『遠い山なみの光』(A Pale View of Hills)['25]
監督 石川慶

 被爆八十年ということがあるのかもしれないが、今夏は、長崎を印象付けられる邦画を立て続けに観たような気がする。夏の砂の上長崎―閃光の影で―ときての本作だった。

 原作者のカズオ・イシグロは、1954年生まれのようだから1982年には二十八歳で、大学を中退して不倫の恋に身を焦がしつつ、ライターとしての自立を図っているニキ(カミラ・アイコ)よりも少し年嵩になるが、ピアニストに挫折し自死を遂げたとの姉景子がマリコ(鈴木碧桜)のことだとなれば、同じく幼い時期に日本からイギリスに移り住んでいる点からは、彼女とも重なるところのある人物だということになる。

 されば、ニキと景子の母たる悦子(吉田羊)の抱えていたものというのは、原作者が自身の母から得たインスピレーションなのだろう。マリコの腕にケロイドの痕があり、若き悦子(広瀬すず)が夫の緒方二郎(松下洸平)に被爆のことを知っていても自分と結婚したかと問い詰める場面を置いてあるところからすれば、実際に被爆体験があったのだろうという気がした。1982年の悦子が娘のニキに語る佐知子(二階堂ふみ)のエピソードに出てくる、被爆への暴言に激しく反応し憤る母娘の姿には、悦子=佐知子であろうがなかろうが、原作者の母親の抱えていたものが強く現れていたような気がする。佐知子に託してアメリカ移住願望を語っていた言葉が大きな意味を持っていた。

 人が自分自身の体験を、友人ないしは知り合いの話として人に語ることは、殊更に嘘として暴き立てるほどのこともないレトリックの一種のようなものだが、三十年前の佐知子が悦子に明かした、人には言えないようなこともして生き延びてきたのだということは、1982年の悦子にとって娘に直には伝えられないことに違いない。チラシの表の中央に記されたその嘘に、願いを込めたとの惹句の指すところは、そういったことなのだろうが、ニキが「keiko」の部屋に入って開いたトランクに衝撃を受けつつ受け止めていたであろう感慨を僕は画面から得ることはできなかった。

 母親の佐知子が艶やかに着飾りながら、娘のマリコには過度にみすぼらしい恰好をさせていることへの違和感が仄めかしていたようにも感じられる、妙に凝った造りというか、謎めかしが気に障っていたからなのだろう。おそらく原作小説には書き込まれていたであろう、景子の自死にまつわる悦子と景子の経緯がここまで割愛されずに描かれていれば、また違った印象を受けたようにも思う。画面も役者もなかなか観応えがあっただけに残念な気がした。

 すると、高校の先輩から「この映画、要は悦子が娘にした話は、悦子が佐知子で佐知子が悦子なんでしょう?」とのコメントを貰った。三十年後に悦子がニキに語りたかったのは、佐知子に仮託した悦子自身のことであるのは間違いない気がするが、“彼女の話に登場した悦子”すなわち佐知子なる人物が実際にいたのか、或いは自身を佐知子に仮託するうえで必要になって創造した人物なのかは、映画化作品からはよく判らない感じだった。緒方元校長(三浦友和)の件が本作において取って付けたような感じを残したのもそれ所以のような気がする。けれども、三十年前の悦子が、別個に実在する“悦子自身とは異なる人物”だとするなら、夫婦関係や義父との関係の微妙さを含めて、ヘンに詳し過ぎる気がしないでもない。だから、悦子が娘のニキに語った二人は、単純に名前を入れ替えただけの、それぞれ別個の実在人物というよりは、三十年前の悦子もまた悦子自身をモチーフにした創作人物として三十年後の悦子の話に登場していたのだろうと僕は思っている。悦子=佐知子であろうがなかろうがと前述しているのも、そういう意味でのものだった。

 そして、旧知の映友女性と意見交換を重ねるなかで、悦子には1942年生まれの万里子、1952年生まれの景子、1962年生まれのニキと、異父姉妹が三人いた可能性が高いという気になってきた。万里子=景子ではなくなるが、三姉妹だったとなれば年齢問題が解消されてすっきりする。そのうえで、'82年の悦子(吉田羊)が語った'52年の佐知子(二階堂ふみ)が'40年代の“戦後間もない悦子”で、悦子(広瀬すず)が'50年代の“渡英前の悦子”のように思えてきたのだ。

 ニキは母親が姉の景子のほうばかり向いていて自分を顧みてくれないと零していたように思うが、まさに景子がそれを“死んだ(場合によっては猫の如く殺された)万里子”に囚われている母に対して感じていたのではなかろうか。映友女性はあの猫殺しは、本当の事でしょう。それを観ていた景子は、ロープを持った母に殺されると、思ったのかも知れません。それが折檻に繋がり、行方不明の万里子を探しあてるシーンの、ロープの傷痕に繋がっているのだと思う。とも述べていたが、その部分が非常に重要な意味を持って来るわけだ。その場合、万里子は十代半ばでの性被害的な不本意な妊娠によって生まれた子だったような気する。

 最初の万里子は、まさに娘を追い詰めて、結局死に追いやってしまう。死なれて初めて、娘が我が手に戻ってきたんじゃないですかね。と映友女性が景子=万里子について言っていたような経緯によって亡くし、次の景子は、追い詰めたわけではないけれども“死なせた万里子”に囚われたまま疎外感を植え付けて亡くし、三人目のニキにはチラシに言うところの「願いを込めた嘘」を語ることによって回復を果たせることになるのではないかと思うに至った。
by ヤマ

'25. 9.13. TOHOシネマズ2



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