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出来事 |
1578年
(天正6年) |
1月 |
信長、正ニ位右大臣に叙せられる。 |
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信長、弓衆の福田与一の失火により、単身赴任の部下が多いことが判明。妻子らを安土に移させる。 |
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上杉謙信、謙信は遠征の準備中に倒れ、昏睡状態のまま死去。享年49。生涯独身で養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかを決めておらず、上杉氏の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発。勝利した上杉景勝が、上杉氏当主となったが、数年にわたった内乱で上杉家中の疲弊・衰退は激しく、対外出兵する力を失う。そして、謙信が晩年に交戦状態となった織田信長による攻撃を受け、滅亡寸前まで追い込まれた。 |
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4月 |
秀吉、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍に包囲される。 |
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5月 |
上杉景虎が御館(おたて)へ移り、春日山城の上杉景勝と争う。 |
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6月 |
九鬼嘉隆、信長の命により鉄船を建造し、雑賀の水軍を破る。 |
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7月 |
播磨国上月城、毛利軍に奪回され、城主尼子勝久自害;尼子氏滅亡 |
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9月 |
下旬、信長、鉄船を視察。 |
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北条氏康、武蔵国世田谷新宿を楽市とする。 |
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10月 |
摂津在岡城の荒木村重が足利義昭・本願寺と通じ、信長に背く。 |
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11月 |
耳川の戦い;九州南部を制圧した島津義久、九州北部の大伴宗麟と争い、日向の耳川の戦いで破る。 |
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大友宗麟が耳川の戦いで島津義久に大敗すると、肥前龍造寺隆信は大友氏の混乱に乗じて大友氏の領国を席捲し、大友氏からの完全な自立を果たし、それまで対等な関係であった国衆を服属化させ戦国大名化した。*wiki |
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信長、荒木村重をなぐさめ諭すが村重は応じず。 |
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信長・九鬼嘉隆の甲鉄船団、摂津国木津川口で毛利水軍600隻を撃破。 |
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荒木村重の属将、摂津国高槻城主高山右近、信長に降伏・服属。 |
1579年
(天正7年) |
3月 |
上杉景勝、上杉景虎の御館を攻略し、景虎は自害、景勝が上杉家当主となる。 |
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5月 |
安土城天守閣完成。 |
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浄土宗と日蓮宗による安土宗論。信長、日蓮宗を処罰。 |
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7月 |
イエズス会巡察使ヴァリニャーニ、島原に来着。 |
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8月 |
明智光秀、丹波平定を信長に報告。 |
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柴田勝家、加賀侵攻。 |
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9月 |
信長、荒木村重攻略中の将兵を見舞う。 |
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家康、信長の命により正室築山殿を殺害し、嫡男 松平信康(家康嫡男)を自害させる。 |
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10月 |
明智光秀、安土城にて丹波・丹後平定を報告する。 |
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この年 |
信長、宣教師オルガンチノに寺院建設許可。 |
1580年
(天正8年) |
1月 |
羽柴秀吉、播磨の三木城を攻め、別所氏を滅ぼす。 |
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3月 |
信長、本願寺に覚書を送り、石山城内の全ての人を赦免し、加賀国の二郡を返す事を成約。 |
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閏3月 |
信長、安土城の埋立地を宣教師に与える。 |
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信長と本願寺と和議が成立。顕如が石山本願寺を退去。石山戦争終結。 |
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4月 |
大村純忠、長崎を教会領に寄進。 |
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8月 |
信長、丹波を明智光秀に、丹後を細川藤孝に与える。 |
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信長、大和国郡山城主筒井順慶に国内諸城破却を命令。 |
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本願寺教如(顕如の子)、紀伊国雑賀に退去。本願寺全焼(石山合戦終了)。 |
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信長、近衛前久を頼り、島津・大友と和平を図る。 |
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林通勝親子を追放。 |
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佐久間信盛親子を追放。 |
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11月 |
柴田勝家、加賀一向一揆を平定。首謀者達の首を安土に送る。 |
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この年 |
安土城にセミナリヨ(神学校)開設。 |
1581年
(天正9年) |
1月 |
高天神城を包囲する徳川家康を攻撃するため、武田勝頼が出陣すると聞き、信長、嫡子信忠を清洲に出陣させる。[オランダ独立宣言] |
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京都での馬揃えの準備を明智光秀に命じる。 |
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豊後府内にコレジ(養成所)を開設。 |
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2月 |
宣教師ヴァリニャーノ、黒人従者を連れて信長と謁見。柴田勝家、入京し信長と謁見。 |
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皇居東門外で盛大な馬揃えを行う。正親町天皇、観覧する。 |
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3月 |
再び馬揃えを行う。 |
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上杉景勝が越中に侵攻した為、信長、越前衆らを帰国させる。それを聞き景勝は撤退。 |
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4月 |
堀秀政に和泉の検地を命じる。 |
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信長、和泉国に指出検地。槇尾寺を焼く。 |
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6月 |
羽柴秀吉、因幡へ侵攻。 |
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7月 |
安土城天主閣・総見寺に提灯をつるしまた馬廻り衆に松明を持たせ城下一帯をライトアップ。 |
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8月 |
安土城で馬揃え。 |
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因幡鳥取城の救援に、毛利輝元らが出陣するとの風説があり、在国の武将らに出動態勢を整えさせる。 |
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また信長自ら出陣し、東西決戦の後、西国平定を決意。細川藤孝・明智光秀らは船に兵糧を積み鳥取川に停泊させる。 |
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信長、高野聖1,000人余りを処刑。 |
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9月 |
織田信雄(信長次男)ら伊賀惣国一揆平定。 |
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10月 |
信長、前田利家に能登を与える。 |
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信長、伊賀視察。 |
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羽柴秀吉、毛利氏の因幡国の鳥取城を兵糧攻めの末落とす。 |
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11月 |
羽柴秀吉、淡路島を平定。 |
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12月 |
信長、羽柴秀吉の軍功を称し、茶道具12種の名物を下賜。 |
1582年
(天正10年) |
1月 |
近隣の大名などが年始の挨拶、江雲寺御殿や天皇の行幸の御殿を見せる。 |
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追放された佐久間信盛が病死、息子信栄を赦免し、旧領を安堵する。伊勢の大神宮の修築に3千貫を寄進。 |
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九州のキリシタン大名(大伴宗麟・有馬晴信・大村純忠)が天正遣欧使節をローマ教皇に派遣。長崎を出発。 |
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2月 |
信濃の木曽義昌が武田勝頼に背く。それを受け信長は諸方面から出陣命令を出す。また自らも伊那へ進攻すると指令。 |
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9日、信濃出兵にあたり命令を発す。 |
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信長は家康と共同で武田領へ本格的侵攻を開始した。織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の穴山信君(梅雪)を調略によって離反させるなどして駿河領を確保した。*wiki |
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3月 |
信忠、信濃高遠城を落とす。 |
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天目山の戦い;武田勝頼、織田信長・徳川家康に敗れる。 |
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武田勝頼、新府城を退去し、山中の民家に身を潜める。信長出陣。 |
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武田勝頼、滝川一益に見つかり民家を包囲され切腹。その他一門なども切腹もしくは討ち死。戦国大名 甲斐武田氏滅亡。 |
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浪合にて勝頼父子の首実験。 |
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滝川一益に、上野国と信濃二郡を下賜。 |
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信忠の高遠城(現 伊那市)攻略の褒美として刀を贈り、天下の支配権を譲る。旧武田領地を配分する。 |
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羽柴秀吉、播磨の姫路から備中へ出陣。 |
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4月 |
信長、東海道を通って富士山などの名所巡りをしながら、徳川家康の居城浜松城に到着。 |
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5月 |
信長、阿波国を三男 織田信孝に与える。 |
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徳川家康と穴山梅雪を接待。安土での接待を明智光秀に命じる(15日~17日)。 |
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羽柴秀吉、高松城を水攻め。安芸から毛利軍が出陣し秀吉軍と対陣。秀吉の援軍要請を受け、信長、自ら出陣して中国を平定し、九州まで攻め入ることを決意。そして明智光秀・細川忠興・池田恒興・高山右近・中川清秀・塩河吉大夫らに先陣を命じる。明智光秀、坂本に帰る。 |
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19日、家康らと能を観る。 |
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20日、家康を接待。 |
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21日、家康一行、上洛。案内役に長谷川秀一を同行させる。 |
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26日、明智光秀、中国出陣のため坂本を出発。翌日、亀山城へ移る。愛宕山へ参詣、おみくじを二度三度と引く。またその翌日、連歌の会を催し、「ときは今あめが下知る五月かな」と詠む。 |
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29日、信長、上洛、本能寺に入る。小姓衆以外は随行せず。 |
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6月 |
2日未明、本能寺の変;明智光秀、13,000の兵で本能寺を包囲し、信長を殺す。 |
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信長の嫡男信忠も二条御所で自害。 |