享徳の乱(10)文明10年7月から文明11年7月、景春秩父へ退散、千葉孝胤の抵抗

(1478年7月~1479年7月)

享徳の乱:文明10年7月上杉定正は鉢形と成田の間に陣を張る

1478年7月
 7月上旬、道灌は武藏・相模の兵を率いて河越を出発し井草(川島町)、青鳥(おおどり、東松山市)を経て羽尾峯(滑川町)に在陣していた上杉定正と合流した。

 17日、上杉定正は荒川を越えて鉢形(寄居町)と成田(熊谷市)の間に陣を張り、鉢形城にいる景春を牽制した。
 ここへ成氏方の簗田持助の使者が来て、景春が公方の近辺に参ってしきりに懇請するため公方が困っていると告げた。

 18日、太田道灌が鉢形城に向かったところ景春は秩父に退散した。

 23日、成氏は利根川を越え古河に帰陣した。

 この頃上杉顕定は鉢形城に移り居城としたと思われる。

 成田陣に在陣していた道灌が金山城をを訪問して岩松家純と対談し岩松氏の上杉方への復帰を計らったのもこの頃と思われる。

享徳の乱:文明10年8月深谷の増田重富は四津山城に移る

1478年8月
 成氏方の増田重富は、比企郡の四津山に城を築き深谷(深谷市上増田)から移つた。
 四津山城は上野・北武蔵の上杉と川越・江戸の上杉を分断する新らしい古河公方成氏方の拠点とするため、成氏軍の兵を動員して築城された。
しかし、竣工時には上杉と成氏の間に和睦が成立しており、享徳の乱ではこの立地を活用する機会は訪れなかった。

享徳の乱:文明10年千葉孝胤が上杉氏に抵抗の訳

1478年12月
 千葉孝胤一族が享徳の乱が始まって間もなく、千葉氏宗家を下総から追放して取って代わっていた経緯から、孝胤は武藏千葉氏を庇護する上杉氏に対抗していた。

享徳の乱:文明10年12月上杉と千葉孝胤は境根原で戦う

 千葉孝胤は本拠である下総の本佐倉(酒々井町)に帰っていたので、太田道灌は下総国府台に城を構えた。

 千葉孝胤は原二郎と木内を先手として出陣、10日に下総堺根原(柏市)まで進撃した。
 上杉勢がこれに馳せ向かって合戦となる。
原氏の重臣、高城(たかぎ)氏の城も攻撃を受ける。
上杉方が勝利したが前ヶ崎城攻めでは太田資常が討死。

享徳の乱:文明10年12月千葉孝胤は臼井城に立て籠もる

 敗れた千葉孝胤は臼井城に立て籠もった。

1479年1月
 文明11年1月18日、道灌は江戸城へ帰還した。

 太田資忠と千葉自胤が引続き臼井城を攻略していたが要害堅固で長期戦となっていった。

享徳の乱:文明11年7月道灌は真里谷城、庁南城、飯沼城を攻略

1479年7月
 7月5日、上杉方は軍勢を分け、道灌は千葉孝胤方の真里谷城の武田上総介、庁南城の武田三河入道を攻略し、
その後、飯沼城の海上師胤を降伏させた。

 7月15日、臼井城を攻撃していた千葉自胤は、ひとまず帰陣しようと陣払いをした。
すると、千葉孝胤が臼井城から打って出た。 太田資忠が取って返して攻め込んで、臼井城を攻め落とした。

享徳の乱:文明11年臼井城を攻め落とすも太田資忠資雄父子をはじめ多くの武将が討死

 上杉方が勝利したものの、太田資忠・資雄父子をはじめ多くの武将がが討死し、味方も長陣に疲れたていたためそれ以上は攻め込まず、臼井城に城代を置き自胤は石浜城に帰陣した。