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『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』(Harold and Maude)['71]
監督 ハル・アシュビー

 これが『帰郷』['78]のハル・アシュビー監督の『ハロルドとモード』か。2010年のリバイバル公開時には、当地でもオフシアター上映されながら観逃していた作品だ。

 奇しくも前夜に、数十年ぶりでキャット・スティーヴンスの歌を続けざまにYouTube視聴していた奇遇に驚くオープニングだったが、いきなりの息子の首吊り自殺に冷ややかな母親(ヴィヴィアン・ピックルズ)の姿に意表を突かれながらも、浴槽での大量失血死と続き、この狂言自殺というか自死芝居が子供を尊重しない母親へのハロルド(バッド・コート)の反抗であることが露わになるにつれ、滑稽さよりも哀れっぽさのほうが強くなると同時に、十九歳とも思えぬ脆弱さを抱えた幼児性にぼんぼん育ちの境遇を感じた。趣味は葬儀への参列と自死芝居だと精神科医に答え、十五回も重ねていると言っていたハロルドは、それゆえに死期がそう遠くはない老女モード(ルース・ゴードン)の世の常識や規範にお構いなしの破天荒な伸びやかさに惹かれたのだろうが、結婚を言い出すことには、流石に驚いた。

 モードの八十歳での服毒死は、葬儀参列を趣味とする同好の出会いによる六十歳年下の少年のような青年からの求婚の有無には拠らない既定の行動だったのか、あるいは、これまでの人生で最大の喜びだとしつつ、これで失くす心配がないと貰った指輪を放り捨てる行為と同じく、ピークからの下降を来す日常を拒むと同時に、若きハロルドへの配慮も働いた気がしなくもなかった。ハロルドが求婚しなければ、モードの自死は訪れなかったのかもしれないと思うと同時に、モードの自死がなければ、ハロルドが車で崖から飛び降りることもなかった気もする。

 ラストに現れたやけに明るいハロルドの姿に、霊柩仕様の愛車との決別による生還を観る向きもあるかもしれないが、僕は死してようやく明るさと自由を得た姿に映った。邦題に「少年は虹を渡る」との副題が付けられているのもそれゆえのように思う。虹とともに彼岸へと渡ったような気がしたことについては、車で崖に突っ込む姿に、後年のテルマ&ルイーズを想起したからなのかもしれない。だが、オーバー・ザ・レインボーなれば、オズの魔法使がそうであるように、この世ではないわけだ。夢の国か死後の世界、いずれにしてもハロルドは、バンジョーを弾きながら、この世から去っていったように思う。

 テルマと言えば、先ごろ観たばかりの『テルマがゆく! 93歳のやさしいリベンジの老女もモード張りに我が道を行く破天荒な婆さんだったが、さらに十三歳も上回る。テルマ婆さんからすれば、八十歳ごときで自死を図るのは、おこがましいとしたものだろう。'71年作品から半世紀以上経て、高齢者の尺度が大幅に変化している気がするわけだが、それを思うと、五十三年前における七十九歳女性と十九歳青年との歳の差ベッドイン場面のインパクトは、今観る以上のものがあったことだろう。話題になった岸恵子の『わりなき恋』2013年初版)や松井久子による『疼くひと』2024年初版)でも古稀七十歳、『最後のひと』2025年初版)でも七十五歳だから、五十四年前の傘寿とくれば、驚くほかない。映画自体がモード張りにタブーを超越していたわけだ。

 だが、本作で最も観応えのあった場面は、首吊り、失血に加えて、プールでの水死、椅子に掛けてのピストル自殺といったデモンストレーションを入念に重ねていた場面だったような気がする。うんざりしたような母親の姿との対照が何とも可笑しかった。だが、常軌を逸脱した変わり者という点では、息子以上に息子の心お構いなしの供給魔たる母親のほうだったような気がしてならない。彼女の逸脱とモードの逸脱とは根本的に異なることを鮮やかに見せていた対照がなかなか利いている作品だったように思う。そして、常識であれ、規範であれ、生からであれ、こうした逸脱が、ある種の肯定感とともに描かれることは、今ではすっかりなくなっていることを再認識させられる作品でもあった気がする。

 モードの腕に残されたナンバリングの刺青が暗示していた過酷な収容所体験が、彼女に権力者の定めた規範などには決して与しない強い意志を育んだのであろう。警察に対する挑発の不敵さには筋金の入ったものがあったが、よもや白バイジャックまでしでかすとは思わなかった。シニアカーで爆走する93歳のテルマ以上の苛烈さがあったように思う。
by ヤマ

'25. 9. 7. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画



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