『バニシング・ポイント』(Vanishing Point)['71]
『俺たちに明日はない』(Bonnie and Clyde)['67]
監督 リチャード・C・サラフィアン
監督 アーサー・ペン

 今回の課題作は、ともにアウトローを無軌道に突っ走って散った若者を描いて、ともにバンジョーの響きが印象に残る作品が並んだ。『俺たちに明日はない』と『バニシング・ポイント』とのカップリングだと本来なら、'60年代作品の『俺たちに明日はない』から観るところだが、既に五年前に日誌も残していて、今回が三度目の観賞になることから、未見の『バニシング・ポイント』のほうから観ることにした。

 爆走するカーアクションだけでも映画になった時代の作品だと思った。なに故あそこがコワルスキー(バリー・ニューマン)の消失点になったのか、今ひとつ腑に落ちない気がしつつも、嘗て義憤に駆られ、警察官不祥事を暴いて失職したと思しき元警官があそこまで無茶を重ねて、おめおめと捕まる訳にもいかぬだろうとは思った。車両納入が用務の運転をあれだけ乱暴に行う動機が、麻薬の売人に持ち掛けたスピード競争の賭けだけというのでは釈然としない。だが、謎の盲人DJスーパーソウル(クリーヴォン・リトル)に煽り立てられた人々に何処か追い立て追い込まれたようにもあって、哀れっぽくも感じた。

 午前中に愛を耕すひとを観て、一昔前なら絶対に脱ぎ惜しみしていないはずの場面だと感じたのとは対照的に、さすがは'70年代作品だけあって、イージーライダーならぬヌーディライダー(ギルダ・テクスター)まで登場する本作では、サーフィン事故で亡くしたと思しき恋人ヴェラ・ソーントン(ビクトリア・メドリン)のみならず、中年警官からセクハラを受けた娘までもバストトップが映し出されていた。また、あの頃は、警官に逆らう無軌道さだけでもヒロイックに描かれることが成立していたんだなと改めて思った。1950年代を舞台にした遠い山なみの光で「自らに由ること」が保障されることの重さが謳い上げられていたことと対照すると感慨深い1970年代のコワルスキー消失だったような気がする。

 翌日観た『俺たちに明日はない』は、五年前に日誌に残しているところと変わりなかったが、今回『バニシング・ポイント』と併せ観ることで、そのアウトラインが両作でほぼ変わらない“無軌道な暴走が思い掛けなく一般大衆の支持を得るなかで迎える若者の死”でありながら、コワルスキーとボニー(フェイ・ダナウェイ)&クライド(ウォーレン・ビーティ)とでは対照的に映って来たのが妙味だった。

 もともとは死に向かうつもりもなかったように見えたコワルスキーが、盲人DJの煽るラジオ放送に影響された大衆の支持と警察の意地によって行き場を失い、消失点で散っていったのに対し、ボニー&クライドのほうは、ボニーを口説いたときのクライドの台詞にあったように、太く短く派手に生きようじゃないかと、ある種の覚悟を以て滅びに向っていくことを自らの選択としていたように思う。お先真っ暗の冴えない時代に対する抗議でもあったろうし、銀行強盗はしても農夫の所持金には手を付けず、新聞メディアに詩を寄稿するなど、強盗団ではあっても金銭強奪以上に、ある種の美学というか恰好を付けた生を貫こうとしているように描かれていた気がする。そういう意味で、追いやられ型のコワルスキーとは対照的だったように思う。コワルスキーをさんざんヒロイックに煽り立てていたDJが自分の身に危険が及ぶや即座に屈して警察が仕掛けた罠への協力をし始めるエピソードは、コワルスキーの哀れを引き立てるうえでよく利いていた。


 男性四名、女性一名となった合評会では、主に『バニシング・ポイント』を軸に話が広がっていたように思う。両作とも所謂アメリカン・ニューシネマに位置づけられる作品とのことで、その観点から選ばれたカップリングだったようだ。作品に対する支持は三対二で『俺たちに明日はない』が上回ったのだが、『バニシング・ポイント』に投じた二人の意見が面白かった。

 映画としての出来映えや力では『俺たちに明日はない』だけれども、好みは『バニシング・ポイント』のほうだという男性の意見はありがちなことでもあるので、納得しやすいのだが、若い時分に観てフェイ・ダナウェイに入れ込んでファッションまで真似たと言い、兄に連れられて行った『バニシング・ポイント』のほうは、ただのカーアクション映画じゃないかと思ったという女性メンバーが、今回再見したら『俺たちに明日はない』に新味を覚えなかったのみならず、殺人まで繰り返すならず者集団を明るく肯定的に描いていることに違和感を覚えた一方で、『バニシング・ポイント』に対しては単なるカーアクション映画ではなかったことに感動したからという意見には、そこまで逆転するのかと驚かされた。

 主宰者によると『バニシング・ポイント』の評価が高かったのは、日本だけの現象で、本国では決して高くなかったらしい。なんでそうなるの?という展開や場面の唐突感が目立ったのは、やはり同作だという気がする。だが、今回『バニシング・ポイント』のほうを支持した女性メンバーからは、コワルスキーを哀れっぽく感じたという僕の受け留めに意表を突かれたとの意見表明があり、決して追い込まれた自死ではなく、彼自身が選んで果たしたものだと思うとのことだった。僕自身は同作における盲人DJスーパーソウルの位置づけの重要性から、その意見には与しないけれども、勿論そういう観方感じ方もあるのだろうなと思っている。

 また、『俺たちに明日はない』の強盗団一味を演じた五人の俳優は、五人ともアカデミー賞にノミネートされ、クライドの嫂ブランチを演じたエステル・パーソンズだけが助演女優賞を獲得したとのこと。そこから、二作を通じて最も印象深かったのは誰かという話題になったなか、コワルスキーを演じたバリー・ニューマンは、何故その後の活躍がなかったのだろうとか、思わぬ線を突いてC.W.モスを演じたマイケル・J・ポラードが好かったという意見があった。『俺たちに明日はない』のブランチに当たる形で騒々しく喚き散らすのが『バニシング・ポイント』のスーパーソウルだと思ったりするなか、最も印象深かったのはとなると、やはり僕は、断然フェイ・ダナウェイだと思う。あまり好みの女優ではないのだが、本作では活き活きしていた気がする。外形的にではなくイメージ的に、柴咲コウに相通じるものを感じると表明すると、確かにとの賛同を得るなか、そうかなぁとの異論の元、米倉涼子説を唱える者もあった。だがそれは、米倉涼子のイメージというより彼女の演じた大門未知子のイメージではないのかと思ったりした。
by ヤマ

'25. 9.15. DVD観賞
'25. 9.16. BSプレミアムシネマ



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