享徳の乱(11・完)文明11年9月~文明17年10月 景春の乱終結、享徳の乱終結
(1479年9月~1485年10月)
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1479年9月
文明11年9月、秩父に退散していた景春が長井城に移る。
長井城が何処だったのか定かではないが、秩父からの出口の一つであるこの辺り(本庄市)と仮定して話を進める。
1479年11月
11月28日、道灌は北武蔵に向け江戸城を出発した。
1479年12月
12月10日、道灌が金谷談所に着陣。
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29日、成田正等の忍城で不穏な動きが有り、道灌が久下(熊谷市)へ転進したところ収まった。
成田氏は、道灌の仲立ちにより景春と対立関係にあった長尾忠景の子・顕泰を養子に迎えていた。
成田家の中で、何かお家騒動があり、道灌の牽制により収まったと思われる。
翌年顕泰が成田家の家督を継ぐ。
この頃、越後の上杉房定は成氏から幕府との和睦の取次ぎを依頼され、幕府に注進する。
上杉顕定が約束した幕府との和睦の仲介が2年近く経っても進展せず、成氏は別のルートでも幕府との和睦工作を進めている。
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1480年1月
文明12年1月4日、景春は児玉党を糾合して出陣の動きを見せた。
6日、道灌、塚田(寄居町)に到着、そこで諸勢を集め、扇谷上杉定正が陣を張っていた大谷(深谷市)の陣に合流。
13日、道灌が沓懸(深谷市)に進んで景春方を包囲する態勢をとった。
児玉党の流れを汲む国衆の中で、どの国衆が景春に従ったかは定かではないが、道灌が沓懸に進んだ理由が見えてくる。
翌日、景春を攻める手筈であったが、景春が飯塚(深谷市)に進んできたため、その夜景春の陣に夜討をかけることに決まった。これを知った景春は、その夜戦わずして陣をはらって秩父に退散した。
1480年2月
2月25日、成氏は上杉方が幕府との和睦をとりつける約束を、いっこうに動いてくれないので、幕府の重臣の細川政元に宛て、景春が名代として補佐してくれる旨の書状を出した。
成氏は上杉氏との和睦を破棄して、再度景春の支援に態度を変化させた。
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1480年5月
成氏は東上野で与党を蜂起させた。
道灌は、江戸城に戻り防御などを調えたうえ、高見原(小川町)に進撃した。
景春は秩父の日野城に籠城していたので、上杉顕定は道灌の父道真を伴って鉢形(寄居町)を出て秩父の大森と云う所に陣を取った。
1480年6月
6月13日、道灌は東上野の成氏軍を先に退治すべきと、利根川を越えて進撃しようとしたが長尾忠景が拒んだため、秩父に参陣することにした。
24日、上杉顕定軍が日野城を攻撃、景春敗北し成氏のもとに逃れた。
景春の乱終結か?。成氏の許で再起を窺っていた景春は、長享の乱(ちょうきょう)では扇谷上杉氏に加担して山内上杉氏に抵抗したり、伊勢宗瑞と同盟を結び挙兵するなど、この後30年以上も抵抗を続けた。
関東はしばらく平穏となる。
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1480年7月
成氏は越後の上杉房定に書状をしたため、あらためて和睦のために尽力してほしいと頼む。
1480年10月
10月5日、越後の上杉房定は幕府の重臣、細川政元と細川政国に成氏と幕府との和睦の披露を頼んだ書状を出す。
1481年3月
文明13年3月、下総の結城氏広も和睦の斡旋を買って出て、成氏から書状を受け取り、細川政元と細川政国に書状を出す。
1481年7月
7月19日、細川政国は受け取った書状まとめ幕府に進上した。
1482年11月
文明14年11月27日、足利義政は成氏との和睦を受け入れ、伊豆の堀越公方足利政知と越後の上杉房定あての御内書をしたためた。
伊豆の足利政知の処遇は、上杉顕定が政知に伊豆国を進上、一方の成氏が御料所を政知に与えると云うものだった。
享徳3年(1454)から28年続いた享徳の乱が終結した。