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『敵』['23] | |||||
監督 吉田大八 | |||||
大学教授を定年退官して十数年とのことだったが、八十歳前後になると思われる高齢ながら、今なお雑誌に一つ連載を持っていて、講演依頼も来たりしている独居老人渡辺儀助(長塚京三)の悠々自適の羨むばかりに優雅な“夏”から始まった物語が、“秋”以降、画面も話も不穏に揺れ始め、“春”の死に至った顛末が大腸癌なのか自死なのかも定かにはないまま、きちんとしたエンディングノートを残していた姿が美しかった。十年後の自分もこうなるのだろうと思うところと、とてもこうはいかないだろうと思うところの両方が交錯して感慨深かった。 チラシに記された「©1998筒井康隆/新潮社」からすれば、未読の原作は二十七年も前の作品のようだ。筒井康隆六十四歳時の作ということになる。劇中で教え子の鷹司靖子(瀧内公美)が経済学部出の教養もデリカシーも欠いた編集担当者に「メタファーよ」と諭す台詞が登場するが、質実で悠然とした独居生活を営みながらも蓄積沈殿してくる老いの不安と孤独の隠喩として描き出された老人の夢と妄想の在り様が見事に今様で恐れ入った。 二年前に読んだ『ネット右翼になった父』を想起させるようなところもあって、原作小説には、どのように描かれていたのか気になった。かなり潤色もしているのだろうが、矢庭に原作小説を読んでみたくなった。観る人によっては、“北から襲撃してくる敵”や“襲ってくる難民”を妄想する渡辺の姿に認知症を読み取る向きもあるのかもしれないが、認知症で片付けてはいけないものがあるように僕は感じている。鍵を握っているのは、生身の人間との人的交流だと感じるからだ。渡辺元教授のような人物でさえも僅かな人的交流しかなくなると老いの不安や孤独から心が病んでくるのであって、脳の機能障害たる認知症とは別物だろうと思う。 内容の有無によらず生身の人間との対話を欠くことが一日たりともない状態の継続こそが老後における最大の課題のような気がした。性的妄想の部分は、そのことの究極を象徴しているものだったろうと思う。トラブルというか揉め事でさえ人と交わることに他ならず、潜在意識では求めてしまうような孤独の苛みこそが人の心を壊していくのだろう。 それにしても、瀧内公美は好い。彼女が登場するとモノクロでも画面に艶が出てくる気がする。物腰物言いが何とも好い。『火口のふたり』['19]を観た際に「二人の関係性がどのように変じているのか、二人の十年後の姿を観たい」と綴った歳まで後四年だが、待ちきれない思いが湧いた。 | |||||
by ヤマ '25. 9.26. 高知市文化プラザかるぽーと | |||||
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