沼津城主水野出羽守は付近の漁村小船数百艘の救助船を出し、数本の元綱から数十の枝綱を張り2000トンの巨船を曳航しようとしたが、万策尽き終に元綱を切り、百数十隻の小船を避難させた。乗員は数回に分かれて上陸し、打ち揚げられた艦内の排水に努めたが、民衆は自らの被害も忘れて遠巻きにし、悪口を叫んだと記されている。幕府の弱腰が背景にあった。下田にて死亡の一名を除き乗員587名全員無事救助され、陸路戸田に向かった。
|
プチャーチン提督は、幕府全権団に、破損修理を兵庫か浜松でと要望したが、幕府は至近の良港戸田へだを指定。 三方山に囲まれ風浪無く、英仏とクリミヤ戦争中のロシアを、米英仏の目から遮蔽するには格好の戸田港であった。
12月21日下田にて使節としての日露和親条約の任務を果たしたプチャーチンは、帰艦沈没につき造船の交渉に移った。
ディアナ号の代艦 は100日余りで1855年5月4日(安政2年3月18日)竣工 100トン級 総長81尺1寸竜骨62尺5寸最大幅23尺2寸、 2本マスト、積荷量400石、戸田号と命名され、プチャーチンは47名の乗員と出帆、仏艦に出会い4日後あらためて出帆、翌年一月に首都ぺテルスブルグに戻った。
|
幕府側から戸田村に派遣された者は、勘定奉行水野筑後守、川路聖謨をはじめとして200名前後、造船関係16名、船大工約40名、人夫150名
優柔不断な幕府を鞭打って条約締結から造船許可まで、諸難問解決に尽力したのは川路や岩瀬らであった。
川路、沼津水野出羽守の伺案書によれば3100両2分の予算
これは、日本最初の洋型船(君沢型)建造までの顛末記、わずか16頁の冊子ではあるが、海事思想教育に資する為、近代造船の嚆矢の地として 戸田村教育委員会が関係資料を作成したものである。 |