享徳の乱(9)文明9年7月から文明10年6月、古河公方・上杉休戦成立、続く景春の抵抗

(1477年7月~1478年6月)

享徳の乱:文明9年上野国の攻防

1477年7月
 文明9年7月上旬、長尾景春の支援要請を受け、成氏は結城・宇都宮・那須・佐々木・横瀬らを率いて東上野から攻め込んだ。

 不意を突かれた上杉方は、上杉顕定・定正・太田道灌らが白井城に退却した。

 成氏は上野の滝(高崎市)に陣を張った。
 白井には顕定の実兄の上杉定昌が越後の軍勢を率いて駐留していた。
 成氏が上野国内深く進出できたのは、岩松家純が成氏方に付いたためであった。

1477年9月
 9月27日、上杉勢は白井城を出陣し、片貝(前橋市)に進軍。

1477年10月
 10月2日、景春は、荒巻(前橋市)に陣を張った。背後には結城・那須・佐々木・横瀬などの成氏方の軍勢も居た。

 道灌は、塩売原か引田辺りに陣を張った。

1477年11月
 対陣は40日に及んだが、
 11月14日、景春や成氏方は攻めかけずに陣を引き払って退却した。

 11月27日、上杉顕定、漆原(吉岡町)に陣を進める。

享徳の乱:文明9年上野国の攻防ー大雪のため決戦には至らず

1477年12月
 12月23日、成氏軍が滝陣を出陣。

 24日、成氏軍、観音寺原から広馬場(榛東村)に布陣した。

 27日、上杉方、太田道真の軍勢を保戸田(高崎市)に派遣し、本体は白岩に布陣し成氏方と対陣した。
しかし大雪のため決戦には至らなかった。

享徳の乱:文明10年成氏・上杉休戦成

1478年1月
 文明10年1月1日、足利成氏の家臣梁田持助と上杉方の使者、長井左衛門尉・寺尾上野介が和睦交渉を開始。 幕府と古河公方足利成氏の和睦が実現するよう上杉方が仲介を行うことを条件に和睦交渉が成立。

 2日、成氏は陣所を払って、成田(熊谷市)を新たな陣に定めた。
和睦交渉が成立したとは言え、上杉顕定を上野へ追い詰めた成氏にしてみれば、古河へ迄で引き下がるつもりは無く、北武蔵に留まった。

 4日、成氏方の結城・宇都宮氏が帰陣。

 上杉顕定は白井城へ引き上げた。
 景春も成氏に説得され鉢形城へ引き上げた。

 14日、扇谷上杉定正は、道灌を伴って河越に帰城した。

享徳の乱:文明10年道灌脚折に布陣し豊島氏の平塚城攻を攻める

 25日、道灌は、豊島泰経が籠もる平塚城を攻めるため脚折(和光市)へ出陣。

 26日明け方、豊島泰経は平塚城を逃れて敗走。 道灌は足立まで追撃したが、夜になって江戸城に帰陣。

享徳の乱:文明10年道灌の丸子城攻め、河越城に迫る景春

 27日朝、道灌は丸子城に陣を張ったところ、敵は小机城に逃げ込んだので、小机城を包囲。

1478年2月
 2月9日、扇谷上杉定正の軍勢が河越城を出て吉見口(吉見町)へ進軍。

1478年3月
 これに対し景春は鉢形城を出陣し浅羽(坂戸市)に陣を張って河越に迫った。

 一方、景春方の吉里宮内が相模の小机城を救援しようと、大石駿河守の二宮城に進んだ。
自身の居城である小机城の救援のため吉里宮内が何処まで進軍したかは定かではない。

享徳の乱:文明10年浅羽・羽尾峰の合戦

 10日、上杉定正と太田道真は浅羽の陣に攻めかかる、敗れた景春は成氏のいる成田の陣に参上し、千葉孝胤と相談し小机城に出陣するために羽尾峰(滑川町)に進んで陣取った。
 成氏は和睦したが、あいかわらず景春を支援しており、戦況を見守っていた。

 19日、小机城を攻めていた太田資忠が小机の陣所から出て河越に戻って来た。

 20日、上杉定正・太田資忠などの軍勢が河越から出陣して景春の陣所を攻撃した。景春と千葉は一戦も交えず成氏のいる成田の陣に逃げ帰った。

享徳の乱:文明10年相模の攻防

1478年4月
 4月10日、道灌は小机城を包囲して小机の城を陥落させた。
更に、二宮城の大石駿河守を降伏させると、磯部城も陥落、金子掃部助が再度籠城していた小沢城も陥落した。

 道灌は村山(西多摩郡瑞穂町か)に陣を進めた。

1478年6月
 太田資忠らは景春残党が立て籠もる奥三保(相模原市)に向かい陣取っていた。

 6月14日、本間近江守・海老名左衛門尉・甲斐鶴瀬の加藤氏らが攻撃してきた。
太田資忠が先手として進んで防戦し、海老名左衛門尉など多数の敵を討ち取り、上杉方が勝利。

享徳の乱:文明10年甲斐・鶴瀬の加藤氏

 15日未明、奥三保での勝利の報を聞いた道灌は、村山から出陣し甲斐の加藤氏の退治に向かった。
 加藤氏は甲府盆地に面する鶴瀬に館を構えていた。
甲斐の武田信昌の支配地域深く攻め込む訳にもいず、甲斐に入って直ぐの鶴河周辺に放火し、加藤氏を牽制して帰陣した。

享徳の乱:文明10年南武藏と相模を平定