(玉川上水の石樋を利用して造られた「四谷大木戸」碑)
現在の「新宿御苑」は、江戸時代には、信州の「高遠藩の内藤氏」の「下屋敷」でした。
その広大な下屋敷の中に、「甲州街道」の追加の宿場町として、「”新”しい”宿”場」が設けられたのが
「”新宿”」です。
三河時代から徳川家康に仕えていた古参の「内藤清成」は、家康が江戸に入府する直前の1590年、北条氏の
残党に対する警備のため、鉄砲隊を率いて、現在の新宿2丁目付近に陣を敷きました。
この功績が認められて、内藤清成は、現在の新宿付近一帯の広大な土地を拝領しました。
内藤清成は、この一帯に、中屋敷(現在の新宿御苑)、上屋敷(現在の神田小川町)、下屋敷
(現在の渋谷の一部)を構えました。
新宿の超高層ビル群、渋谷のスクランブル交差点など、我々ですらその急変貌ぶりに驚いていますから、
もし、内藤清成が、自分の領地だった新宿から渋谷一帯の現在の風景を眺めたら、腰を抜かすことでしょうね。
甲州街道は、当初、スタート地点の「日本橋」から、最初の宿場の「高井戸」まで2里(8キロ)もの距離があり、旅人は
難儀していました。
そこで、1698年、「内藤家」の「中屋敷」の一部に宿場が開設され、「内藤新宿」と呼ばれる様になりました。
「甲州街道」は、「内藤新宿」の外れの「新宿追分」(現在の新宿3丁目交差点付近)で、「青梅街道」と分岐していたので、
「内藤新宿」は、甲州街道と青梅街道の両街道の最初の宿場町でした。
また、内藤新宿は、江戸周辺の品川(東海道)、千住(日光街道)、板橋(中山道)とともに「江戸四宿」(ししゅく)と呼ばれ、
江戸の新たな大人の行楽地としても発展しました。
四ツ谷駅から新宿通りを進んで行くと、新宿通りと新宿御苑トンネルの分岐点に出ました。
上の写真の右手を直進する「新宿通り」を進むと直ぐに、下の写真の「四谷大木戸」碑がありました。
1616年、甲州街道における江戸への出入り口として、四谷に「四谷大木戸」が設けられました。
「四谷大木戸」碑は、上の写真から分る様に、昭和34年に地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して
造られて記念碑だそうです。
また、同じ場所に、上の写真の「玉川上水水番所跡」の大きな石碑もありました。
玉川上水は、江戸の飲料水を確保するため、玉川兄弟の手により、1654年に開設されました。
玉川上水水番所は、江戸時代に玉川上水の水量や水質を管理した水番所のあったところです。
この水番所跡の石碑には、玉川上水建設の理由や、請け負った玉川兄弟の事績を讃えた内容が
記されているそうです。
上記の2つの石碑の背後の「四谷区民センター・東京都水道局新宿営業所」のビルに入り、2つの石碑に関する
説明資料を見学します。
以下は、この水道局の1Fフロアに展示されている「四谷大木戸」や「玉川上水の水番所」などの絵図とその説明文です。
(「江戸名所図会」:木戸撤去後の人馬や籠などの行き交う様子が描かれている。)
(玉川上水は多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは土を掘り抜いただけの開渠だった。
四谷大木戸から市中へは、上の写真の様な、石や木で造られた水道管を通じて水を供給し、淀橋浄水場の完成した
明治31年まで、江戸・東京の人々にとって貴重な水資源だった。)
四谷区民センターを出て、新宿通りを左折、新宿御苑へ向かいます。
「桜を見る会」で有名な写真の「新宿御苑」は、冒頭で述べた様に、信濃(長野県)の高遠藩・内藤家の
下屋敷の敷地でした。
(新宿御苑周辺地図:東京都水道局新宿営業所の展示パネルから)
新宿御苑の正門をちらりと横目で見て、新宿通りに戻り、「新宿2丁目」方面へ向かいます。
新宿2丁目は、北は靖国通り、南は新宿御苑に挟まれた町です。
新宿2丁目の表通りは、オフィスビルや店舗が立ち並びますが、次の目的地の「太宗寺」方面に行こうと、一歩、
細い道に足を踏み入れると、周辺にはバーやクラブなどが密集しています。
写真の様に、怪しげな看板の店が並んでいます。
ん?、店の名前が「男兄さん(おにいさん)」?
マスクがピッタリと密着しているか、確認して、繁華街を通り抜けます・・・