中世以前の関東(4)源義家が関わった、後三年の役

永保三年(1083)~寛治元年(1087)

 

奥羽の清原氏と常陸平氏・河内源氏の繋がり

 清原武貞の死後、清原氏の惣領の地位を嗣いだ真衡には嫡男が生まれなかったので、海道平氏の一族出身で陸奥国南部の豪族出身の、成衡を養子に迎えた。

 更に、常陸国から源頼義の娘とされる女性を迎え、成衡の妻とした。この女性は常陸平氏の流れを汲む人物の娘とされる。

 成衡の婚礼の際、真衡の叔父に当たる、吉彦秀武が出羽から真衡の館に祝いに訪れたが、真衡の対応に立腹し、祝の品を庭に投げつけ出羽に帰ってしまった。

 真衡は、秀武の行為を聞いて、秀武討伐の軍を起こした。

 秀武は、真衡と不仲であった清衡と家衡に蜂起を促した。
 二人は秀武に呼応して兵を進め、白鳥村を焼き払った後、真衡の館に迫った。 しかし、真衡が軍を返したため、二人は撤退した。

奥六郡

1083年
 永保三年の秋、成衡の妻の兄にあたる源義家が、陸奥守を拝命して陸奥国に入った。
 真衡は、源義家を多賀城で歓待し、その後出羽に出撃した。

 その間に、清衡と家衡は再び真衡の本拠地を攻撃したが、備えをしていた真衡方が奮戦した上、源義家も真衡側に加勢したため、清衡・家衡は大敗し降伏した。

 ところが、出羽に向かっていた真衡は行軍の途中で病死してしまった。

 源義家は真衡の所領であった奥六郡を三郡ずつ、清衡と家衡に分与した。
 どの様に分与したのか確証は無いが、家衡に岩手郡・紫波郡・稗貫郡、清衡に和賀郡・江刺郡・胆沢郡が与えられたと推定する考えが多い。

 なお、真衡急死後の成衡の消息は不明であり、一連の戦闘で戦死したのではないだろうか?

1086年
 家衡はこの裁定を不満とし、応徳三年、清衡の館を攻撃、妻子一族の多くが殺害されるも、清衡は生き延びた。

 清衡は、源義家の助力を得て、沼柵に籠もった家衡を攻撃したが、季節は冬でもあり、清衡・義家軍は敗退した。

 戦勝を知った、武貞の弟、武衡も合流し、家衡らはより強固な金沢柵に移る。

1087年
 寛治元年、、清衡軍は家衡軍を攻めたが容易に金沢柵を落とすことは出来なかったため、吉彦秀武が兵糧攻めを提案した。
この時、秀武は清衡方についていた。
 十一月十四日、糧食の尽きた、家衡・武衡は金沢柵に火を放って逃亡を図ったが討ち取られ、清原氏は歴史の舞台から消えてゆく。

 清衡は清原氏の旧領すべてを手に入れ、その後藤原姓に復し、奥州藤原氏の祖となった。 しかし、出羽国ではどの程度まで奥州藤原氏の支配が及んだかは疑問とする考えもある。

奥羽の安倍氏、清原氏、藤原氏と河内源氏の関係系図

奥州では、前九年の役で源頼義が、清原氏の参戦を得て安倍氏を滅ぼした。
 後三年の役では源義家が、清衡に助力し清原氏を滅ぼした。 清原氏は藤原氏の遺児を一族に取り込んだが、その遺児により滅ぼされてしまったのである。

 奥州藤原氏も、やがて源頼朝により滅ぼされてしまうのである。しかし、清衡の娘は佐竹氏に嫁いでいる。 戦国の乱が終わると佐竹氏の力を恐れた家康により、久保田藩へ転封となる、何か縁を感じる。佐竹氏は、この地で明治維新を迎える。

 朝廷は、戦役を源義家の私戦とした。後三年の役前半では、異母兄弟の争いに、嫁の兄である義家が加勢。
後三年の役後半は、異父兄弟間の争いであり、朝廷は、この戦役に対する恩賞はもとより戦費の支払いも拒否、更に義家は陸奥守を解任された。
 義家は主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出したが、このことが関東における源氏の名声を更に高め、後の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったともいわれている。

後三年の役前半では、異母兄弟の争い後三年の役後半では、異父兄弟の争い