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『朝やけの詩』['73] | |||||
監督 熊井啓 | |||||
過日『狼の紋章』の映画化作品を観た際に、映画化VS小説化というテーマで、ちょうどノベライズ本を貸してもらっていた『朝やけの詩』と対照させて課題作にするのも一興ではないかと提起したが、叶わなかった作品だ。映画としては、三十五年ぶりの再見になる。熊井監督と親交のあった今は亡き田辺氏が、'90年に小夏の映画会で上映したのは16mmで、平和資料館・草の家でのことだった。関根恵子の動かないヌードであれば、映画公開時の平凡パンチやプレイボーイのグラビアがまだ手元に残っている。 ノベライズ本を読んだときに「「九月はじめの暑い日だった」で始まる小説の最初の場面が春子の水浴だったのだが、映画のほうはそうではなかった気がするものの覚束ない。」と記したオープニングは、アバンタイトルとなる序章として、小説版と同じく春子の水浴と朝夫たちの地蜂取りを映し出していた。十九歳の春子を演じた関根恵子は当時十八歳、朝夫を演じた北大路欣也もまだ三十歳になったばかりの頃の作品だ。 二人の若者の存在感は圧倒的ながら、熊井明子があとがきに「小説は、美しい自然の中での、山の娘・春子と、風変わりな石工・朝夫の恋が中心になっていますが、映画のほうは、仲代達矢氏扮する作蔵(開拓村の男・春子の父)にウエイトがおかれています。」と記しているように、貧しい開拓民たちに対する“資本家による蹂躙”と“国策による蹂躙”が印象深くなる作りだったように思う。映画でも小説でも最後を締めていた「おらァ見届けるだ、この土地がどうなるだか。…」(P265)との作蔵(仲代達矢)の台詞は、戦中は満蒙開拓に駆り立て戦後は山深い奥地の原生林に入植させながら、生産性の上がらない開拓農業よりも観光開発に転じて開拓民を追い立てるような“人民の血と汗を蔑ろにする政策”を戦後も変わらず続けている国なるものの行く末を見届けなければという作者の叫びでもあったような気がする。昨年亡くなったばかりの熊井明子さんは、格差社会が露わになり、力のある者が遣りたい放題に振舞う自由を当然視する新自由主義が蔓延するようになった二十一世紀を観てどのように感じていたのだろうと思わずにいられなかった。 ただのノベライズとは一線を画する格調とニュアンスの豊かさが小説としての魅力を獲得していたノベライズ本を読んだ後では、二時間超の長尺で観賞してもダイジェスト版のように感じた。小説を読んで印象深かった、三つの百円玉が六つになるエピソードも深尾先生も登場しなかった。格調とニュアンスの豊かさが映画作品は及んでいないような気がする。そのことが最も端的に表れていた場面が柏開拓村を出て行く前の日の春子と朝夫のラブシーンだったように思う。 '70年代風ムーディに彩られた映し方の安っぽさが残念至極に感じられる代物で、映画には使われていなかった小説版の帯に大きく映し出されていた写真のワンショットに及ばない有様だった。小説版では、二人が結ばれたのは作蔵の飼っていた乳牛クロの死から始まる暗転前のことだったが、ラブストーリーを描くつもりがあまりない映画版では、少々安直なクライマックスとして最後に持ってきていた気がする。そのうえでのベタなムーディカットだった。 参照テクスト:小説版『朝やけの詩』を読んで | |||||
by ヤマ '25. 6.16. 日本映画専門チャンネル録画 | |||||
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