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くにやんの だいじなお友達♥あおさんから、がんばっているメールが届きました
くうねる専門のくにやんのお友達にしては 心根口跡うつくしいところがいいです
2011年7月22~25日
被災地・岩手県大槌町へ 2泊4日のボランティア活動
ツアー最年長63歳で参加した あおさんの記録 と 傷ついた日本への深ーい思いです
photo.&edit. by K.Ao
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岩手県大槌町の
今回活動場所
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大槌町不明者
捜索 黙祷
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大槌町 堤防の
無残な様子
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岩手県遠野市
ふるさと村曲り家
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地震・台風そして豪雨--日本とは、自然の猛威とともに生きていく場所なのだろう。 今年は特に、地球そのものが日本を基点に大暴れしている感があります。 いや46億年を越える地球の歴史の中では、ほんの些細な出来事であり、自然が暴れる 日本は、だからこそ豊かな自然が残り、多彩な動物達が暮らすホットスポットなのでしょう。
3.11東北地方太平洋沖大地震からすでに4ヵ月が経っていますが、震災ボランティアー ツアーに参加しましたので、その様子を、少し真面目に報告します。
参加したボランティアツアーは、岩手県北観光が主催したバスツアーで、7月22日夜 東京発、23・24日と岩手県大槌町でボランティア活動、25日帰京という日程、宿泊は 遠野市の遠野ふるさと村でした。(南部曲り家に宿泊)
ツアーの参加者は、40人。男20人、女20人とピッタリ同数なのにはビックリ。 女性が多いこと、若い人が多かったことには、その意識の高さと行動力に感心しました。 若い夫婦参加者が3組、青年となった男の子をつれた中年夫婦が1組、さらに13歳の 男の子をつれた親父さんもいました。九州のソフト会社が新入社員を4名派遣していま した。二人連れ程度での参加が多かったようですが、私同様一人参加も結構いました。 そして付言すれば、63歳の私が最高齢でした。
ボランティアは、津波で破壊された住宅のガレキ整理でした。解体処理され重機で整地 された後を、手作業でガラスや陶器片、家具や生活用品などの破片を集め、スコップで 土嚢袋に入れていく--そんな作業でした。10時~12時、13時~15時の活動でした。 40人2班に分け、手分けしての作業で、作業自体はそれ程厳しいものではありませんで したが、直射日光の当たる中で、使いなれないスコップを使うなど、チョット大変ではあり ましたね。おかげで持病の腰痛が悪化して、いまだに傷みを引きずっています。
作業した場所が、あの大津波で甚大な被害を受けた大槌町の、正に被災地中心部である 安渡地区であった事で、この津波の凄まじさを身近に感じることが出来たのが一番の収穫 でした。港から300m位の場所で、眼に入る範囲の全てが大津波によって破壊されていま した。三陸鉄道山田線の鉄橋は、無残に破壊され、線路は何処かに流されていました。 津波から街を守るために造られた高さ6m近い堤防も、軽々と乗り越えられ、寸断されて いました。それらの悲惨極まる状況を、お昼の休憩時間に、この眼に焼き付けることができ たのでした。
大槌町は、人口が15000人強の街ですが、市街地の半分が浸水し、人口の一割を超える 1700人弱が死亡・行方不明となる--という破滅的被害を受けた町です。 地震発生から4ヶ月が過ぎ、大津波に浚われた家や建物は、ガレキとして処理され、海辺に 山となって集められていました。全てが土台だけ残して更地化された様は、営々と築いてきた 人々の生活そのものが、見事なまでに、海の水によって洗い流されてしまったことを表して いました。
M9という大地震と、それがが引き起こした1000年に一度という大津波の凄まじい 破壊力をこの眼で見て、人間の小ささ、無力さを実感させられました。
ボランティアツアーには、5回目の参加です、3回目です--という方々が何人もおられました。 土日ということもあり、沢山のバスがボランティアを運び、多くの人々がボランティアに参加して いる様を見ることが出来ました。一人では小さな力であっても、多くの力が集れば、大きな力と なって事を前に進めることが出来るということも、確認できたことでした。 宮古市に住み、仕事場が津波に流され、職を失い、今はボランティアツアーの添乗員として熱く 働く若者が、バスの中で訴えていました。「被災地の現状を知って欲しい。意識を持って支援して 欲しい。そして支援を継続し、支援の輪を広げて欲しい。そうすれば、希望を持って復興に向け 動いていく事ができるだろう。」
宿泊した遠野市は、大槌町の隣の釜石から1時間ほど内陸に入った山里です。柳田国雄の 遠野物語で知られますが、百名山早池峰山の麓にあると言えば、山好きには通るかな。 ここの遠野ふるさと村に泊まれるのが、今回のツアーの魅力でした。ここには、江戸末期から 明治中期に建てられた曲り家が6棟保存されており、その2棟に男女分かれて泊まりました。 ふるさと村は、文化と伝統を保存し体感できる施設として造られたものですが、敷地内には 川が流れ、田や畑が作られ、実際に馬が住んでいる曲り家もありました。この種の施設とし ては大変良く出来ていて、「龍馬伝」などテレビ・映画の撮影にも数多く使われています。 ハスの花が咲く池では、ホタルが輪舞するさまを久しぶりに観察することも出来またのでした。 ツアーでは、この施設のビジターセンター内にある食堂で食事をし、曲が家の囲炉裏ばたで 酒を飲みながら語り会うなど、ある種ワンゲル的な盛り上がりのある楽しいものでした。 ツアー参加三回目の、静岡から来た62歳のオッサンが仕切った夜の部では、全員がツアー に参加した動機や、現地を観て活動をしての感想を語り会い、時に涙する輩も出るなど、 他のバスツアーでは味わえない体験をしたのでした。 また、最後の日には80歳になる地元の語り部が、曲り家の炉辺で「遠野昔話」を語ってくれ ました。方言で聞き取れないところもあったのですが、「艶笑小話」みたいで愉快でしたね。
ボランティア初日の23日、13時34分に宮城沖を震源にするM6クラスの地震がありました。 休憩時間で休んでいる時でしたが、グアーという大地が唸るような音がした後、強い上下動が ありました。津波もありうる、とのことで近くの墓地の斜面を登って高台に避難しました。少しし て、「津波の心配はありません」との報を聴き、ホットしたものですが、チョット緊張しましたね。 翌日のam3時頃にも余震がありました。曲り家の中で寝ていたのですが、木の雨戸がギシ ギシと震えました。誰も起き上がって逃げ出す人はいませんでしたが、皆が布団の中で体を 固くしていたようです。
ボランティアとしては、宅地のガレキ整理をしたのですが、余震で作業を早めに切上げたことも あり、100坪程度の場所ながら最後まで終えるには至りませんでした。9割程度は完了したと いうことでしょうか? 40人でこの程度、正直、ボランティアに来て、役に立てたのだろうか? 今では、ボランティアに求められる役割は変わってきているのでしょう。浸水した民家の泥出し など、生活を直に回復させる仕事は殆ど終わっています。GW初めに、同じ大槌町で活動した 人は、「良くここまでガレキを整理したものだ」と感嘆していましたが、住めなくなった家は破壊 し、ガレキとして集めるーーという部分までは、この大槌町ではほぼ終わっていると感じました。 勿論、集められたガレキをコンクリート・金属・木など可燃物に仕分けし、本当に処理すること までは進んでいません。また、同じように壊滅的被害を受けた陸前高田市は、未だにガレキが 散乱している部分が残っている--との事ではあります。 大槌町に来たボランティアの別のグループは、ガレキで汚された大槌川を整理して、菜の花で 黄色に染めよう--との「菜の花プロジェクト=河原の草刈」が活動であったとのことです。 それは、希望に灯をともす活動ではありますが、生活を直に復旧させるためのボランティアとは 違うものになっていましょう。
大津波に流された鉄橋の先から、生活の場の全てを破壊つくされた街の姿を俯瞰して、これを どう復興させたらいいのだろうか? と絶望的になったものですが、今こそ、行政が政治がその 機能を発揮すべき時であると、心底思います。そして、その頼るべき行政が政治が、あまりに 不安定である、この現実に、忸怩たる思いにいたるのが、本当に情けなく、寂しく思います。 大槌町は、町長が津波に飲まれ亡くなりました。来月の8月28日に、やっと町長選挙を行なう ところまで漕ぎ着けました。この選挙が終わり、本当の復興へのスタートを切ることになるので しょう。その時には、今の総理は退陣し、この復興を後押しする新しい体制が築かれているか、 はたまた、政局がさらに拡大し破裂して、解散総選挙などという事態になっているのだろうか。
前向きにボランティアに取り組み、汗を流す若い世代に、希望の芽を見ました。それとともに、 我々団塊の世代など大人たちは、人々を守るために一体何をしてきたのだろうか? 未曾有の大地震・大津波とは言え、一面これは人災であるとも言えます。大槌町では、高さ 6mを越える大堤防を築きましたが、その堤防を過信してか、堤防の奥に多数の家が建てられ そこに住む人達は、多くの人が逃げ遅れて亡くなったのでした。堤防は川に沿って「ハの字」 に造られたため、津波はかえって勢いを増し、その堤防を易々と乗り越えた後は、10mを優に 越える鉄橋をなぎ倒すまでに増幅して町の殆どを呑みこんだのでした。鉄橋の少し先にあった 町役場では、津波が襲うその直前まで防災対策会議が行なわれており、屋上に避難できた 一部の人を除いて、町長を初め多くの職員が津波に流されるという悲劇を生んだのでした。 三陸沿岸は、津波の常襲地帯であることは良く知られています。安政・明治・昭和と各時代に 三陸大津波と言われる津波に襲われています。そして我々の知るチリ地震大津波は、わずか 50年前の出来事でした。我々は、この歴史に何を学んできたのでしょうか?
今日は、埼玉県知事選挙でした。私も、すでに投票を済ませましたが、午後8時過ぎに開票が 始まった、まさにその時、現職知事の当選確定が発表されたのでした。出口調査のなせる技。 私の一票は実に軽く、殆ど結果に影響を残すことはありません。国政選挙も同じですね。 3年前に中国の四川省で9万人の死者・行方不明者が出る大地震が発生していますが、 被災した町を別の場所に丸ごと移すなどの復興作業は殆ど完了したと聞いています。 民主主義が、優れた政治制度であるか疑問にも思えてしまいます。 ただ、先日の中国の高速鉄道事故を見ると、日本の方がまだましか?とも思いますし。 でも、福島第一原発の現状を見ると、ヤッパリ今の日本はおかしい!!とまた思いますね。
「当たり前に思っていて、毎日普通に過ごしていた生活が、一瞬にして破壊され、奪われる --という事実にあい、こんなに恐ろしいことはなかった。」 「避難所となった学校の駐車場で家族と再会できた時は、心からアー良かったと思った。」 「どうか、大切な人を大切にして、守ってやって下さい。」 今回のツアーの添乗員兼ボランティア隊長が、宮古市で被災した日ことを、涙ながらに熱く 語った中での言葉です。 ボランティアは、被災地に希望と元気を与える役割に変わってきていると思いますが、それを 必要とする方々が、まだまだ一杯いるのです。 今生かされていることを大切にして、自分に出来ることを、地道に誠実に行なっていく-- そんな日々の積み重ねも大事にしていきたいものです。
そして、地球は生きています。我々の住むこの場所で、未曾有の大地震がいつ起こっても
不思議ではないのです。経験を活かし備えることも、また心掛けないといけないことなのです。
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岩手県大槌町の鉄橋 |
大槌町
ボランティアバス
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大槌町
打ち揚げられた船
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写真をクリックすると大きい画面が見られます
※あおさん参加のボランティアーツアー:岩手県北観光HPhttp://www.kenpokukanko.co.jp/
追補:あおさんがボランティア活動に手を挙げるに至ったこころの軌跡には、以下のような思いがけない
運命が、隠されていたのでした。戦争で生き残った人の心境に近いかしらね。
ま、まさか!のテレビ放送にモンブランスキーあお氏絶句 |
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写真左:シャモニーのホテルにて、テレビ画面は、福島原発事故を報じるNHK海外放送
写真中:エギューデュミディ展望台からモンブランとアルプスの山々を臨む
写真右:モンブランスキーあおさん→ 積雪不足と日本の心配で、こころは屈折
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続メール
2011年もあと二ヶ月ばかり。福島第一原発はじめ、復興ははかどらず災害はまだまだ続いている。そんな中、青春時代や、こころの支えを思いかえさせる出来事が次々と起きています。くにやんのお友達あおさんの心の旅を、3.11に引き続き披露させていただきます。以下あおさんのメールより。一部省略あり。
《あおさんからの同報メール1》
2011年10月24日午前6時2分、北杜夫逝く。
また一人、我が敬愛する人がこの世から消えた。
淋しい!! この喪失感はなんだ・・・・
ズーット若き日、松本から一人列車に乗った時、持っていたのは北杜夫の文庫本だった。
(どくとるマンボウ航海記)
北杜夫の本を読んで、山へのヒマラヤへの憧れを強めた。(白きたおやかな峰)
下宿屋の布団の中で、北杜夫とともに「青春とは何だ」と想った。(どくとるマンボウ青春記)
それからズーット生きているあいだも、北杜夫とともに生きていることは幸せであった。
今、あらためて北杜夫が丁度20年先達であること知った。これは仕方ない。受け入れざる
を得ないことだ。新聞記事によれば、入院して翌日に逝ったという。さすがである。
彼は、マダガスカル島の神アタオコロイノナと、この世ではない別世界で愉快にやっている
であろう。
そして、我はまたなにもすることがない時には「どくとるマンボウ昆虫記」なんぞを読んで、
あと20年生きていけたらと思う。
合掌
《あおさんからの同報メール2》
K藤さん
非文学少年ではあっても、長く教職にたずさわると哲学的思考が身につくのですね。
60年代末、北陸地方都市の大学でも学生運動がそれなりに行われ、学食前には激文のカンバン
が並んでいました。また、ベトナム反戦運動やプラハの春などの事件に心躍らせたのであります。
小説でも、大江健三郎・高橋和巳・開高健などの作家が活躍し、彼らの本を手にしたものです。
北杜夫は、60年安保の年にどくとるマンボウ航海記が大ベストセラーとなって人気作家となった。
ただ、政治的な発言・活動はほとんどない。私も、彼の本は、面白いから読むという読書の原点
に従ってのみの行為である。本を読みながら、声を出して笑い、心の底でニンマリとする・・こと
はそんなに多くあることではない。北杜夫は、そんな読書の楽しさを保証してくれる作家であった。
そして、彼から自然の生命の人生の素晴らしさを教えられたのでした。
I上さん
あなたの「白きたおやかな峰」は奥大日岳ですか。
絵葉書・添付写真を観ると、たしかに真っ白で優雅で美しい山ですねー!!
小説となったカラコルム山脈のディラン峰は、さすがに真っ白な山ですが、三角形の峰は嶮しさ
も漂わせています。(だから、登るのが困難な山なのです。少し前に、Fさんが、N氏随行で
トレッキングに行き、観てきたと記憶しています。)
それに比べ奥大日岳は、たおやかさでは、本家を超えているようですね。
なんといっても、由来の大日如来は、宇宙の中心にあられる仏様ですから、神々しさも並では
ありません。
でも、2611ピーク、2511ピークと11が続くのは・・・・
あの忌まわしき、9.11と3.11以来、11という数には恐れを抱いています。
さらに付言すると、我が女房殿の誕生日が1.11である事実・・・
私が、11という数を畏れ、恐れるのは、さずかった運命ということでしょうか??
今年8月、松本に行ったおりに、県の杜の旧制松本高校校舎を訪れた。復元されている教室に
入り、机に座って北杜夫(当時は斉藤宗吉)がここに座ったことがあったかと・・・感慨にふけった。
そして、この10月初めに、彼も良くかよった上高地(神垣内)に行き、彼も登ったであろう槍ヶ岳に
登った。
私の中で、彼の死を受け入れる準備がされていたのか・・・・ とも思うのであります。
そして、今は、数年前に買った「マンボウ愛妻記」を読んでニヤニヤしているのである。
写真をクリックすると大きい画面が見られます
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天狗原入口からの
槍ヶ岳
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雲海
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朝日に輝く
横尾尾根
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槍ヶ岳山頂の
赤い祠
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山頂からの景観・・西鎌尾根方面
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槍ヶ岳 と 俺 |
厳冬に備え草を頬張る野猿
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紅葉の明神池
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