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『朝やけの詩』を読んで | |||||
熊井明子 著<二見書房> | |||||
映画作品['73]は、遅ればせながら三十五年前に観ているが、ノベライズ本があるとは知らなかった。むかしは小説の映画化はあっても、映画作品のノベライズなどというものは、余程のヒット作でないと出ないように思っていたから思い掛けなかったが、作者は熊井監督の奥さんのようだ。さすれば、映画作品の脚本に名を連ねている桂明子というのも熊井明子のことなのかもしれない。 公開当時に話題となった関根恵子のヌード写真は、いくつかの雑誌のグラビアを切り取って今も手元に残している僕の十代の大事な記録なのだが、驚いたのは、単行本の半分域を占める大きな帯に、春子を演じた関根恵子と朝夫を演じた北大路欣也が揃って裸の胸を曝け出している写真が大きく映し出されていたことだ。納屋で伸ばした脚の腿の上に載せた朝夫の瞼を閉じた頭を撫で包みながら優しい眼差しで笑みを浮かべて見下ろす春子の姿が、その美しく豊かな乳房と相俟って、柔らかく綺麗な二人の関係を湛えた、実に素敵なショットなのだが、今やこういう装丁が許容されない時代になっている嘆かわしさを痛感させられた。この“ほぼ絶対的とも言うべき美”を猥褻という感性で捉えることのほうが常識化している心の貧しい時代に一体いつからなったのだろう。 「九月はじめの暑い日だった」で始まる小説の最初の場面が春子の水浴だったのだが、映画のほうはそうではなかった気がするものの覚束ない。「春子は手早く衣服を脱ぎ捨てた。 信州の厳しい自然が育む、香り高い林檎のように、春子の体も美しくみのっている。顔や手足は小麦色に陽やけしていても、まるい乳房や豊かな腰は、まっ白で、うす青い静脈の色さえ浮かべている。今、のびやかに成熟した十九歳の体を見ているのは、風と光と樹々だけだ。春子は安心しきって湖畔へ飛び出して行った。この湖は、柏開拓の人造湖と違って、ほとんど人が来ない。…素裸の全身に、水の冷たさを心ゆくまで感じると、春子はくるっと仰向になって、静かに手足を動かした。長い髪の毛が解けて水草のようにゆらぎながら広がった。まるい乳房が顔を出し、冷水でかたくなった乳首は緋桃の莟に見える。水の中では、魚がやって来ては、つんつんと背中をつついていく。奇妙なくすぐったさに、春子は身ぶるいした。」(P8~P9)と綴られた背泳ぎカットは、残しているグラビア写真のなかにもある。 弟妹思いの春子が印象深く描かれる「三つの百円玉が六つに」なるエピソード(P47~P51)の場面が映画でどうなっていたのか再見したく思った。そして「女だからって、あなたまかせは駄目よ。何も高校に行かなくても勉強はできる。良い本を読んで、いつも深く考えて、自分が良いと思う道を進むのよ。そんな春ちゃんを幸せにする男性がきっと現われるわ」(P62)と春子に説いていた深尾先生を映画で演じていたのは、誰だったのだろうと思ったりした。 「<これからは土耕して、牛飼って、平和に楽しく暮らそう、……やり直そう>二十五年前、八重子に語りかけたのが昨日のような気がする。戦いからも、人間同士の摩擦からも遠く離れて、安住しようとして来たこの地であった。旧海軍の上司から自衛隊に誘われたがきっぱり断った。この地に根をおろし、牧場を作り、八重子と二人で子どもを育て、何代もが住み継ぐ基礎を作ろうと思ったのだ。」(P101)という作蔵の志が場当たり的な国策の変遷と利権に目敏い人々の欲望によって翻弄され、潰えていく物語を読みながら、作蔵以上に悲劇的な生を送っていたように感じられる、映画では岩崎加根子の演じていた八重子の記憶がほとんど残っていないことに狼狽した。作蔵から彼女を奪った塚越(永井智雄)の映画における造形がどうだったのかも気になる。地元の有力者の稲城が佐分利信だというのは、いかにもな配役だと納得。 著者たる熊井明子は、あとがきで「小説は、美しい自然の中での、山の娘・春子と、風変わりな石工・朝夫の恋が中心になっていますが、映画のほうは、仲代達矢氏扮する作蔵(開拓村の男・春子の父)にウエイトが置かれています。」(P269)と記していたが、僕の記憶にある映画の印象は、やはり若い二人の恋と環境破壊を巡る開発事業による村人分断であって、作蔵の影は薄かったりする。 「それ(朝夫と結ばれて)からの春子は、自分でもおかしいほど、何をしても張り合いがあった。いつも自分の中で踊っているものがある。生き生きと目覚めているものがある。山も湖も、初めて見るように美しい。恋は、女の感覚をこんなにとぎすますものだろうか。和夫の口から、朝夫の名を聞いただけで飛び上がった事もあった。自分の夢を一緒にかなえてくれる人がいることの嬉しさ。愛されていることの喜び。春子は、朝夫を本当に知る前の自分は、十分の一も百分の一も、自然の命を生きていなかったと思った。 滝見ヶ丘を鍬をふりあげて力いっぱい耕しながら春子は、朝夫に抱かれた時の不思議なおののきを思い出していた。乳房の奥がかすかに痛み、くちづけの感覚が唇に甦った。思わず手が止まる。 <今すぐ会いたい!> 春子は、そんな自分にはっとして、作蔵のほうを見た。」(P121~P122)と小説に綴られた春子と、両親が実の親ではなく養父だったと知り、「すみ(養母)にとって、綾は犯しがたい主家の奥様であった。朝夫に目をかけてくれることだけでも、もったいないことだった。朝夫は膝においた手に目を落とした。 <綾は俺を憎んだことはないのか……自分の夫が他の女に生ませた俺を……> 朝夫の闘争心が萎えていった。いつかの虚無感がしのび寄ってきた。出生そのものが間違っていたと思うと、一切が面倒になった。」(P191)と綴られていた朝夫を関根恵子と北大路欣也がどのように演じていたのか、確かめてみたくなった。 それにしても、引用した箇所だけでも思うことだが、ただのノベライズとは一線を画する格調とニュアンスの豊かさが小説としての魅力を獲得している作品だと大いに感心した。熊井明子には他の小説作品はないのだろうか。 | |||||
by ヤマ '25. 6. 6. 二見書房 | |||||
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