあたっているので、館の守りとして崇敬し、天正年間(1573〜92)に社殿を寄進した。 本殿正面の桁に秋元氏の家紋が彫刻されている。
 安永9年(1780)現社殿が完成した。
 社殿は深谷市指定文化財で、銅瓦葺、総欅、入母屋造り。 前面に千鳥破風をのせ、さらに軒に唐破風を出しており、神社建築では市内最高の造りである。
 境内には、日本武尊が東征のとき、里人に東の方はどこかとたずねて、東方の地名となったと、地名の由来などを記した「東方熊野神社碑」や大正14年に建てられた、煉瓦工場「畑土採掘記念碑」がある。
 江戸後期、文政2年(1819)に大修理が行なわれ、それから180年後、平成11年本堂の修理が行なわれた。向かって左側が27cm下がっていたのでそれを直し、傷んでいる基礎の部分を取り換えた、外観では千木が傷んでいたので取り換えたが、それ以外は全て当時の物を使用。
8.旧幡羅小学校跡地
 明治7年(1874)に原郷小学校が瑠璃光寺に開校、明治8年に東方小学校が全久院に開校した。
 その後2つの学校が合併し明治33年(1900)この地に移転した。
昭和48年(1973)区画整理により東方町3丁目に移転した。
 2つの碑は初代と2代目校長の頌徳碑。
 この前の道が戦国時代の街道。
江戸時代、中山道が整備された時ルートが変わり、これより南に中山道が整備された。
 2つの碑は小学校入口の丘の上にあり、昭和20年(1945)敗戦により一度埋められたが、昭和29年(1954)講和条約締結後掘り出された。