『オールド・オーク』(The Old Oak)['23]
監督 ケン・ローチ

 最後にカラーからモノクロに変わる労働者の行進場面で終える作品でTJ・バランタイン(デイヴ・ターナー)たちが掲げていたデモンストレーション旗に刻まれていた言葉Strength(強さ)・Solidarity(連帯)・Resistance(抵抗)が、英語で記された上段のみならず下段にアラビア語でも記されていた姿を観ながら、これまでに観てきた数々の作品で訴えられていた「連帯」を求めて止まないケン・ローチの揺るぎなき意思の堅さこそがオールド・オークだと強い感銘を受けた。樫の木の堅さは鋼鉄の硬さとは異なる自然界に育まれた有機的なものだ。

 その名を持つパブのオーナーのTJが看板の最後の文字Kが傾き、堕ち掛けているのを棒で持ち上げ掛け直そうとしている場面から始まる物語だった。僕が映画日誌に20世紀後半において求められた“連帯”による世界構築への模索が、一時期は世界的規模で高まりながら、それにもかかわらず潰えたことで却って強い敗北感とアパシーを残し、シラケの時代を経て、競争というもっともらしい偽装を施しながら、その実、真っ当な競争などハナから排除した分断と搾取の仕組みを強者の論理で押し付ける社会体制をグローバルに押し広げてきたように僕は感じている。と綴ったケン・ローチ作品のこの自由な世界で['07]を観たのは、十七年前のことだ。本作には慈善ではなく、連帯だというTJの台詞も配されていた。

 2016年イングランド北部と明示された本作で取り上げられているシリア難民に対するヘイトスピーチや敵意は、本来、国籍を超えてインターナショナルな連帯に進むべき労働者同士を分断するために仕組まれた既得権者たちによる誤ったナショナリズムや自国民ファーストの称揚に乗せられた、愛と人間性を欠いたものだという認識と信念に基づいて紡がれた物語におけるTJの姿に心打たれた。我が事よりも人々のためにと労働運動に邁進して妻子を失望させ、家庭を失ったと思しきTJの人生への悔恨と挫折感がもう一度、デモ旗を掲げた行進への参加へと転じていく、シリア難民ヤラ(エブラ・マリ)との間に生じた行き掛りと、そこから田舎町に拡がっていった波紋が実に美しかった。

 妻子に去られ、全てを失って自死を計ったTJに死を思い止まらせた子犬マラの死に強い憤りを露わにしながらも、その蘇生など得られない報復には決して向かわず、悪意に満ちた配管破損工作に幼馴染の親友が加担していた裏切りに衝撃を受けても、自分は知っているぞと強い非難と失望を込めた眼差しで対峙するに留めるTJの姿には安易な共感を許さない厳しさが宿っていて迫力があった。ケン・ローチが掲げているのは、連帯と共にある非暴力主義だと改めて思った。

 挫折から立ち直りかけていたTJの見舞われた二大ショックから彼を救ったのは、彼の祖母が残していた記憶を呼び覚ます“同じ釜の飯を食うことによる連帯”という古今東西の人間に普遍的で素朴なオープンマインドだったように思う。ヤラの母親が持参した食事をきちんと食べるのを見届けるまで帰らないからねと言っているとヤラが通訳していた言葉のなかに籠っている親身に微笑んだTJの表情がとても好かった。妻子とこのような時間を持てていれば、との悔恨がよぎったか否かは窺い知れなかったが、マラの命の代償とも言える形でTJの得た、実に掛け替えのないものだったような気がする。

 だが、おそらく彼にとって最も衝撃的だった出来事は、幼馴染のチャーリー (トレヴァー・フォックス)が、地元育ちではないヴィック(クリス・マクグレード)のヘイトに乗せられる形で、長く深い付き合いの自分の取り組んでいる活動の破壊に加担していたことだったように思う。多少の諍いを起こすことはあってもまさか、あのチャーリーが…と愕然としていた。それとは程度の差こそあれ、この排外主義というかヘイトについては、僕にも思い当たるところがあって、旧友たちのなかにも、すっかりとまではいかなくても少なからず染まっている者がいて衝撃を受けた覚えがある。台詞は互いにシュクラン(ありがとう)と言い合うTJとヤラで終えた本作にある人間観のほうが真っ当だし、気持ちが好い。国籍や人種で人間が決まるものではない。

 TJに(荘厳な教会の建物は)教会のものじゃない。建てた職人のものだ。との言葉を残していたのは、彼の父だったか祖父だったか。作り手の立ち位置を明示した印象深い台詞だった。かつて“国家主義”と呼ばれ“民主主義”の対立概念だったものを、近頃は“権威主義”などと言い換えて国家色を消してきているようだが、この言葉には、労働に従事する民こそが中心となるべきだとの思想が力強く込められている。ISにムスリムの教会を破壊されたことへの無念を語るヤラが目を瞠っていた教会の美しさもまた印象深い。

 今や卒寿になるケン・ローチは、本作でもって映画制作を終えると宣言しているようだが、TJではなく彼の眼差しで捉えたチャーリーを描いた作品を観てみたいと強く思った。彼が妻と思しき女性の介護に勤しむようになって蒙った苦労と、難民受け入れに反発を覚えるようになったこととの間にある事情には、自分が住まいを得るために要した対価とは比較にならない安価で外国資本が資産取得をしていることへの憤りに通じるものがあることを窺わせていたのだが、アサド政権の収容所で虐待死したと思しきヤラの父親を悼む集いに参列していた彼の胸中にあるものをケン・ローチの眼差しで見せてもらいたく思った。
by ヤマ

'26. 6.21. キネマM



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