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『サブスタンス』(The Substance)['24]
監督・脚本 コラリー・ファルジャ

 スプラッターを好まなくて余り観ていないので当てにもならない比較でしかないが、数あるスプラッター映画のなかでも流血量の多さには格段のものがあるのではないか。自然の摂理を蔑ろにした邪悪な“汚れた血”の洗礼を浴びていたのは、いわゆる欲望社会のなかで勝ち組側に属する者として大晦日の公開特番ショーの観覧に招待されていたと思しき人々だ。彼らのなかに流れている血も、怪物が撒き散らしていた血飛沫と同質のものだということなのだろう。その浴びせかけ方には「これがお前たちの血だ~」との叫びが宿っていたような気がする。

 それはともかく、スクリーンに大きく映し出される文字の使い方に限らず、極めて挑発的な運びと画面作りにギャスパー・ノエの影を観るような思いが湧いた。ノエの映画で僕が観ているのは『カルネ』カノンアレックス『クライマックス』エンター・ザ・ボイドLOVEヴォルテックスの7作品だが、『ヴォルテックス』の映画日誌に記した何らかの企みと挑発が仕込まれている文体の力そのものは、既に失速したと思しき現在のノエを凌駕していたような気がする。

 本作の主題は、ずばり人間の極大化させた欲のグロテスクさだったように思う。食い散らすグルメ欲であれ、アンチエイジングであれ、成功欲であれ、性交欲であれ、それらに囚われた男女ともどもが異様にカリカチュアライズされて映し出されていた。デミもマーガレットもデニスもなかなか凄かった。

 ルッキズムと性の商品化にどっぷりと嵌っているのは、五十歳になったエリザベス・スパークル(デミ・ムーア)を降板させ、代わりに若く瑞々しい肉体を誇示するスー(マーガレット・クアリー)を登用するばかりか、大晦日の特番のメインキャスターに抜擢するテレビ局の実力者ハーヴェイ(デニス・クエイド)や彼が引き連れていたスー目当てのスポンサー“老紳士”たちもさることながら、それ以上にエリザベスやスーのほうであることを生々しく描いていたところが強烈だったように思う。

 その過激なまでの展開を観ながら、先ごろ合評会課題作として三度目の観賞をしたばかりのタクシードライバー['76]同様に、この作品もエリザベスの交通事故以降は、実は事故死していた彼女が死の間際に観た妄想などと解する人がいそうに感じたのだが、そう解することで得られるものは何なのだろうと思ったりした。そもそも映画というものそれ自体が妄想の産物であると思っている僕には、夢オチとか妄想だとかは割とどうでもよく、大事なのはそのイメージの喚起してくるものが何なのかだということのように思えて仕方がないようなところがある。

 その意味では、エリザベスが使ったサブスタンスによって彼女が「ドリアングレイの肖像」の如き老化ばかりか遂には怪物に変異して、もはや人間とは言えない化け物になってしまうイメージのなかに、欲望創出消費社会の申し子のように思えるサプリや健康食品の怖さが暗示されているように感じられるところが、現実社会と繋がっていて悪くない気がした。映画そのものは気の悪い作品だったけれども、スーの張りのある肢体とその動きに幻惑されたのも間違いない。
by ヤマ

'25. 6.18. キネマM



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