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『急に具合が悪くなる』['26]
監督 濱口竜介

 人にとって豊かな時間とは何だろうということをゆったりと流れる画面のなかでしみじみと感じさせ、196分を少しも長いと感じさせない造形の見事さに恐れ入った。このような運びのドラマでそれを果たすのは奇跡的だという気がした。

 若き日に早稲田大学で文化人類学を修士課程まで学び、今はパリで介護施設の施設長を務めながら意欲的に施設改革に取り組んでいるマリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)と、ソルボンヌ大学で哲学を学んだ末期がんの舞台演出家の森崎真理(岡本多緒)が互いに、これまでの人生はこの巡り会いのための準備期間だったと思えるような出会いを果たし、掛け替えのないソウルメイトになっていく僅か一か月余りの時間を描出して、今の時代にこそ必要な、国籍を超えたグローバルな課題を身近に引き寄せて意義深い、大変な秀作だと思った。一週間ほど前に観たオールド・オークでのイングランド北部のパブ店主のTJ・バランタインとシリア難民ヤラとの巡り会いが生みだした“連帯”も素敵だったが、マリーと真理とが互いに互いを思いやる心遣いの根っこにある“連帯”が美しかった。

 劇中劇で清宮吾朗(長塚京三)が語る、イタリアで精神病院を廃止させたフランコ・バザーリアの名は人生、ここにあり!でも覚えがあるが、近づいてみれば、誰もまともな人はいないという境界線の覚束なさは、僕が我が子を持つ前に勤めていた知的障害児施設職員の時分に体感したものでもある。

 マリー=ルーから介護における“技術論”としてのユマニチュードの説明を受けて、演出家の森崎真理は演劇における演技論に通じるものだと感得したに違いないのだが、マリーがぶつかっている壁に対して敵が構造なら、構造的に整理してみようと、少子高齢化は資本主義の必然としたうえでホワイトボードに、問題が生じることの構造を解いてみせ、ないものねだりのカネが得られたとしてもカネでは解決しない構造の核心を解題されてマリーの霧が晴れる場面に感銘を受けた。登場人物の皆人が、マリーの指揮する施設にて過ごすなかで、職員も入居者のみならず家族、近隣者までも含めて豊かな時間を得ているのを観ながら、最も囚われなく自由な精神を獲得しているのは、吾朗の孫智樹(黒崎煌代)なのではないかという気がしてくるような配置でもあったように思う。

 哲学と文化人類学こそは、ともに僕が若かりし頃に惹かれた学問領域でもあり、学者としてではなく職業人としてその学んだことを礎石にして生きている二人の姿をとても美しいものとして観た。そして、施設長のマリーと対立する古参看護師ソフィー(マリー・ビュネル)を真理から似た者同士だと思うと指摘されてむかつくと笑いながら返していた二人を好もしく眺めながら、随所に観客をニンマリさせる台詞をちりばめてあるユーモアを好もしく思った。監督・脚本を担った濱口竜介は、言葉をとても大事にしていると感じた。だからこそ、マリーと真理との間に生まれた連帯の基盤に“言葉の通い合い”を置いていたような気がする。いつまでも話し合っていたいと二人が感じている描出に実感が籠っていたように思う。確かに自分にも覚えのある感覚だ。

 真理がマリーに告げた人生で初めて言ったも好かったなぁなどと言っていたら、映友からいいセリフ、いいシーンが満載で、長尺なのに「また観たい」と思える作品でしたね。あの足ツボマッサージのシーンなんかも優しさとおかしさがあってほっこりしました。とのコメントが寄せられた。痔を指摘されてマリーが真理に枕を投げつけた場面、まさにツボを突いていたのだろう。足ツボマッサージに限らず、痛みと解しの“境界線の覚束なさ”は、苦楽の“境界線の覚束なさ”同様に非常に人間的なものだ。白か黒か、勝ちか敗けか、敵か味方か、右か左かといった幼稚な人間観、社会観では、とうてい現場に根ざした対処などできないことを象徴的に示すものとしても足ツボマッサージは登場していたように思う。真理との出会いによって心の凝りを解されたマリー=ルーが、職場で入所者の傍らでも眠ることができるようになっているのを示していた終盤の場面が印象深い。

 チラシの記載によれば原作はがんの転移を経験しながら生き抜く哲学者と、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者が交わした、20通の往復書簡からなる同名書籍。とのこと。されば、清宮吾朗が演じていた小舞台は原作にはない創作だったのだろうか。バザーリアの偉業を引いて「やれば、できる」と訴えていた舞台を観て感銘を受けたマリーが、ポスト・パフォーマンス・トークでの質疑において日本語で本当に不可能なことは可能だと思いますか?と問うたことに対して、公表はしていなかった自身の末期がんにも触れながら、不可能なことは不可能だけれども、それは可能になるまでのことであって、不可能から可能への抜け道を見つけることができて固定観念が破られることもあると思うというような答えを返したことから始まる二人の関係というのは、原作にはないものだということになる。二人が熱っぽく真剣に日本語で交わす質疑に対して観客からフランス語で!との声が上がったことに対して、清宮が訳さなくていいでしょう。二人が大事なことを真剣に話していたことが判れば、それで充分ですと取りなしたうえで、それだけフランス語が達者なら、なぜフランス語で演じなかったのかと問われて感情を表現するには母語で語ることが必要だからですと答えていた場面が印象深かっただけに、原作の往復書簡ではどうなっていたのだろうと思わずにいられなかった。

 この「やれば、できる」については、先ごろ十六年もの先輩ながら矍鑠たる新聞部OB会の会長に誘われて母校を訪問した際に、クラブ活動と生徒会活動を総括する特活部長の先生から往時の生徒会活動を激賞されて振り返ったばかりだったことから、尚更に響いてきたのかもしれない。

 それにしても長塚京三の達者なフランス語には驚いた。前にYouTubeで二谷英明が外国人歌手にインタビューしつつ通訳も兼ねている動画を観て、その巧みさに驚いたことを思い出した。思えば昨年観たでの元大学教授の専攻もフランス文学という役だった。『敵』でも好演だったが、本作でも見事な風格だったように思う。

by ヤマ

'26. 6.27. TOHOシネマズ1



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