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甲州街道を歩く (01: 新宿) 2020.6.29


 

(玉川上水の石樋を利用して造られた「四谷大木戸」碑)


現在の「新宿御苑」は、江戸時代には、信州の「高遠藩の内藤氏」の「下屋敷」でした。

その広大な下屋敷の中に、「甲州街道」の追加の宿場町として、「”新”しい”宿”場」が設けられたのが
「”新宿”」です。


三河時代から徳川家康に仕えていた古参の「内藤清成」は、家康が江戸に入府する直前の1590年、北条氏の
残党に対する警備のため、鉄砲隊を率いて、現在の新宿2丁目付近に陣を敷きました。

この功績が認められて、内藤清成は、現在の新宿付近一帯の広大な土地を拝領しました。

内藤清成は、この一帯に、中屋敷(現在の新宿御苑)、上屋敷(現在の神田小川町)、下屋敷
(現在の渋谷の一部)を構えました。

新宿の超高層ビル群、渋谷のスクランブル交差点など、我々ですらその急変貌ぶりに驚いていますから、
もし、内藤清成が、自分の領地だった新宿から渋谷一帯の現在の風景を眺めたら、腰を抜かすことでしょうね。
 

甲州街道は、当初、スタート地点の「日本橋」から、最初の宿場の「高井戸」まで2里(8キロ)もの距離があり、旅人は
難儀していました。

そこで、1698年、「内藤家」の「中屋敷」の一部に宿場が開設され、「内藤新宿」と呼ばれる様になりました。

「甲州街道」は、「内藤新宿」の外れの「新宿追分」(現在の新宿3丁目交差点付近)で、「青梅街道」と分岐していたので、
「内藤新宿」は、甲州街道と青梅街道の両街道の最初の宿場町でした。

また、内藤新宿は、江戸周辺の品川(東海道)、千住(日光街道)、板橋(中山道)とともに「江戸四宿」(ししゅく)と呼ばれ、
江戸の新たな大人の行楽地としても発展しました。

 



四ツ谷駅から新宿通りを進んで行くと、新宿通りと新宿御苑トンネルの分岐点に出ました。

上の写真の右手を直進する「新宿通り」を進むと直ぐに、下の写真の「四谷大木戸」碑がありました。



1616年、甲州街道における江戸への出入り口として、四谷に「四谷大木戸」が設けられました。

「四谷大木戸」碑は、上の写真から分る様に、昭和34年に地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して
造られて記念碑だそうです。



また、同じ場所に、上の写真の「玉川上水水番所跡」の大きな石碑もありました。
  

玉川上水は、江戸の飲料水を確保するため、玉川兄弟の手により、1654年に開設されました。 

玉川上水水番所は、江戸時代に玉川上水の水量や水質を管理した水番所のあったところです。  

この水番所跡の石碑には、玉川上水建設の理由や、請け負った玉川兄弟の事績を讃えた内容が
記されているそうです。





上記の2つの石碑の背後の「四谷区民センター・東京都水道局新宿営業所」のビルに入り、2つの石碑に関する
説明資料を見学します。



以下は、この水道局の1Fフロアに展示されている「四谷大木戸」や「玉川上水の水番所」などの絵図とその説明文です。



(「江戸名所図会」:木戸撤去後の人馬や籠などの行き交う様子が描かれている。)



(玉川上水は多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは土を掘り抜いただけの開渠だった。

 四谷大木戸から市中へは、上の写真の様な、石や木で造られた水道管を通じて水を供給し、淀橋浄水場の完成した
明治31年まで、江戸・東京の人々にとって貴重な水資源だった。)




 

四谷区民センターを出て、新宿通りを左折、新宿御苑へ向かいます。



「桜を見る会」で有名な写真の「新宿御苑」は、冒頭で述べた様に、信濃(長野県)の高遠藩・内藤家の
下屋敷の敷地でした。



(新宿御苑周辺地図:東京都水道局新宿営業所の展示パネルから)

新宿御苑の正門をちらりと横目で見て、新宿通りに戻り、「新宿2丁目」方面へ向かいます。

新宿2丁目は、北は靖国通り、南は新宿御苑に挟まれた町です。

新宿2丁目の表通りは、オフィスビルや店舗が立ち並びますが、次の目的地の「太宗寺」方面に行こうと、一歩、
細い道に足を踏み入れると、周辺にはバーやクラブなどが密集しています。



写真の様に、怪しげな看板の店が並んでいます。



ん?、店の名前が「男兄さん(おにいさん)」?

マスクがピッタリと密着しているか、確認して、繁華街を通り抜けます・・・ 



オフィスビルや店舗が立ち並ぶ「新宿通り」を、次の目的地の「太宗寺」へ向かいます。

太宗寺へ行くために、新宿通りの表通りから、細い道に一歩足を踏み入れると、そこは、バーやクラブなどが
密集する「新宿2丁目」でした。

危ない感じのその繁華街を通り抜けて、無事に目的地の「太宗寺」に着きました。



太宗寺は、「内藤新宿」の「内藤氏」の菩提寺で、歴代藩主や一族の墓地があります。



太宗寺の入口にある写真は、「江戸六地蔵」で、江戸時代前期に、江戸の出入口の6ヶ所に
造立された「六地蔵」のひとつです。



他の5か所は、品川寺(東海道・品川)、 真性寺(中山道・巣鴨)、東禅寺(日光街道・浅草)、
霊巌寺(水戸街道・江東区白河)、
永代寺(千葉街道・江東区富岡)です。

(品川、巣鴨、白河の江戸六地蔵は、アンダーライン部分をクリックしてね。)



上の写真は、歴代藩主の墓で、下の写真は、その中の「5代目当主・内藤正勝」の墓です。





境内の上の写真は、 江戸時代、「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集めた「閻魔堂」です。



写真は、真っ白に塩を被った「塩かけ地蔵」で、願掛けの返礼に塩をかけるという、珍しい風習のある地蔵尊です。

 



太宗寺の奥には、上の写真の「成覚寺」があり、境内には、下の写真の「子供合埋碑」(こどもごうまいひ)
(1860年建立)があります。

当時の飯盛女(遊女)は、子供と呼ばれていたため、「子供合埋碑」となっています。



江戸時代、成覚寺は、隣接する内藤新宿の宿場の飯盛女たちの共同墓地だったため、「投げ込み寺」と
呼ばれていました。

内藤新宿の繁栄の陰に隠れた悲しい女性たちの碑です。

また、境内には、内藤新宿の宿場内で、玉川上水で心中した飯盛女と客の供養のために建立された
下の写真の「旭地蔵」もあります。

(この寺は荒れ果てていて、旭地蔵にこれ以上近づけず、お地蔵様の顔が木の枝に覆われて
見えませんでした・・・



 



「成覚寺」の隣は、上の写真の浄土宗の「正受院」です。

正受院は、江戸時代には、咳止めの効果があるとなどとして庶民の信仰を集め、参詣客が
絶えなかったそうです。



正受院の境内にある写真は「奪衣婆(だつえば)像」です。



奪衣婆は、閻魔大王の妻とも言われ、三途の川で、盗人の両手の指を折り、死者の衣類を剥ぎ取る
恐ろしい老婆です。

 

正受院を出て、新宿通りに戻り、新宿3丁目の交差点を目指します。

新宿3丁目の「伊勢丹」前に到着しました。



「甲州街道」は、内藤新宿の外れの「新宿追分」(現在の新宿3丁目交差点付近:上下の写真)で、
「青梅街道」と分岐していました。





(伊勢丹前:左折する赤色矢印が甲州街道、直進する青色矢印が青梅街道)

甲州街道は、新宿3丁目の伊勢丹前で左折して、明治通りに入ります。

 



明治通りの左手には、写真の曹洞宗「天龍寺」があります。





上の写真は、天龍寺の境内にある「時の鐘」で、上野寛永寺、市ヶ谷八幡と共に、「江戸の三名鐘」に
数えられました。

この鐘は、江戸時代には、新宿で遊興していた人々を店から追出す合図の鐘ともなっていたため、
「追出しの鐘」として評判が悪かったそうです。


天龍寺を出て、新宿駅の南口に着きました。


めっきり秋めいた季節になってきたので、甲州街道踏破を再開します。




再開のスタートは、JR山手線の新大久保駅です。



以前にもご説明した様に、江戸城に危難が迫った際、将軍は、服部半蔵の手引きで、江戸城の半蔵門から
甲州街道に入り、内藤新宿で「百人組鉄砲隊」、八王子で「千人同心」を従えて甲府城に入る手筈でした。

その内藤新宿の百人組鉄砲隊の史跡を見物するために、JR山手線の新大久保駅で下車しました。



新大久保の駅を降りると、この辺りの地名は「百人町(ひゃくにんちょう)」で、新大久保の駅から徒歩1分の
直ぐ近くに、写真の「皆中(かいちゅう)稲荷神社」があります。





神社の本殿の前に、「大久保・百人組鉄砲隊」についての写真と説明板がありました。





その説明版によると、1602年、伊賀忍者の百人鉄砲隊が、大久保に配置されました。

鉄砲隊に属する者は、現在の百人町1丁目から3丁目に、まとまって屋敷を与えられたましたが、これが、
現在の「百人町」(ひゃくにんちょう)の地名の由来となっています。

上の写真は、平成14年に撮影された「鉄炮百人隊行列(出陣の儀)」です。

これは、江戸時代に、百人鉄砲隊が、神社に奉納したと伝えられる出陣式を再現したものだそうです。(隔年開催)

出陣の儀の当日には、写真の様に、甲冑に身を固めた武将が、百人町周辺を隊列行進し、火縄銃を携えた
鉄砲隊が古式にのっとり試射を行うそうです。

ここの皆中稲荷神社は、江戸時代、鉄砲隊のある隊士が、稲荷の霊夢により百発百中の腕前に上達したと伝えられ、
鉄砲隊からの信仰が厚かったそうです。

現在は、皆中は「みなあたる」の意味があるので、ギャンブル好きの人は、ここに来て必勝祈願をするそうです。

 


新大久保駅から、甲州街道踏破の前回のゴールだった1駅手前の「新宿駅」へ向かいます。

インターネットの都市伝説では、「新宿駅では、毎年、駅から出られずに遭難する人がいるらしい・・・」と
ささやかれています。

新宿駅は、デパートや商業ビル、地下街などが入り組んだ構造になっており、移動には複雑なルートを
通る必要があります。

その都市伝説が信じられそうなくらいに、新宿駅の地下道は、アメーバの様に広がり、複雑怪奇な迷宮に
なっています。

私が思うに、この迷宮の新宿駅から抜け出る一番確実な方法は、何も考えないで、ひたすら頭上の案内矢印に
従って歩くことです。

方向がおかしい?、遠回りでは?など疑問に思っても、疑問を振り払い、ひたすら頭上の案内矢印に従って歩けば、
この迷路ゲームの様な新宿駅を抜け出ることが出来ます。



久し振りに来た「新宿駅」には、今年の7月に、駅の西口と東口を結ぶ写真の広々とした「東西自由通路」が
完成していました。




この自由通路は、繁華街に面した「東口」と、高層ビルが立ち並ぶ「西口」を直結します。

これまでは、東口と西口を直接つなぐ通路がなかったので、JRの入場券を買って改札内を通るしか
ありませんでした。

入場券を買わないためには、いったん地上に出るか、地下の複雑な通路を遠回りする必要がありましたが、
この東西自由通路の完成でこの問題からは解放されました。



新しく完成した東西自由通路を抜けて、繁華街に面した上の写真の東口に出て、駅の近くにある熊本の
「珪化ラーメン」でお昼にします。



豚骨スープが懐かしい! 



 

昼食を済ませ、靖国通りを、新宿三丁目方面へ歩くと、左手に、私にとっては懐かしい「新宿花園神社」があります。









昔、「唐十郎(からじゅうろう)」が率いる劇団「唐組」が、この神社の境内に、年2回ほど赤テントを張って、
一風変わった演劇をやっていました。

私は、上京して間もなく、唐組ファンクラブの会員になり、この赤テント公演を欠かさず見に行ってました。

「ジャガーの眼」や「少女都市からの呼び声」など、役者の唾が飛ぶ至近距離から観劇した、
緊張感のある舞台が懐かしいです。

唐組は、当時は怪しげな劇団でしたが、後に、李麗仙、麿赤児、根津甚八、小林薫、佐野史郎などの
俳優を輩出しました。

皆さんご存じの様に、唐十郎の前妻は女優の李麗仙、長男は俳優の大鶴義丹です。

私が赤テント公演に通っていた当時、唐十郎というオジサンが、赤テントの入口の周りをウロウロしていました。

この風采の上がらないオジサンが、後に、芥川賞を受賞する大小説家の先生になろうとは、私は、当時、
夢想だにしませんでした・・・



新宿花園神社の大鳥居をくぐった右奥の隅に、写真の「芸能浅間神社(げいのう せんげんじんじゃ)」があります。



役者や歌手などの多くの芸能人が参拝に訪れ、写真の様に、芸能人の奉納者の名前がズラリと並んでいます。





また、写真の様に、藤圭子(宇多田ヒカルの母)の「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑も建てられています。

花園神社と「芸能」の歴史は、江戸時代からあり、当時、大火で焼失した社殿を再建するため、境内に
見世物小屋を作り、そこで見せ物や芝居などを興行したことが始まりだそうです。

 



東口に戻り、東西自由通路の頭上の矢印に従って、甲州街道へ向かいます。



長い地下道を、頭上の矢印に従って、延々と歩いて行くと、ようやく甲州街道に出ました。

 



新宿駅の地下通路の階段を上がって、甲州街道の上の写真の西新宿1丁目に出ました。



甲州街道沿いに少し歩くと、上の写真の文化学園大の前に、下の写真の写真の「玉川上水のモニュメント」があります。



案内板によると、かつてこの場所には、玉川上水が流れていました。

玉川上水は、江戸城下の急激な発展に伴う水不足を解消するため、江戸幕府により開削された人工の水路で、
多摩川上流の羽村取水口から四谷大木戸に至るまで、43キロもの長さがありました。

このモニュメントは、明治時代に、新宿駅構内の地下に設けられた、玉川上水の煉瓦造りの暗渠をモチーフとし、
当時の煉瓦を一部使用して、原寸大で再現したものだそうです。



甲州街道の左側に写真の「正春寺」がありました。



正春寺は、二代将軍秀忠の乳母の「初台(はつだい)の局」の菩提寺だったので、この辺りの地名が
「初台」になったそうです。



続いて、新国立劇場の前を通過します。



 新国立劇場は、通常はオペラなどの現代芸術をやっていますが、何故か?、今話題の「半沢直樹」の舞台を
やっていました。



ここから、暫くの間、甲州街道(国道20号線)は、首都高4号線が覆いかぶさるような風景の中を
歩いて行きます。 



代々木警察署の手前の細い道を入って行くと、マンションの前の分かりにくい場所に、写真の「旗洗池跡」の石碑と
説明板がありました。




説明版によると、平安時代の1087年、東北地方で戦われた後三年の役を終え、八幡太郎義家が上洛する際に、
この地にあった池で白旗(幡)を洗い、脇にあった松にかけて乾かしました。

義家が「幡(はた:旗)」を洗ったこの池が「旗洗池」と呼ばれるようになり、この辺りの地名が「幡ヶ谷」になったそうです。

更に、甲州街道沿いに歩き続けて、下の写真の笹塚の交差点まで来ました。



この交差点は、甲州街道と中野通りが交差する人通りの多い場所で、江戸時代には「牛窪(うしくぼ)」という地名でした。



先が尖った写真の建物は、この交差点の角にある「牛窪(うしくぼ)地蔵尊」です。



この辺りの「牛窪」という地名は、江戸時代、”牛”による極悪人の残酷な処刑がこの辺りの”窪”地で
行われたことに由来します!

罪人の両足を2頭の牛の角に各々縄でつなぎ、牛に負わせた柴に火を点けて、暴れるウシを双方に走らせて
罪人の身体を引き裂くという、極めて残酷な処刑です。

この様に、江戸幕府は、甲州街道などの往来の多い街道沿いの人目に付く場所に、酷刑場を設置して
見せしめにしました。

江戸時代、この地域で疫病が流行ったときに、股裂きの刑で犠牲になった罪人の霊の祟りではないかと
噂になり、罪人たちの霊を慰めるために、この牛窪地蔵尊が建立されました。



地蔵堂の横には、1806年建立の上の写真の「道供養塔」がありますが、これは、道路自体を供養して、
交通安全を祈るという、珍しい供養塔です。



昔、牛裂きの刑が行われていたというこの笹塚の交差点を右折して、交差点のすぐ近くの上の写真の清岸寺の
「酒呑(さけのみ)地蔵」を見に行きます。





案内板によると、この地蔵は、1708年に建てられ、別名を子育地蔵ともいわれますが、次の様な言い伝えがあります。

昔、四谷伝馬町の中村瀬平という若者は、故あって家を出て、ここ幡ヶ谷村の農家に雇われて一生懸命に働いていました。

瀬平の勤勉さに感心した村人が、三十一才になった正月に、彼を招いてご馳走したところ、ふだんは飲まない酒に酔い、
川に落ちて水死してしまいました。

瀬平は、村人の夢枕に現れて、酒に苦しむ人を助けるために地蔵を造ってほしいと願ったので、村人たちはこの地蔵を建立し、
酒呑地蔵として祀ってきたそうです。

清岸寺の酒呑地蔵から甲州街道に戻り、歩き続けます。



環七通りと交差する大原交差点を渡ります。



甲州街道と並行して、玉川上水の暗渠部の遊歩道があるので、ダンプカーの騒音と排気ガスを避けるために、
極力遊歩道を歩きます。





暫く歩くと、甲州街道は、井の頭線の上を跨ぎます。

その先の京王線の明大前駅の辺りを過ぎると、もうこの辺りが次の「下高井戸宿」の外れだったみたいです。