(写真は、築地本願寺和田堀廟所の「樋口一葉」の墓)
以前にもご説明しました様に、甲州街道は、江戸城が落城した際の幕府軍の逃走路の位置づけでした。
従って、家康は、最も信頼出来る高島藩(長野県諏訪市)、高遠藩(長野県伊那市)、飯田藩(長野県飯田市)の
3藩以外の大名には、参勤交代で甲州街道を使用させませんでした。
「下高井戸宿」は、次の宿場の「上高井戸宿」と半月交代で勤める「合宿(あいじゅく)」でした。
参勤交代で通るのは3藩のみと少なかったので、「下高井戸宿」は、本陣1軒、問屋1軒、旅籠3軒で、宿泊施設としては
こじんまりとしていました。
当初は、甲州街道で最初の宿でしたが、内藤新宿が設置されると次第に素通りされるようになったそうです。
甲州街道(国道20号線)が井の頭線の上を跨ぎ、下の写真の明治大学和泉校舎の正門前辺りまで来ると、この辺りから
「下高井戸宿」の町並みが始まっていたみたいです。
明治大学の正門の脇に写真の「塩硝蔵(えんしょうぐら)地跡」の説明板が立っています。
説明板によると、この一帯には、江戸幕府の「塩硝蔵(えんしょうぐら)」(鉄砲弾薬の貯蔵庫)がありました。
この塩硝蔵は、当時、御鉄砲玉薬方の同心3人が年番交替で居住していたそうです。
明治維新の際には、この塩硝倉は官軍に接収され、その弾薬は上野彰義隊や奥州諸国との戦いに使用されました。
そして、明治以降は、陸軍の弾薬庫として使用されていましたが、第二次大戦では、米軍の空襲の標的となりこの一帯は
焦土と化しました。
明治大学の直ぐ隣には、写真の「築地本願寺 和田堀廟所(びょうしょ)」があります。
ここは、築地本願寺の分院で、築地と同じ様に、インド様式の大本堂です。
大本堂に隣接して広大な墓地があり、この墓地の中に下の写真の「樋口一葉の墓」もありました。
(樋口一葉記念館については、「吉原界隈散策」を見てね。)
他にも、海音寺潮五郎、古賀正男等の墓があるらしいのですが、墓地が広くて探せませんでした。
和田堀廟所から暫く歩くと、街道の歩道の脇が「玉川上水跡」で、上下の写真の様に一段と低くなっており、小公園として
整備されていました。
その小公園の先で、甲州街道(国道20号)の右手の細い道を入って行くと、上の写真の様な寺町があり、ずらりと8軒のお寺が
並んでいました。
上の写真は、その中のひとつの「栖岸院(せいがんいん)」で、開基は老中・阿部重信だったので、住職が将軍に直接拝謁できる
「独礼の寺格」でした。
国道20号(甲州街道)に戻り、更に歩いて、京王線の下高井戸駅を過ぎ、桜上水駅の近くまで来ると、街道の右側に、
明治40年創業のお洒落なディスプレイの写真の「竹細工店」がありました。
上の写真の2階の屋根の看板の右側に竹細工の大きな象が飾られているのが分かりますでしょうか?
この竹細工店の辺りに、下高井戸宿の本陣や問屋場があった様です。
竹細工店の少し先に、上の写真の「覚蔵寺」があり、下の写真の案内板がありました。
その案内板によると、本堂には、日蓮上人が彫ったと言われる鬼子母神像が安置されている、とのこと。
この鬼子母神像は、日蓮上人が、鎌倉の龍ノ口で処刑されそうになったときに、胡麻のぼた餅をくれた老女に、
礼として与えたものだそうです。
更に少し歩くと、街道沿いに、以下の写真の日蓮宗「宗源寺」があります。
下の写真の境内の案内板によると、宗源寺の境内の上の写真の「不動堂」は、かつては高台にあり「高井堂」と呼ばれていたので、
そこから、この辺りの地名が「高井戸」になったそうです。
この宗源寺の隣の上の写真の薄茶色のビルの辺りが、下高井戸宿の本陣だったそうですが、今はそれを示す標識すら
ありません。
その先の鎌倉街道入口交差点で、甲州街道の反対側の歩道へ移動すると、写真の「下高井戸の一里塚」の説明板が
立っていました。
日本橋から数えて4里(16キロ)の一里塚です。