本文へジャンプ
甲州街道を歩く  (00:日本橋)   2020.6.24


         

(「東海道四谷怪談」の主人公の「お岩」さんが祀られている「於岩稲荷田宮神社」)

   


股関節炎もほぼ良くなり、コロナの県境をまたぐ移動も解除され、これから、いよいよ、五街道踏破の最後となる甲州街道に
挑戦します。

股関節炎の再発を防ぎ、熱中症にならない様に、午前中2時間だけのウォーキングで、尺取虫の様に、少しづつ甲州街道を
進んでいくつもりです。


5街道の中で、甲州街道は、他の4街道とは異なる特殊な位置づけでした。

甲州街道は、甲府を経て、下諏訪で中山道と合流します。

江戸城に危難が迫った際、将軍は、服部半蔵の手引きで、江戸城の半蔵門から甲州街道に入り、内藤新宿で
「百人組鉄砲隊」、八王子で「千人同心」を従えて甲府城に入る手筈でした。

この様に、甲州街道は、江戸城落城のときの将軍の逃走路の位置づけだったため、参勤交代の際も、親藩・譜代大名にしか
使用させませんでした。

従って、下諏訪から甲州街道を利用すれば、最短距離で江戸へ向かえるのですが、外様大名は、甲州街道を
使わせてもらえず、下諏訪から、中山道を、軽井沢、高崎、大宮と大回りさせられました。

甲府城を避難場所に選んだのは、甲府からだと、富士川の舟運で、一気に、徳川の本拠地の駿府(静岡)に抜ける
ことも出来るからでした。

 



スタート地点は、今回も日本橋です。


東海道、中山道、日光奥州街道のスタート時に続き、今回で4度目の「日本橋」です。

日本国道路元標、東京市道路元標、高札場跡、晒し(さらし)場跡(滝の広場)などの五街道の起点となる日本橋の
遺構については、これまでの3回のブログでほとんど書き尽くしてしまいました・・・

(これまでの日本橋の3回のブログについては、「東海道・日本橋」、「中山道・日本橋」、「日光奥州街道・日本橋」を
クリックしてね。)      

          

従って、今回は、少し趣向を変えて、「日本橋三越」からスタートしようと思います。





上の浮世絵は、名所江戸百景の「する賀てふ」(駿河町)で、左側が呉服商の「三井越後屋」、右側が両替商の「三井」です。

ご存じの様に、現在の「三越」の名称は、この江戸時代の呉服商「"三"井"越"後屋」を略したものです。

下は、浮世絵と同じ位置からの現在の写真で、左側が「三越」で、右側が「三井本店」です。





玄関のライオン像を見ながら、三越本館に入ります。



写真の「天女の像」は、三越本館1階の中央ホールに設置されており、11メートルもの高さがある像は、
吹き抜けの5階に届きそうです!



絢爛たる色彩で圧巻です!

この天女像は、昭和35年に、三越創立50周年の記念事業として設置されました。

 

日本橋の橋の上の国道を品川方面へ向かうと東海道です。



東海道と反対方向の神田方面へ歩きだせば、中山道、日光・奥州街道です。



 上の写真は、日本橋の「麒麟の像」ですが、NHK大河の麒麟はいつ戻ってくるのでしょうか?

日本橋を渡り、中央通りを少しだけ進み、永代通りとの交差点を右折して、大手町方面へ歩いて行きます。



呉服橋の交差点を右折して、直ぐ近くの「一石橋」に行きます。



一石橋のたもとに、写真の「一石橋迷子しらせ石標」があります。

江戸時代には、この辺りから日本橋にかけては盛り場で、迷子が多かったそうです。



これは、迷子になった子供を捜している人が、子供の特徴を書いた紙を、この石柱の左に貼りつけておくと、
子供を見つけた人が、石柱の右にその見つけた場所を書いた紙を貼りつける、というものです。



上の写真の石標の正面(写真では右側)には 「満よひ子(迷い子)の志るべ」 と彫られています。



石標の左側には、上の写真の様に 「たづぬる方」 、石標の右側には、下の写真の様に 「志らす類(知らする)方」 と
彫られています。



(迷子しらせ石標は、東海道の桑名宿でも見ました。詳細は「東海道を歩く・桑名宿」の末尾を見てね。)  

 

              

一石橋から永代通りに戻り、東京駅へ向かいます。



甲州街道は、上の写真の東京駅の中の「丸の内側への通路」と重なります。

甲州街道は、東京駅を通り抜け、丸の内北口へ出て、和田倉門へ直進していました。

22年も通勤した懐かしい大手町界隈を歩いて行きます。 



上の写真の「日本工業倶楽部会館」は、江戸時代に勅使の供応を行っていた「伝奏屋敷跡」で、赤穂藩主・浅野内匠頭と
吉良上野介が対立した因縁の場所です。

知らなかったなあ〜!



上の写真は、「大名小路」です。



この通りには、親藩や譜代大名の藩邸が24家も連なっていたそうです。

大手町に勤務しているときは、歴史に関心がなかったこともあり、身近に、大名小路や伝奏屋敷があったことなど
全く知りませんでした。



和田倉門に突き当たりました。


 



和田倉門を左折して、江戸城の「内堀(大手濠)」沿いに、「内堀通り」を進みます。

(仕事帰りに「内堀通り」沿いに歩いた記録は、「内堀通りをく」を見てね。)  

                                                    







更に、内堀通りの日比谷濠の脇を歩いて行くと、日比谷交差点に出ます。



甲州街道は、日比谷交差点で、濠に沿って右折します。



この交差点を横断して、向かいにある上の写真の「日比谷公園」に入ります。



公園の入り口を入り、右手に少し歩くと、写真の「日比谷見附」跡があり、見附の石垣が残っています。

見附(みつけ)とは、見張り番所のことで、江戸城には主な見附だけでも36か所もありました。

ほとんどは、堀に掛けられた橋と一体的に門が設置され、門の内側に番兵が勤務する番所がありました。

皆さんご存じの「赤坂見附」の地名も、この36か所のうちの一つです。



 

日比谷見附跡を見物したら、直ぐに、日比谷公園を出て、再び、内堀沿いに、「桜田門」へ向かいます。







上の写真の「桜田門の門外」は、1860年3月3日の朝、大老の井伊直弼が、水戸藩の脱藩浪士に暗殺された、
いわゆる「桜田門外の変」の場所です。

事件のとき、井伊家の家臣60名くらいが、井伊直弼を護衛をしていましたが、当日の朝は季節外れの大雪だったため、
家臣たちは、刀の柄が濡れない様に、刀の上から柄袋を被せて、紐でしっかりと縛っていました・・・

このため、水戸浪士の急襲に、即座に刀が抜けず、主君の井伊直弼は殺されてしまいました!

護衛の家臣は、8名が切られて死亡、5名が重軽傷、残りは無傷でした。

事件後、生き残った家臣たちに、藩から処分が下ります。

重軽傷者は、主君を守ろうとして切られたということで、全員が名誉の切腹!!

無傷の者は、主君を守ろうと戦いすらしなかったということで、全員が斬首のうえ、家名は断絶!

可愛そう〜・・・

井伊直弼は、安政の大獄で、吉田松陰や橋本左内らの偉人たちを処刑したので、自分が殺されたのは
仕方ないかも知れません。

また、襲撃した水戸藩浪士たちは、死を覚悟のうえでの決行だったでしょう。

しかし、襲撃を逃れて、何とか運よく生き残った家臣たちには、平和ボケの安穏な毎日が続いていたのに、
いきなり、切腹か斬首の何れかしかなかったとは!、武士の社会は厳しい!

一方、襲撃した水戸藩の脱藩浪士たちは、襲撃時に斬られて死んだ者1名、負傷して自刃した者4名でした。

その後、8名は自首して、後に斬首。

3名は逃走しましたが、1名が捕まって斬首、そして、残りの2名は明治まで生き延びました。

桜田門を起点とする道路が「桜田通り」です。

(仕事帰りに桜田通り沿いに歩いた記録は、「桜田通りを歩く」を見てね。)     

                   

桜田門を右手に見ながら、桜田濠沿いに歩いて行きます。



写真左の赤レンガの「法務省」は「米沢藩上杉家江戸屋敷」跡、そして、写真右の「警視庁」は
「豊後臼杵藩松平家屋敷」跡です。



歩道脇に写真の「柳の井」の説明板がありました。



説明板によると、ここ桜田濠の土手の下の方に井戸があり、井戸の傍らに柳の木があったことから
「柳の井」と呼ばれていたそうです。

間もなく、緩やかな上りの三宅坂付近に差し掛かり、左手に、最高裁判所や国立劇場を見ながら進みます。



三宅坂交差点の辺りに来ると、桜田濠の先に上の写真の「半蔵門の土橋」が見えてきます。 

半蔵門まではもう少し上り坂が続きます。  

下の写真の「半蔵門」に到着しました。



半蔵門は、現代でも、何故か、他の門と比べ警備が厳重です。

上の写真のずっと奥に微かに見える門が半蔵門ですが、これ以上は近づけません。



望遠を使用して、上の写真の半蔵門を撮影しました。

「半蔵門」の名前は、あの有名な忍者の「服部半蔵」が、この門の近くに居を構えて警備に当たっていたことに
由来します。

江戸城に危難が迫った際、将軍は、服部半蔵の手引きで、江戸城の半蔵門から甲州街道に入り、甲府城へ
落ち延びる手筈でした。

このため、甲州街道に沿って、「番町」には「旗本の大番組」が、「新宿・百人町」には「鉄砲隊」が、「八王子」には
「千人同心」が配置され、逃走する将軍に、途中で合流する予定でした。

半蔵門の前を左折して、新宿通りを歩いて行きます。

(仕事帰りに新宿通り沿いに歩いた記録は、「新宿通りを歩く」を見てね。)   

                           



新宿通りを少し歩くと、左手の狭い道に、写真の「太田姫稲荷神社」がありました。



案内板 によれば、室町時代に、太田道灌の姫が、当時大流行した天然痘に罹りました。

このとき、太田道灌に、山城国(京都府南部)の「一口(いもあらい)の稲荷神社」に祈願すれば必ず治る、
と言う人がいたので、早速、山城国の一口稲荷神社に参詣祈願しました。

すると、姫の病がたちまち治癒したので、お礼に、一口稲荷を伏見から勧請して、この「太田姫稲荷神社」を
建てたそうです。

更に、新宿通りを歩いて行きます。



新宿通り沿いの上の写真の「上智大学」は、「尾張徳川家中屋敷」跡に建っています。

四谷駅に到着しました。



四谷駅の麹町口の「雙葉学園」の前には、写真の「四谷見附」の石垣があります。







四谷駅前を通過して、更に、新宿通りを新宿方面へ向かいます。


四谷見附から、新宿を目指して、「新宿通り」(甲州街道)を進みます。

ここからは、新宿通り沿いのお寺や神社を拝観しながら歩く予定ですが、地図を見ると、この辺りは迷路の様に
入り組んだ路地なので不安です。



そこで、携帯のマップナビを片手に、四谷二丁目付近の左側の狭くて入り組んだ路地を進んで行きます。



マップナビのお陰で、迷わずに、入り組んだ路地の奥の目的の上の写真の「西念寺」に着きました。

小さなお寺も、携帯に入力すれば、ほとんど地図が出てくるので、なかなかの優れものです。



   

「西念寺」の境内には、上の写真の「半蔵門」の地名で有名な「服部半蔵の墓」と、下の写真の「徳川家康の長男の
信康の供養塔」がありました。



歴史上は、家康の長男の信康は、母の築山殿と共謀して甲斐の武田氏と内通したため、信長の厳命により、
家康は泣く泣く自分の息子の信康に切腹を命じた、とされています。

しかし、近年の説によると、信長は家康に「処分は任せる、家康の思い通りにせよ」と言ったのにも拘わらず、実際には、
家康が自身の判断で長男の信康を切腹させた、そうです。

従って、後年になって、歴史が書き換えられたというものです。

つまり、江戸時代には神様として崇められた家康が、自分の長男に切腹を命じるなど、そんな無慈悲な行為をするハズが無いと、
後世の家臣達が忖度して書き換えたらしいのです。

果たして、真実は、家康の信長への行き過ぎた忖度か、それとも家康と信康のドロドロした権力抗争か、はたまた、
家康本来の無慈悲な性格によるものだったのか?

 

次に、携帯のマップナビを片手に、狭くて曲がりくねった路地を「於岩(おいわ)稲荷田宮神社」を目指します。



「於岩(おいわ)稲荷田宮神社」は、上の写真の「須賀神社」の広々とした敷地の近くの、下の写真の様に、狭い敷地の中に
ひっそりと建てられていました。









この神社には、江戸後期の歌舞伎脚本家・鶴屋南北の「東海道四谷怪談」(注)の主人公の「お岩」さんが祀られています。



(お岩さん:NHKBS・TVプレミアムカフェ「東海道四谷怪談」から)

(注)「東海道四谷怪談」のあらすじ

 江戸時代、四谷の左門町に、「民谷(たみや)伊右衛門」と妻の「お岩」が住んでいました。

 伊右衛門は、婿養子の身でありながら、自らの立身出世のために、上役の娘と重婚して子を儲けてしまいます。

 お岩が邪魔になった伊右衛門は、毒薬を盛ってお岩を殺します。

 伊右衛門は、お岩殺しの罪を被せるために小仏小兵衛を殺害して心中に見せかけ、お岩と一緒に川へ流しました。

 その後、伊右衛門は、お岩の怨霊に取り憑かれます。

 また、お岩の祟りによって、伊右衛門の関係者が次々と死んでいきました。



(NHKBS・TVプレミアムカフェ「東海道四谷怪談」から)



(NHKBS・TVプレミアムカフェ「東海道四谷怪談」から)



(NHKBS・TVプレミアムカフェ「東海道四谷怪談」から)



(NHKBS・TVプレミアムカフェ「東海道四谷怪談」から)



 (NHKBS・プレミアムカフェから) 



(NHKBS・プレミアムカフェから) 



(NHKBS・TVプレミアムカフェ「東海道四谷怪談」から)

当時、歌舞伎「東海道四谷怪談」は、江戸・中村座で公演され、大評判となりました。

東海道四谷怪談はフィクションですが、実は、江戸時代に実在したモデルがいました。

実在のモデルの「お岩」さんは、家が傾いていた「田宮家」を、夫の「伊右衛門」と共に建て直した”賢妻”でした。

「お岩」さんは、”賢妻”として江戸の有名人だったので、後には、多くの人々が、四谷のこの「田宮家」の庭にあった
屋敷社(現在の「於岩田宮稲荷神社」)に参拝しました。

この話を知っていた作者の鶴屋南北は、有名だった「お岩」さんと「伊右衛門」の名前だけをちゃっかりと拝借して、
当時、世相を騒がせていた事件をストーリーに織り込み、「東海道四谷怪談」を書き上げました。

このため、実在した「田宮伊右衛門」を「民谷(たみや)伊右衛門」に変え、場所も「甲州街道の四谷」を実在しない
「東海道の四谷」とボカシました。
 

現在は、歌舞伎で東海道四谷怪談を演じる役者が、上演中の無事を願うために、ここに参拝しているそうです。

因みに、この於岩田宮稲荷神社の現在の宮司は、田宮家の末裔だそうです。

 



「田宮稲荷神社」を出ると、路地を挟んだ向かい側に写真の「陽運寺」がありました。



 上の写真の写真の様に、「於岩霊堂 陽運寺」とあります。

え?、こちらも「於岩(おいわ)」霊堂 なの。

う〜ん、何か於岩稲荷神社と紛らわしいお寺の名前だなあ〜?

「於岩稲荷田宮神社」がお岩さんを祀る神社なのに対して、こちらは、お岩さんを祀るお寺みたいです?





昭和期の開山だという、この陽運寺は、なかなかの商売上手で、狭い境内に、甘味処、喫茶、記念品売り場があます。  





本家の於岩稲荷田宮神社には、訪れる人もいないのに、こちらのお寺は、若い女性が大勢訪れていました。   





上の写真は、「お岩さんゆかりの井戸」ですが、皆さんが混同するといけないので、念のため以下に説明しておきます。

井戸の脇で、夜な夜な「いちま〜い、にま〜い... 」と皿を数える幽霊は、「お岩」さんではなくて、「番町皿屋敷」の
「お菊」さんです。

まあ、どちらも、フィクションの怪談ではありますが・・・


陽運寺の前の狭い路地を歩いて行き、新宿通りに戻ります。



更に進んで行くと、やがて、次の宿場町の「新宿」の入り口である、新宿通りと新宿御苑トンネルの分岐点が見えて来ました。

(上の写真の右側が「新宿通り」で、左側に「新宿御苑トンネル」の上の方が微かに見えます。)


02:新宿へ


        
00:目次へ戻る