いつか銀の翼が

(4) ローティーンガールトレーニング

「みーわーちゃん!起きなさーーーーい!朝ですよーーーーー!」
 寝ている僕の耳に入るけたたましい女性の声で僕は目を覚ました。え、何?何が起きたの?
 慌てて時計を見たけど、え?まだ朝の六時三十分…。
「みーーわーーちゃん!起きてますかあーーー!」
(み…みわちゃん!?)
 僕は背筋がぞっとする感覚を覚え、ベッドの上で一瞬凍りつく。
「みーーわーーちゃん!起きなさい!入りますよぉおおお!」
 数度部屋の扉を乱暴に叩く音がして、そしてその声の主が入ってきた。目をこすりながら見ると、黒にピンクの上下のトレーナーを着た、若いけど小太りした何だか豪快そうな女の人。
「あ、あの…」
 僕はしばし呆然としながらその人を見つめた。
「あ、私ですか?生活指導の真田です。今日こちらの担当です。あ、なんですか!パジャマ着てませんね!そんなので寝たら服もだめになるし、汗かいて風邪ひいたらどうするんですかあ!」
 そういい残すと、真田さんは部屋から出て行き、隣の可憐ちゃんの部屋の前に行ったみたいだった。
「かーーーれーーーんーーーちゃん!朝ですよ!起きてますか!?」
 その声にすかさず、
「うっせーーー!ババァ!起きてるよ!」
 初めて聞いた可憐ちゃんの可愛いけど汚い罵り声が壁越に聞こえてくる。
「はーい!元気でよろしい!」
 そして小走りに再び僕の部屋に入ってきて、まだベッドの上で寝ぼけ顔の僕の前に、手を腰にやって仁王立ちなになる。
「さっさとベッドから出なさい!女にとって朝は戦場なんですよ!さっさと顔を洗って!」
 その声に僕は飛び起きて洗面台の前に立ち、顔を洗おうとするけど、
「みわちゃん!女のくせに顔の洗い方も知らないんですかあ?」
 え、え、ちょっと、あの、僕昨日初めて…。
 おどおどしている僕はたちまち真田さんに掴まり、傍らのヘアバンドを頭に付けさせられる。
「さあ!洗ってごらんなさい!」
 僕は洗面台の前の洗顔フォームを手にして、のっそりと顔を洗うけど、
「あーもう、みてらんないねーまったく!」
 僕の背後に回った真田さんは、背中ごしに僕の手にフォームを出し、腰をかがめさせて僕の手を取り顔に当てて、丁寧に顔を洗わせる。
「ごしごしやってもだめなの!洗うだけじゃなく、こうやって同時に顔のマッサージをするんだよ。まったく何年女やってるの!」
 え、何年て、だから僕昨日から…。
 そして、化粧水と乳液。結局僕は三十分近くもレクチャーを受ける事に。そして真田さんは廊下に運んできたらしい大きなダンボールを部屋に運び込むと、
「じゃあ、今日のみわちゃんの衣装はどれがいいかしらねー」
 やっと朝のコスメを終え、余分な乳液をガーゼで拭いている僕の目が点になる。
 ペタン座りした真田さんの膝元には、明らかにローティーン用とわかるショーツとキャミのセットが畳まれて置いてあり、その色もピンクに白と黄色とブルーの水玉の派手な柄。
そして昨日着た様な派手な服が用意されると思ったけど、その横に置かれたのは、薄いパープルのトレーナーみたいな物とピンクのソックスらしきもの。そしてピンクと白のツートンのシューズ。

「あの、真田さん、僕今日はそれでいいの?…」
「え?可愛いじゃない。あとでピンクのトレーナーも用意しておきますからぁ。じゃあちゃんと着て、食堂でご飯済ませて、9時には校長室へ行くのよ。いいわね?」
「あ、あの、その、ブラは…」
「胸の無い子がなんでブラ付けなきゃなんないのーぉ」
 ドアを閉めて出て行く真田さんに僕は何か話しかけたけど、聞こえない様子。

 数分後、胸にワンポイントの三個のハートマークの描かれた、女子中学生位の娘の部屋着姿の僕が鏡に映る。昨日みたいに恥ずかしくはないんだけど…、ちょっと調子が狂っちゃう感じが…。あ、そうだ朝ごはんにいかなきゃ、

「風木さん。可愛いじゃない」
「あ、あのありがとうございます…」
 顔を真っ赤にして、室田さんからピンクにキャラクターの描かれた女の子仕様の食器に乗せられたトーストとサラダのトレイを受け取り、恥ずかしそうに足早に食堂の隅に行って、大急ぎで食べ始める。
 思い出した様に僕はすっと立って、スカートに手を当てて女の子の座り方のおさらいをする。そういえばここに座った時、いきなりドンと座った事を思い出す。
(けっこうめんどくさいよ、女の子って)
 そう言いながら、僕はトレーナーのポケットから折りたたんだ紙切れを取り出して手に取る。
(女の子になるために)
 始めにそうかかれたその書類は、昨日佐伯先生に言われた宿題の僕なりに考えた回答だった。ニューハーフスナックのママさんに言われた事もしっかり書かれたその書類。僕はそれに目を通しながら9時を待つ。相変わらず可憐ちゃんは食堂に姿を現さなかった。
 
 校舎のチャイムが九時を知らせてくれる。足早に到着した僕を佐伯先生と真田さんが僕を校長室で迎えてくれた。
「だーめですよ先生ー。女の基本も出来てない子にお洒落させるなんてー。トレーナーで十分ですっ!それ着て女らしい雰囲気が出る様にしないと、トレーニングになりませんよぉ」
 まさか真田さん僕を実は女だって思ってたのかもという僕の淡いちょっと嬉しい期待は裏切られたみたい。
「そうね、真田さんの言うとおりだわ…」
 校長室のソファーでは僕の書いた宿題を手に佐伯先生がじっと目を通しつつそれに答える。横に座った真田さんがその書類をじっと眺めていた。
 しばしの沈黙の後、佐伯先生がため息をついて宿題をテーブルに置き、僕を見据えて口を開いた。
「まあ、良く考えてはいるわね。只、2週間では全部無理なのはわかると思うけど…」
 ニューハーフスナックのママさんのヒントが入ってるので、ちょっとずるい気はしたけど。
「まずはこれを付けてちょうだい」
 そう言うと佐伯先生は足元の紙袋から何やら取り出すと僕は一瞬息を呑んだ。僕も予想はしていたけど…。
 先生のが手にしたのは黒のセミロングのウイッグ。
「真田さん、お願い」
 真田さんがそれを手に取ると、
「はーい、みわちゃん。ちょっとごめんねぇ」
 僕の頭にはウイッグ用のネットがはめられ、そして手早くその黒の毛の塊を僕につけてくれる。ブラシで髪を整えられている間、初めてウイッグを付けられた僕の心臓はバクバクと音を立て、そして顔はみるみる恥ずかしさで真っ赤になっていく。
「あら、思ったより変じゃないわねえ、先生?」
 佐伯先生は黙って長い髪になった僕に、紙袋から出した鏡を向ける。
「あ、えっと…」
 鏡に映った僕の顔は、女の子にも見えない事はないけど、うーん、やっぱり長髪を女の子風にまとめた男の子の顔だった。
 複雑そうにしている僕の顔をしばらく見た後、佐伯先生が小さなオレンジの髪留めを手にして髪に付ける。始めてのその不思議な感触に呆然としている僕に、佐伯先生は部屋の傍らの姿見の前に行く事を命じた。
 恐る恐るそれを覗き込む僕。え、これが…?
 顔だけ見たらすごく変だったけど、全身を姿見に映した僕の姿は、髪の長い普通の女の子…に見える。
「それでいいのよ。仲良しでもない限り、相手の顔をまじまじと見る人なんていないでしょ」
 そう言って佐伯先生は僕のウイッグをさわりながら続ける。
「女の仕草は、その長い髪が起因する行動が多いのよ。わかるでしょ?髪かきあげたり、顔を振ったり、食事の時は前から箸やスプーンを顔に近づけたりね。とにかく寝る時も欠かさずそのウイッグを付ける事。それから…」
 佐伯先生は僕の書いた書類を手に取ってテーブルに置き、いくつかの項目に二重線を引き始める。
「化粧は不要。その気になりゃいつでも覚えられる。スキンケアの方法とお風呂に入った時の肌のケアだけで十分。ファッションも今の所必要無し。これも不要、これもいらない…」
 残ったのは、
(歩き方、走り方等の基本動作)
(女の仕草)
(女文字)
(女声)
(女言葉)
 この五項目と、
「これは、何?」
 先生が指摘したのは、夜寝る前のあのお祈りだった。
「あ、あの、なんとなく…」
「ふーん…」
 僕と佐伯先生の間に真田さんが入り込んでくる。
「先生、これはいいんじゃない?精神的にも」
 佐伯先生も必要なのかそうでないのか目をぱちぱちさせて考えている様子。
「まあ、いいでしょ。やりなさい」
 そう言うと、今度は佐伯先生が書類に鉛筆で追記し始める。そこには、
(少女文学)
 の文字が書かれていた。
「見てわかる通り、女にとって不可欠のコミュニケーション手段を第一に選びました。とにかく二週間、かなり大変よ。土日も無いと思うわ。各項目一日一時間ずつ。余った時間はおさらいにまわして。ボイストレーナーの方は2日後に来るから、それまではその時間は他にまわして、自分で時間割作ってやりなさい。いいわね?」
「はい」
 ちょっと要領を得ない先生の指導だったけど、僕は先生の目を見つめてはっきり返事をする。
「それともう一つ。これを足に付けてちょうだい。真田さん、あれを…」
「はーいはい、これですね」
 真田さんが足元の別の袋から取り出したのは、何かの古いアニメで見た、一目でそれとわかる
「わかるわね、風木さんの男の足癖を直すギプス。お風呂入る時以外は外さないこと」
 佐伯先生の説明の間に、真田さんが素早くそれを僕の両膝にはめてしまう。
「これも地方から出てきた女の子の特訓用。でもねぇ都会の女の子の行儀もあんまりほめられたもんじゃーないしねぇ、むしろその子達に付けたいくらいだよーぉ。まあ、慣れたらいらなくなるとおもうけどぉ」
 真田さんの相変わらずの口調に僕はちょっと笑ったけど、でもこれから本格的に調教されるんだ。
 とその直後学校のチャイムが鳴った。昨日は鳴らなかったその音。いよいよ自分を女に変えるプログラムが始まったんだ。
「十分休憩。時間が来たらトレーニングの方法を説明するから。まず廊下のつきあたりの視聴覚室に来てください」
 佐伯先生はそう言うと奥のデスクに向かった。

「みわちゃん!おトイレはそっちじゃないでしょう!」
「あ、ごめんなさい…」
 男子トイレに入ろうとした僕の背後で真田さんの声が聞こえる。
「入るのは和式にしなさいねぇ。洋式は後で鍵かけますからぁ」
 なんとなしにそう指導される理由がわかる気がする。僕が個室に入って鍵をかけたその時、
「ちゃんと最初に水流すのよぉ!」
 いつの間にかトイレにまで入り込んできた真田さんの声にびくっとする僕。
(あ、そうだった)
 言われるとおりに水を流すと、再び真田さんの声。
「ちゃんとしゃがんでするのよぉ!しゃがむのは女の基本動作の一つなんだからあ!」
 もう、個室の前でそんな風に言われるとトイレしにくいじゃん!
 膝のギプスがすごい邪魔!でも早くなれなきゃ…。僕は慣れない動作でトレーナーと女の子パンツを膝のギプスまで降ろして用をたす。その時、
「あれ…これ何だっけ」
 僕のはいているトレーナーの又の部分の内側に縫い付けてある白くて細長い白の布が目に止まる。暫く考えた後、
「あ、そっか…」
 女の子の大事な部分に当たるその布は汚れを知らせるマーカーなんだ。そしてふと見ると、カラフルな女の子パンツの又の部分の布は二重になってて…今の僕にはあまり必要無いと思うけど、
(いつか、これを気にする日って僕に来るんだろうか)
 遠い未来の様な気がして、しばしぼーっとする僕。
「みーわーちゃん!休み時間は十分ですよぉ!早くなさーい!」
 ああもう、こんなのがひょっとして暫く続くの!?
「はい、ごめんなさい」
 小声で恥ずかしげに答えて、僕はトレーナーとパンツを戻す。
「出る時はちゃんと鏡の前で髪とか整えて出てくるのよぉ!」
 そう言ってやっと真田さんはトイレから出て行く。すごいおせっかいな気がしたけど、多分言われなかったら絶対僕やってない。女を仕込まれてるって気がして、ちょっとほっとする。

 チャイムが鳴ると同時に入った視聴覚室では、佐伯先生と真田さんが待ち構えていた。「以前地方から渋谷の高校に入ってきた娘が、全く都会になじめず、暫くここにいた事が有ったんだけど」
 僕の姿を見るなり唐突に話し始める佐伯先生。
「その子がトレーニングした機材があなたに使えると思うの」
 真田さんが部屋の奥から引っ張りだしてセッティングしているのは、ごくありふれた電子黒板だった。
「ある有名な映画で、主人公が自分の筆跡を変えて別人になりすます為のトレーニングしてたんだけど、それをヒントにしたものよ」
 程なく電子黒板のセッティングが終わり、そこに映し出されたのは、三十センチ角ほどの大きさの女の子が使う可愛い丸文字が5個。
「ひらがな、カタカナ、漢字、数字、イラスト、たくさん有るよ。画面の上から電子ペンで素早くなぞって、全て自分の物にすること」
 思ってた以上に大胆なトレーニング方法の説明に、僕はただじっとその画面を見つめるだけだった。
 佐伯先生は、電子ペンを操作して次々と文字や風船文字、可愛いイラストを表示しながら続ける。
「こういう文字は手先じゃなくて全身で体得するもの。とにかくやってごらんなさい」
 薄暗くて少しカビ臭いその部屋の真ん中に設置されたその黒板の前に立ち、ゆっくりとその丸文字をなぞる僕。
「だめだめ!もっと早く!体に染み込ませるの!」
 言われる通り、今度は素早くなぞってみるけど、早くも肩とか手首が痛くなってくる。「はい、そのへんでいいわ。じゃ、次は女言葉の練習方法を教えるから、ペン置いてこっちに着なさい」
 僕は少し痛みが残る手首をマッサージしながら、佐伯先生達の後を追って階段を上り始める。

 次に入ったのはパソコンが五台程設置されているパソコン室。佐伯先生はそのうち小さなカメラとマイク等が付いている一台を起動させると、ほどなくどこかの研究所が作ったらしいソフトのロゴが映し出され、その後メニュー画面が表示された。
「これは女性の基本的な会話のイントネーションと手の仕草を練習するソフト。挨拶から始まっていろんな女性の基本的な会話と手の仕草が映し出されるから、それを真似する事。終わったらここを押すと、練習課題映像の横にあなたの映像が映し出されるから、比較してみること」
 佐伯先生の言葉に、僕はちょっと興味津々で椅子に座って早速やってみる。
「おはようございます」
「お元気ですか」
「え、それはちがうと思います」
 ちょっと恥ずかしかったけど、我慢して真似して見る僕。でも、最初だからなんかぎこちない。それに、
「あの、先生。これ、今の女子高校生の言葉とか仕草とちょっと違う気がするんですけど」
 それらはどうみても、大人の仕草だった。でも、
「文句言わずにやりなさい!それは二週間後に体得できてからの話です!」
 佐伯先生にぴっしりと言われて、思わず黙ってしまう僕。
「言ったでしょ!基本をまず女にする事だって!」
「あ、ごめんなさい」
 うつむいて謝る僕に、
「とにかくやってみなさい。時々誰かが見に来るからね」
「はい」
 そう言う僕に真田さんがアドバイスを始めた。
「みわちゃん!ちょっと教えてあげようかぁ。女の子の基本の仕草はこれだけよ。
 そう言って、真田さんは僕の座ってるパソコン席から一歩下がる。
「いいこと!ツーステップなのよぉ。あたしはかーわーいい!」
 そう言って両手を合わせて頬に当てる姿に僕は一瞬引いてしまう。
「はーい、やってごらんなさーい!あたしはかーわーいい」
 只黙って何も出来ない僕に、佐伯先生から叱咤の声が飛ぶ。
「あ、あたしは、かわ…いい」
「もっと大きな声でぇ!」
「あ、あたしはかわいい」
「手はどうしたのぉ!」
「あ、あたしは、かわいい!」
 顔から火が出る思いで、大声で半ばヤケクソでその恥ずかしい動作を真似する僕。
「はーい、よろしい。次!」
 恥ずかしくて声が変に裏返ったり、手の動きが遅れたり。そして、
「あたしは可愛い」
「大切なものをあげる」
「ぜったいにいや」
「やだあ!こわい」
「とってもすてき」
「どっちがいいかな」
「あたしに、かまって」
「とっても、こわーい」
「笑顔!笑顔!」
 をやらされてしまう僕。
「はーい、ベーリグー!!女の仕草と言葉との連動にはそういう要素が含まれてるから絶対忘れない事!いい?絶対忘れない事!」
「あ、はい…」
 返事する僕を横で見ながら少し笑っていた佐伯先生が、ちょっと吹き出した口調で僕に指示する。
「じゃあ、風木さん、次は体育館ね」
 まだ鼻でクスクス言いながらパソコン室を出て行く佐伯先生に、まだ顔をほてらせながらついていく僕だった。女の子ってこんな単純な事でいいの??

「室田さん。準備は出来てる?」
「ああ、校長先生。大丈夫ですよ」
 体育館の舞台の上でカメラとか、鏡とかを調整している室田先生の元に佐伯先生が舞台のソデから階段を上がって近寄る。僕もついていくと、そこには大きなスクリーンが設置されていた。
「はい、これリモコン」
「はい、ありがと」
 順番から行くと、ひょっとしてこれが女の基本動作のトレーニング装置?あちこち興味深そうに眺める僕に、佐伯先生の説明が始まった。
「これはとある劇団が練習生用に作ったシステムです。仕組みはさっきのパソコンに入っていた言葉と仕草のトレーニング機器と似てるけど…」
 そう言いながら、佐伯先生はリモコンを手に何やら操作すると、
「普通に歩いて!」
「スキップ!」
「前から人が来てぶつかりそうになる!」
「シュートが決まった!」
 そして、いきなり雷の音も入ってる。声や音の後、スクリーンには模範的な演技をする女の子の姿が映る仕組み。そして、
「ここを押すと、スクリーンに演技する女の子の横に、それを真似たあなたの記録映像が映るわけ」
「へぇー…」
 僕はちょっと嬉しくなって、スポットライトの当たっている舞台の中央に行くと、舞台ソデの3台の小さなモニターには、僕の後ろと左右の姿が映し出されていた。
「体全体の動作は女は年齢にあまり関係なく似た動作をするの。只、これは本当は覚えるんじゃなくて、女の脳と体を持ってるなら、自然とこういう動作をしてしまうものなんだけど…」
 ちょっとあたりを見回して、佐伯先生は最後の方は独り言みたいに呟く。といきなり僕の方を振り返って意地悪そうに笑う。
「二週間よ、二週間!これも結構たくさん課題入ってるからね」
 これ、すごく楽しそう!あ、でも疲れそう…。
「じゃ、最後図書館」
 そう言って佐伯先生は、舞台の上でまだ機器の調整をしている室田さんに軽く挨拶して外に出て行く。僕も急いで後を追った。

 誰もいない静かな元小学校の名も無き施設の校庭と渡り廊下を歩く僕と佐伯先生。まわりは人家が無く初夏の山々の新緑と香りがすごく新鮮。
「とにかく、時間が無いの。外見より内面を女性に近づける努力をしなさい。こういう時間は多分今後無いでしょう」
「はい」
 素直に返事する僕に佐伯先生が続ける。
「短いけど、ここの施設では、あなたの心の中にあなたの少女時代を作る事になります。ここを出て行く時、どうなっているかはあなた次第。いいわね」
「はい、がんばります」
 僕の返事に佐伯先生が長い髪をかきあげてちょっと不思議そうに独り言。
「でもねぇ、なんで女になりたがるのか、あたしには全くわからないわ…」
 僕はあえて何も言わずに先生の後をついていった。

 図書室では真田さんがダンボール二箱を机の上に置いて、図書の選択をしている様子。「校長先生ぇー、これくらいーかしらねぇー」
 僕が興味深そうにダンボールを覗き込むと、それは、
「え…、絵本ですか…」
「絵本が三分の二位あるわねぇ」
 なんでっという感じで僕がそれを見ていると、
「とにかく、そういうビジュアル的なものを読んで頭の中を変えなさい。後、ジュニア小説とかもあるし、あとこんなのもね」
 佐伯先生はダンボール箱から一冊の本を取り出すと僕の目の前に置く。それは、
(思春期の女の子のお話)
 と書かれた本。
「これって何ですか?」
 僕がその漫画ちっくな本を手にとり、中を見てみると、うわっこれって…。
「わかったでしょ、思春期の女の子の生理と心と体の成長について書かれた本」
「生理って…」
 びっくりした様子の僕に真田さんが半分笑いながら話す。
「みーわーちゃん、あたりまえでしょー、女の子は保健体育の時間に必ず習うものよぉ。知らないで済むと思ってるのぉ?」
 佐伯先生も続ける。
「風木さんにこれが来るのかどうかわからないけど、とにかく知識としては知っておく必要は有ると思います。まあ、無い方がうらやましいけどねぇ」
 僕はダンボール箱から、机の上の本立てに一冊ずつ確認する様にそれを立てる。
 若草物語、赤毛のアン、小公女、などの絵本の他、氷室冴子、新井素子、などの著書もいくつか。
「多分これから二週間、体は疲れてへとへとになると思うから、絵本を多くしました。通常の時間以外夜寝る前にも読んでみなさい」
佐伯先生がそう言っている間にチャイムが鳴る。一時間て本当に短いと感じた。
「じゃ、次の時間から早速始めなさい」
 佐伯先生の言葉に、僕はじっと先生の目をみつめて無言でうなずく。
 次の三時限目開始のチャイムが鳴るまでの間、僕は廊下の姿見の前でじっと自分を見つめていた。怪しい薬を二回程飲んで、既に女の子用のトレーナーに身を包んでいるけど、少なくとも普通の男の子の僕はこれで見納めになるかもしれない。トレーニングの結果がどうなるかわからないけど…。
 ほどなくチャイムが鳴る。鏡の中の僕は大きく深呼吸して、そして意識して両手を胸元で可愛く振って、
「じゃ、始めるね」
 そう言って消えていった。

 最初に僕が飛び込んだのは視聴覚室。女の子文字の練習用の電子黒板をセットアップして、ステップ〇一を選択すると、ひらがなのあ・い・う・え・おが赤色で黒板に表示される。僕は電子ペンを手に取り、黒色でその上を素早くなぞる。数回繰り返すうちにもう腕が疲れてくる。丸っこい字を書く動作は、普段使っていない腕の筋肉を使う様だった。
(とにかく、今日中にひらがなだけでも、たとえ出来なくても雰囲気だけは覚えよう)
 薄暗い部屋の中、時折荒い息遣いしながら黒板の前で必死でなぞり書きする僕。一心不乱で、慣れないウイッグの髪を時々かきあげて、ひたすら練習する。
 一応ひらがな五十音をなぞり終えた時、いつの間にか時計はもう三〇分をすぎていた。(もう一度最初から)
 僕は再びあ・い・う・え・おから始める。と、いい具合に手から力が抜けたのか、今度はすらすらと近い線が描ける。試しに、黒板の何も無い所に書いてみると、
「あ、あれ?」
 今まで自分で書いた事の無い、どことなしにまるっこい可愛い字になっている。
「え、うそっ」
 いきなり僕の口からそんな女の子みたいな言葉が出てしまう。
(もっとがんばってみよっと)
 少し元気を取り戻した僕は再び電子黒板に向かって女の子文字の練習を始めた。

 次はパソコン室で女の子の口調・仕草・表情のトレーニング。最初はいろいろな挨拶から始まった。男と違って、おはようございます・こんにちはだけでも、表情や口調を数種類使い分けてるんだ。普通の時、顔見知りとの時、仲良しとの時、そして男の子に対する時とか。
 パソコン室には僕一人なのに、僕は始めて本格的に練習する女の子の仕草、表情、口調に恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらも、なんとか覚えようと必死だった。しばらくして何かすごい違和感を感じる。どうもうまく真似できない。
 パソコンに記録した模範演技と僕の仕草をじっと見比べてはっと思う。
(僕、笑顔のつもりが、全然笑顔でない…)
 今度は思いっきり顔をくしゃくしゃにして笑顔を作って比べてみるけど、今度は引きつった笑顔みたいで気持ち悪い。
(えー!まず笑顔から練習しないと…)
 システムのテキストを見ると、やっぱり有った(笑顔・笑い方)の項目。
 そのページを見ると、えー、なんだこれー!
「笑顔と笑い方だけで二〇通り以上有るの??」
 とにかく、僕にとって基本的な事から。そして、
「あたしは可愛いっ!」
「大切なものをあげるっ!」
「とってもすてきっ!」
「どっちがいいかなっ!」
「あたしに、かまってっ!」
「笑顔!笑顔!」
 このリズムをわすれずに!

 昼過ぎ、昼食を食べに食堂へ行くけど、やっぱり可憐ちゃんはいない。
「毎度の事だけどね」
 そう言いながら室田さんが可憐ちゃんの分を部屋へ運ぼうと用意し始めた。でもともかく僕は午前の二時間のトレーニングでくたくた。初めて女の子の長い髪を付けたせいか、髪を気にしながら、そして食事が髪に付かない様に注意しながらも、脂肪分少なめで量も少ない食事をあっという間に食べてしまう。
 そしてしばし机にうっぷして
(女の長い髪って、ちょっと邪魔)
 と思いつつ、目の疲れを取った。いつかは慣れるのかも、ううん、早く慣れてほしい。 うとうとしているのもつかの間、昼休みの終わりのチャイム。次は僕がちょっと楽しみにしている女性の立ち居振舞いのプログラム。
「ごちそうさまでしたー」
 室田さんへの挨拶もそこそこに、僕は足早に食堂を出て体育館へ急いだ。

 入る前にドアの前で思い出した様に準備運動する僕。でもその体操はとても変わったものだった。しゃがんだり立ったりを三十秒、そして軽くジャンプしながら手を叩く動作を三十秒。いかに女の子がしゃがむ動作をよくするからって、小躍りしながら手を叩く仕草を良くするからって、ちょっと恥ずかしくてばかばかしいと思ったけど、一応佐伯先生から言われた事だからちゃんとやろう。どこで見られてるかわかんないし。
「さあ、練習練習!」
 僕は顔に笑みを浮かべながら体育館の扉から中に駆け込んでいく。

 ところが、十分後、同じ速さで僕は体育館から校庭に飛び出し、慣れない足のギプスに何度も足をとられ、倒れそうになりながら、アーチ型の懸垂器具の一番高い所にぶら下がる。
「なんで僕!あんなに猫背なんだよー!」
 基本プログラムの一番最初のモデル歩きをやってみたんだけど、モデルの横に映された僕の歩いている姿は…、あーもぅ!思い出したくない!しょっぱなからこれじゃ、もう先が思いやられる!
 やがてぶら下がるのに疲れた僕は手を離して下におり、しゃがんで暫く自己嫌悪。でも、
「やるしかない」
 そう思い直して再び体育館へ、今度は思い足取りで消えていく。

 体育館での練習は、学校で言えば六時限目までの二時間みっちり行った。歩き方、座り方、そしてスキップの仕方、走り方。慣れない足をさすり、体育館を出た僕は再び懸垂器に手をかけ、そしてそれに疲れると校庭を見渡し、砂場の横の低い平均台を見つけると、それに上がり、気の済むまで細い平らな棒の上を往復した。
 前を向いて、背筋伸ばして、何度も何度も足を踏み外しながら。夕暮れ時になるまで、どこかの町役場からだろうか、夕焼け小焼けの音楽が鳴るまで。時折懸垂器にぶらさがりながら、トレーナーが汗でびしょびしょになるまで。

「風木さん、一日目はどうでしたか」
 相変わらずの脂っ気のなさそうな食事を僕に手渡しながら室田さんが僕に話しかけてくれた。
「ううん、もう本当自己嫌悪。思い出したくない」
 僕の答えに笑いながら、室田さんが続ける。
「風呂は用務員室の横にあるから使って下さい。後、真田さんからこれを預かってますよ」
 手渡された可愛いウサギのキャラクターの書かれた、あきらかに女児用のプールに行く時に使う様なそのバッグの中には、シャンプー、リンス他数本の薬剤、そしてメモが入っていた。
「あの、佐伯先生と真田さんは?帰ったの?」
 僕の問いに真田さんが少し笑って答える。
「帰ってなんかいませんよ。今は二人で可憐ちゃんの面接と指導。本当、今までここに来た女の子の中でもかなり問題有りそうな子だしねぇ」
「そうなんだ…」
 バッグの中を興味津々で調べながら答える僕。バッグの中にはシャンプー、リンス、あかすり、タオルの他、男はあまり使わないと思われる、シェーバー、ボディミルク、洗顔石鹸、あとフェイスケア、ボディケア用の薬品があり、その使い方を細かく書いた真田さんの直筆のメモが有った。
(放任主義って思ったけど、僕ってひょっとしてかなり大切に扱われてるのかも)
 ちょっと嬉しくなった僕は、バッグを手に取り、室田さんに質問。
「あの、体育館とか他の教室って、何時まで使えるんですか」
 その問いに意外な言葉が返ってきた。
「まあ、夜十時位までかな。風呂は九時までにしてくださいね」
 えー、すごい、練習時間たくさん有るじゃん!

 その後八時まで再び体育館で練習。そしてお風呂。レディースのシェイバーで僕の股の毛を剃るのは本当嫌だった。そして初めての僕にはむせ返る様な香りのするボディミルクとか、ローションとか。
(最低二十分はボディケアとフェイスケアを心がけること)
 その言葉を守って風呂場から出た僕の体からはいい香りがして、そしてつるつるになっていた。
(今日体動かすのは終わり!本読もうっと)
 上機嫌で足早に部屋に戻る僕だった。

 部屋のドアには相変わらず、隠し持ってきた女性ホルモンが入った縫いぐるみがかかっていた。縫い目は本当わからない様に上手く縫われている。
(こんなの必要無いってわかる様な気がするんだけど)
 これで中から取り出したら、絶対ばれそう。諦めた様子で僕はそれを元通りにドアにかけた。そしてベッドの上にダイブして、用意された絵本の中からランダムで数冊取り出して眺め始めると、疲れからか、もう眠気がしてくる。
「このままだと絶対寝るかも。先にお祈りすませよ」
 なんだか馬鹿馬鹿しいと今でも思うそれを済ませ、ベッドの上の本を何冊か戸棚に戻す僕。ふとその戸棚で僕の目についたのは、表紙に可愛らしい狐の絵が描かれた、
「あ、日記帳」
 中にはまだ何も書かれていない真新しいピンクの紙、何か微かに香水の香りもする。
 女文字の基礎を練習し始めた僕にとって、ちょっと興味有るものだった。さっそく机の上のボールペンを手に取って何か書こうとしたけど、そんなもの今まで書いた事の無い僕には、何を書いていいかわからない。
「とにかくつかれた、ばい、みわ。今日から僕みわなんだよ」
 慣れない女の子もじらしき筆跡でただ一行そう書いて、僕はそれを閉じて机の上に置いてベッドの上で再び絵本鑑賞。でも五分もたたないうちに僕はそこで寝息を立て始めてしまった。

「みーわーちゃん!おきなさーい!」
 真田さんのけたたましい声とドアをノックする音に再びたたき起こされる僕。
「え、あの、今日も…」
 ドアから顔を覗かせた真田さんに僕は眠い目をこすりながら、ちょっと残念そうに言う。
「何をいってるんですかぁ、みわちゃんの事ががあまりに不安になったんでぇ、あたしから三日間連続で来れる様に頼み込んだんですよぉ!さあ早く起きて、昨日みたいにちゃんと顔洗ってくださいなぁ。あ、またパジャマ着ないでねてましたねぇ!」
 その大声に僕は仕方なしに起き上がり、真田さんに付き添われる様に洗面台へと急ぐ。「そう、そうです。昨日の事よく覚えていますねぇ」
 背後に真田さんの気配を感じながら、女としての朝の身だしなみを終えた僕。こうして二日目が始まった。

 各項目2時限ずつ終え、たちまち学校でいうと放課後。文字、仕草、身のこなし、わずかだけど進歩した…と思う。
 文字はカタカナを覚えはじめ、仕草は挨拶を一通り。そして立居振る舞いは、歩き方と走り方をなんとなく。休み時間に猫背を直す為の懸垂は忘れない。相変わらず今日も可憐ちゃんと会えなかった。そして終わる頃佐伯先生からのお話。
「明日から一日おきにボイストレーナーの方が来ます。トレーニングの性質上、最後の六時限目に出来る様にスケジュールを調整してください」
「何か、特殊な事でもするんですか?」
「明日体験すればわかる事です」
 僕の方を見ずに手元の書類だけ見て話す佐伯先生にちょっと嫌な予感を感じたけど、僕は気にしない事にした。
「さあ、今日はこれで終わり。部屋に戻っていいわよ」
「あ、あの、僕もうちょっと練習していきます」
 佐伯先生は別に僕の言葉に何も反応しない様子。がんばってるわねの一言位、あ、そっかこれは僕の問題なんだ。
 無言で自分の机に戻る佐伯先生に、僕は軽く挨拶をして、再び遅れていると思われる立居振舞の練習に体育館へ急いだ。

 自主練習を終えて、夕食にして、また自主練習、そしてお風呂、今日ももうくたくた。明日は運動控えて、読書に…、そして二日目も早々と僕は絵本を前に気絶する様に寝込んでしまった。

 そして三日目、ボイストレーナーで来られた萩原と名乗る女の先生は、すらっとした長身で眼鏡の恐そうな人だった。佐伯先生から多分僕の事を事前に聞いているのだろうか、初対面でも変な目で僕を見る事はなかった。ただ、そのかわりに
「風木さん。確認ですが、本当に男性に戻る事は100パーセント無いとみて良いですね?」
 その目つきが恐い、僕何されるんだろうか。ちょっと返答に困っていると、
「時間がありません。かなりの荒療治になります。始まれば男性の声は戻ってこないと考えてください」
 とうとう始まるんだ、僕が男の子でなくなる治療…。でも、
「はい、大丈夫です!」
 僕の返事にボイストレーナーの先生は僕の目を見据えて軽くうなずいた。
「じゃ萩原先生、今日の水曜日と月・金曜日お願いします」
「わかりました。じゃ風木さん音楽室に来てください」
 校長室と職員室の有る廊下の突き当たりの音楽室に僕と萩原さんは消えていく。そして部屋の扉はぴしゃっと閉められた。

 六時限目のチャイムが鳴り終わると同時に、音楽室から勢い良く飛び出し、廊下の窓を開けて苦しそうに外の空気を吸い始める僕。とにかく音楽室の空気を吸うのが嫌だった。喉がすごく痛い!声が出ない!
「これくらいで何ですか!」
 音楽室からはそんな僕に向かって叱咤の声が飛んでくる。振り返って僕は涙目になりながら、
(声がでません。喉がすごく痛い!)
 のゼスチャーを萩原先生に送った。と、すぐそこの階段の影に誰かいる。
(あ、可憐ちゃん!)
 黒に金の刺繍に派手にメイクをしたその子は僕と目が会うと、フンといった表情を
僕に向け、大急ぎで階段を駆け上がっていく。
「風木さん。じゃあこの薬飲んでおきなさい」
 鎮痛剤らしきその薬を手渡された僕は、大急ぎで廊下の水飲み場に行って水と一緒にその薬を喉に流し込んだけど。
(痛い!痛…)
 僕の苦しそうな表情にとうとう萩原先生が近寄ってきた。
「大丈夫よ、一時的なものだから。明日の朝になれば直ります。それじゃ今日はここまで次は金曜日に伺います」
 そう言って軽く目礼して校長室の方に向かっていく先生の後ろ姿を見て、僕は悲しそうな目つきで大きくため息をつく。
(僕、大丈夫なんだろうか)

 そして、またたく間に一週間が過ぎた。

「室田さーん、おっはようございまーす!」
 朝食時、片手を胸元で振りながら元気に挨拶して食堂に飛び込む僕を室田さんが笑顔で迎えてくれた。
「今日もおいしそうですね」
 女声というよりは、一週間前と一オクターブ上がっただけの声だけど、室田さんは少し照れている様子。
「ははは、わしはただ焼いたり温めたりしてるだけじゃ」
「でもそれがいいんじゃないですか、愛情こもってるし」
 ひざをちょこっと曲げてトレイを受け取り、
「ありがとうございまーす。あ、何か落ちてますよ」
 僕はトレイを手に、ちゃんとしゃがんで、何やら伝票の様な紙切れを拾い上げ、食堂のテーブルの上に。そしてぺこっと挨拶して、慣れた様子で一人朝御飯を食べる僕。
 今の室田さんとの会話は、一週間のトレーニングの成果でもあった。
 女の子文字はぎこちないけど、ひらがな、かたかな、英数字はそれらしく書ける様になり、仕草と表情も、毎日のフェイスケアで少し穏やかな表情になってくると、もっと頑張ってみようかなって気にもなってくる。
 そして、
「あたしは可愛い」
「大切なものをあげる」
「とってもすてき」
「どっちがいいかな」
「あたしに、かまって」
「笑顔!笑顔!」
 毎日トレーニングのたびにこれを口の中でつぶやいてると、僕って本当に可愛いんだって自己暗示にかかった様な気にもなってきたんだ。
 
 そして立居振舞いの訓練は、ステップ〇二に進んでいた。
 その一つ、楽しい時の歩き方
「一、二、一、二、一、二」
 口の中でテンポ良く喋りながら、ふともものあたりに手をやり、一歩進むたびにその手を腰骨で軽くはじく様にすると、自然にヒップが揺れてくる。
「嫌いな人が来ました。隠れなさい」
 スピーカーからそう聞こえると、僕はさっと身を翻し、物陰にかくれて様子を見る。
「ペンがポケットから落ちました」
 そう指示されると、もう反射的にしゃがんで取る様になっていた。
「大きな音がしました」
 その声にも、僕は反射的にしゃがみ、お腹を守る様な姿勢。
「はい、スキップ。友達と出くわして挨拶。バイバイする」
 まだまだパターンはたくさん有るみたいだけど、僕は着実に一つ一つ体得していった。 
 毎日のトレーニングで疲れてなおざりがちだった読書も、就寝前を利用して一冊ずつこなしていく。女の子の友情、気遣い、カラフルな絵柄、レース、フリル、スカート、鮮やかな色の宝石、魔法、冒険、蝶、お花、小鳥、小動物、そして、かっこいい王子様、綺麗な王女様等等。
 疲れた僕の頭の中に、その絵本や小説の中身がどんどんしみこんでいく様。ベッドの上で寝転がって読む僕の姿は、最初は普通に、そして無意識のまま両手顎の下に組み、そして頬杖をつくポーズに変わっていき、そしてやがてそのままギプスで固定された足をゆらゆらとさせるようになっていく。

 トレーニングの合間の休み時間、まだ両足にはギプスをはめたままだけど、別に苦にすることもなく小股で走り、時にはスキップしたりする僕の顔は、ここに来た時みたいに苦しくて不安そうにしていた表情とは打って変わって自然と笑みがこぼれていた。次のトレーニングの課題ってどんなのだろうってわくわくしながら。
 そして猫背対策の懸垂とか、狭い平行棒の上を両手をハの字にして足元を見ずに前を向いて素早く歩く練習したり。そしてチャイムが鳴ると、僕の決めた時間割のトレーニングの部屋へ駆け出していく。
 いつしか校庭の花壇の水やりは室田さんではなく、僕の日課になってしまう。絵本で見た擬人化された花を眺めているうちに、
「この子達にもちゃんと命があるんだよね」
 なんて思い始めた結果だった。

 そして僕がここに来て早くも二週間が過ぎた。

 その日の朝、僕は一人部屋の椅子で待機していた。今日は今までのトレーニング成果を試される日。足のギプスは外していいという事で、本当久しぶりに両足に開放感が生まれる。只、それを外しても、ひとりでに女の子座りになってしまう僕の足。
(僕、どこまで変わったんだろう)
 今日の結果で残れるのか返されるのか決まってしまうんだ。
 しばらくすると部屋をノックする音と共に、一人の女性が入ってきた。
「あの、今日担当の坂本です」
 まだ二十歳位の可愛げの有るその女性はそう言って僕に一枚のメモを手渡しす。それを見た僕は思わず声を上げる。
「ラ、ラブレター?」
 男にしては高い音色に変わってしまった僕の声に、坂本さんが微笑む。
「はい。誰宛でもいいから男性に対して便箋一枚で書くこと、だそうです。制限時間は今から二時間です」
 僕がちょっと困った様子でそれを眺めていると、坂本さんが遠慮がちに僕に話しかけた。
「あ、あの、男の子ですよね?女の子になろうって頑張ってる?」
「あ、はい」
 ちょっと不思議そうに僕が答えると、坂本さんは軽く微笑んでくれる。
「なんか男の子にしてはやわらかそうな雰囲気だったんで、もしやと思ったんですけど。あ、がんばってください」
 そういい残して坂本さんは部屋のドアから消えた。
(僕、変わったんだ!)
 ちょっと嬉しくなった僕だけど、でも与えられた課題が、まだ女性化トレーニング受けて二週間しかたってないのに、ラブレターなんて…。

 部屋の白い机の前に座り、ただじっと便箋を眺めてるけど何も浮かんでこない。とにかく自分が女だって認めるものが無い。女の子仕様の部屋を眺めても、だめだった。
 トレーナーの胸元をめくって見ると、今日の僕は白にピンクのレースの付いたキャミ。 でも、自分がまだ女の子だとは思えない。
 水野とかクラスメートの男友達の顔を想像してみたけど、うわ、かえって逆効果。とてもあいつら相手のラブレターなんて書けないし、そもそも恋愛感情なんてないもん。
 時間はどんどん過ぎていく。そして残り一時間となった時、僕は何か思い出した様に便箋に文字を書き始める。

 二時間後、一枚の便箋を持って校長室へ佐伯先生を訪ねる僕。生まれて初めて、それなりの女の子文字で完結させた文章。女の子とウサギと猫のイラストも添えた。
 男の子を好きになった事なんてない僕が男の子へのラブレターなんて…。散々考えた結果がこれ。良かったのか悪かったのか。男の子を好きになった女の子の気持ちなんて、今の僕には。

 無言で便箋を読む佐伯先生を、無言でうつむき加減で見つめる僕。と、
「風木さん、笑顔はどうしたの?」
 佐伯先生のその声に僕は思わず顔を上げたけど、笑う事は出来なかった。
「ラブレターの相手は、風木さん本人、なんですね」
 僕は軽くうなずく。二週間前の男の子の僕に対して、ちょっぴり女の子になりはじめた今の僕が、あなたの好きな様な女の子になるまで待っていて!という内容。この二週間の事、嬉しかった事、楽しかった事、辛かった事をまとめただけの内容だった。
 意識しないと無理だけど、仕草が女の子になりはじめた事。足の動かし方が女っぽくなった事。声が少し変わった事、花とか蝶や小鳥とか、女の子の文化に慣れ親しみ始めた事。そして今朝、ほんの一瞬でも坂本さんに女の子と間違えられた事とか…。

「イラストが可愛いですね。あと文字はもう少し丸く可愛げに書きなさい。難しい漢字はわざと書かなくていいからひらがな、かたかな、ローマ字で」
 そう話す佐伯先生の表情に少しほっとしている僕になおも話しが続く。
「好きな相手に対してのラブレターは第三者が読んでもほほえましくなるものです。このラブレターは、まあ、そういうのが見え隠れしてますが、いいでしょう。及第点をあげましょう」

 ほっとして僕の顔に笑みが出たのもつかの間、次のテストは…、
「次は、あたしと一時間喋り続ける事です」
 そう言って、今日担当の坂本さんがにっこりする。
「女の子になりたいんでしょ、がんばがんば」
 わざとらしい坂本さんの声にちょっと励まされた僕だけど、ここしばらく他の人とあまり会話してなかった僕にとって、それって…。
「今から昼食の終わりまで、この二週間の事を頭の中で整理しておきなさい。午後一時半にもう一度ここへ」
 どっと疲れが出た僕は軽く挨拶をして校長室を後にして自分の部屋へ向かう。足のギプスがとれたのに、小股でスタスタと、そして背筋も真っ直ぐになってきた自分にちょっと驚きながら。

 次の時間、早めに昼食をとり、自分の部屋で心を落ち着かせ、時間になると部屋の前のリラック○の縫いぐるみに軽くタッチしてスキップで校長室へ向かう僕。
(僕なんだか子供になったみたい)
 そんな事を思いつつ、校長室に入ると、佐伯先生と坂本さんがソファーで待っていた。 昼休み中ちょっと休んでいた僕は、午前中の淀んだ気分から何故か一変していた。結構可愛い坂本さんとおしゃべりできるなんて、そしてこの二週間あまり会話しなかったのが実はストレスになってるんじゃないかって気分にもなって。ここはもうなんでもいいから思いっきりしゃべってやろうって気にもなって。
「はい、じゃあスタート」
 佐伯先生の合図とともに、僕はソファーの上で姿勢を整え、顔をちょっとかしげて坂本さんに笑顔を送った。

「…うん、あのね、腰の骨を手のひらに交互に当てる様にして歩くの」
「へーぇ、あたし意識してないけどなあ」
「だって女の子の腰ってさ、肩幅とおんなじじゃん…」

「絵本どうだった?」
「あのね、女の子向けのばっかり集中して読むとさ、なんか意識がだんだん女の子目線で塗り重ねられていくっていうか」
「王子様ってどう」
「えー、王子様って、でももしいたら、あたしの前に現われたら」
「どう?」
「わかんない、その時になってみないと」

「ねえ、もしさ、今男の子紹介するって言われたら、どんな男の子がいい?」
「えー、ぼ…、あたしにぃ?わかんないよぉ」
「でも、いずれはお付き合いする事になるかもよ」
「あたしが?あははっ」
 脇をしっかりしめて、手元で大きくゼスチャー、男と違って、相手の目をしっかり見つめて、時には笑ってごまかしたり泣きまねしたり、足を組み替えたり、特に手の動きは僕もすごく練習してたけど、いつのまにか手と言葉の動きを頭が瞬時にうまくコントロール出来る様になってきたみたい。この二週間、本当必死でやってきた成果が出てきたみたい
「はーい、終了」
 せっかく僕の頭の中がちまちましてきて、これからだという時に時間が来てしまう。なんとか女の子の会話出来たと思うんだけど…。
「坂本さん、どうだった?」
 佐伯先生の問いかけに坂本さんがちょっと考え込む。僕も長時間の会話の疲れがやっと出てきて、疲れた様に伸びをして椅子に座り直して言葉を待った。
「あのー、部分部分はいいんですけどぉー」
 はっとする僕の顔を見ながら、坂本さんが続ける。
「流れがなんかこう、女の子じゃないというか、イントネーションも取ってつけた様だし、個々に練習してきたオーケストラの人々が集まって、第一回目の練習みたいな感じかも」
 思いがけない坂本さんの言葉に、僕はだんだん不安になってくる。
「で、どう?」
 神妙そうに問いかける佐伯先生。僕もだめだしされるかときがきでなかった。
「いいんじゃないですか?むしろ二週間ですよね?ここまでご自分を変えられた期間って」
「という事で合格とします」
 その言葉に僕は
「やったー!」
 僕はいきなりソファーから立ち上がると、ジャンプしながら手を叩き、声を上げて坂本さんにハグ!
 と、一瞬引いた坂本さんだけど、笑顔で僕にハグを返してくれた。
「男だったら嫌だけどね、風木さん今あまり男の匂いとか雰囲気無いし」
 坂本さんの言葉がとっても嬉しかった。そして次は、何だろ…。
「風木さん、次が最後です。何でもいいです。三分間の一人芝居を考えてください。もちろんあなたは女って事で。考える時間は一時間。一時間後に体育館に来てください」
「えー、一人芝居ですか?」
 僕は思わず声をあげてしまう。そんなの難しそうで、僕には…。
「では、一時間後に」
「風木さん、ファイトッ」

 部屋でうんうんうなった後、ようやく考えがまとまり、きっかり一時間後、体育館の舞台に僕の姿が有った。舞台前には佐伯先生と坂本さんが椅子に座ってにこにこしている。「何をやってくれるのかしら?」
 最後の試験のはずなんだけど、佐伯先生はなんだか楽しみにしているし、僕も何故か心に余裕が出来てる感じ。
「あの、家を出てから学校に行くまでを」
「あっそう?じゃどうぞ」
 拍子抜けする佐伯先生の言葉だったけど、僕は舞台の上に立って大きく深呼吸。実はこの演技、この二週間の立居振舞いの練習項目のいくつかを繋げるだけで大半が出来ちゃうんだけど、ひょっとして先生達ってこのプログラムの内容まで見てないのかも?
「いってきまーす。今日遅くなるね。んとぉ、六時位」
「おはようございまーす。あ、今日はわんちゃんの散歩ですね」
「わー、さむーい」
「あ、真理、何今日早いじゃん、こんなとこですれ違うなんて。ばいばーい」
「え、何?今の人?」
「もうっ、危ないじゃん、自転車であんなスピード」
「あ、鳴ってる。あ、美樹?え、放課後?うん、用事あるんだけど、少しなら」
 舞台の上を円を描く様に歩きながらいくつもの演技をする僕。そしてあっという間に三分が過ぎる。なんだかあっけなかったけど。
「はい、結構。いいんじゃないかしら?」
 特に何の感想もない佐伯先生の言葉。え、じゃこれで合格?本当?
 舞台の上で僕は大きくため息をついた時、
「へたくそー!」
 体育館の舞台に近い出入り口から突然そんな声がした。びっくりしてそこを見ると、そこに立っていたのは、この前見た黒に金ラメの派手なトレーナーを着込んだ…、
「可憐ちゃん!?」
 佐伯先生と坂本さんもそちらを振り返って、何か言った様な。
「だっせ!そんな言葉今時の女喋んねーよ」
 そう言いながら髪をかきむしりながら舞台へ上がってくる彼女。やがて僕の前に立つと
「やっぱそうじゃん、おめー男じゃんかよ」
 いきなり僕を睨みつけてそう喋る可憐ちゃんに僕は一歩引いてしまう。
「うぜーんだよ、ピンクのトレーナー着てここうろつかれるのがよ」
 ちょっとたじたじとなったけど、でもだんだん僕も言い返したくなる。そういえば女の怒り方ってのもトレーニングに有ったっけ。
「…、それがなんだっていうのよ」
 僕は腰に手を当てて首をかしげながら可憐ちゃんの目を睨み返す。
「あんたに関係ないでしょ!」
 女の怒り方って男と違って言葉が武器。とにかく喋り捲って相手に喋らせない事。
「どうだって言うのよ!あたしの勝手でしょ!そういう風にしろって言われてるし!」
 そう言いながら可憐ちゃんに詰め寄ると、可憐ちゃんが一歩後ずさり。今だ!ここで!
「そういうならあんたがやってみなさいよ!あたしが見ててあげるからさ!あんたこそなによ!こっちが挨拶しても知らん顔でさ!一体何しにここに来てんのよ!ご飯だって室田さんに運ばせてさ!何様のつもりよ!あたしよりも年上なんでしょ!」
 その他数十秒位僕はいろいろと思いつく事をまくし立て、腰に手を当てたり、両手を振ったり。そのとたん、
「何よ!ブス!」
 可憐ちゃんの言葉に、この二週間、
(あたしはかわいい)
 と心の中で自分自身を洗脳し続けてきた僕の頭の中で何かが動く。
 僕は咄嗟に手を上げ、可憐ちゃんの頬を平手で叩こうと手をあげてしまう。とその時、
「ストーップ!可憐ちゃん、もういいわ、ありがとう」
 思いがけない佐伯さんの声に可憐ちゃんはくるっと僕に背を向けると、小走りに舞台を降り、体育館の出口から走って消えていく。
 あっけに取られてその方向をじっと見つめている僕に、佐伯先生が声をかける。
「風木さん。合格です」
「…、今のって、まさか可憐ちゃんのお芝居??」
 かすかにうなずく佐伯先生。でも僕は可憐ちゃんにとんでもないことしたって思いで頭が一杯!
「先生、こんなのってひどいと思います!」
 そう叫んだ僕も大急ぎで舞台を降り、可憐ちゃんの後を追いかけた。

 早く走ろうとしたのに、僕の足は二週間付けていたギプスの矯正のせいで、女の子の小走り状態になってしまう。それでも大急ぎで校舎の二階の可憐ちゃんの部屋の前に到着。
「可憐ちゃん!ごめんなさい!あんな事言っちゃって、あの、お芝居だなんて思わなかったんです!」



 息を切らせ、部屋のドアをノックしながら僕は大声で喋るけど、返事が無い。追いかけていく時、この校舎に入ったのを見たので絶対ここにいるはず。
「可憐ちゃん!ごめんなさい!許して!」
 誰も見ていないのに、僕は目を閉じ、両手を顔の前で合わせて祈る様に叫ぶ。と、なんと隣の僕の部屋の戸が開き、そこから可憐ちゃんが顔を見せた。
「可憐…ちゃん…」
 僕は両手を顔の前で合掌させたまま可憐ちゃんの方を向き、彼女の顔を恐る恐る覗き込む。
「今、必死で謝ってた?」
 その言葉の意味がわからず、僕はそのままの姿勢で相変わらず可憐ちゃんの顔を見つめていた。
「ちくしょ、合格じゃねーかよ」
 そう言って、彼女は僕の部屋から出て来て、僕の前の彼女の部屋の扉を乱暴に開け、そしてすっと姿を消す。
「気にしてねーから安心しろ」
 閉められた部屋からか小さく可憐ちゃんの声が聞こえた。

 翌日の始業前、名も無き施設の校舎から校庭に元気良くスキップで駆け出してくる女の子がいた。黒にピンクと白のロゴ入りのシャツの上にグレーで内側が赤のタータンチェックのパーカー、白のふわふわのミニスカートの下に黒のスパッツ。
 それは昨日までもさっとしたピンクのトレーナー姿だった僕、風木みわ本人。誰にも見られないとわかってても、いきなりパンツが見えるスタイルは遠慮。
「あらためて、合格です。トレーニングを続けなさい。一時限目に校長室へ来てください」」
 今朝始業前にそう言われて校長室へ向かう、うきうき気分の僕。そして今後のトレーニングの事を聞かされた。
 その内容とは、
「え!女子高校生になるトレーニング!?」
 今後は普通の高校と同じスケジュールで、午後三時までは勉強、といってもLL教室でのビデオ使った学習だけど。そしてそれ以降は…。
「基本的には先週と変わりません。但し、体育館とPCルームでのプログラムは全て女子高校生向けのプログラムになります。量は少ないけど、元男の子のあなたにとっては、ひょっとしてすごく恥ずかしかったり、衝撃的なものも含まれていると思います」

 校長室を飛び出した僕は校庭で風がスカートをもてあそぶのを感じ、さっき言われた今後のトレーニングの事を思い出し、元男の子って言われて、すごく恥ずかしくなって顔を赤らめた事を思い出し、僕は大きく深呼吸。
 そしてスカートのポケットからさっき返された携帯電話を取り出した。
「まだ始業前だよね?」
 そう独り言を言って僕はある人に電話をかける。それはここに来る前励ましの電話をくれたクラス副委員長の水野の携帯だった。
「え、風木?風木なのか?お前メールも返さねーで、何やってたんだよ」
 その言葉に慌ててメールを見ると、うわー、五十通近く、水野や他のクラスメートから…。
「あ、あのごめん、携帯取り上げられてたの」
「てか、わかったけど、お前その声どうしたんだ」
「あ、声?」
 そっか、もう前の声じゃなくなっちゃったんだ。
「あ、あの、あたし、ボイストレーナ受けてて…」
「あたしって、なんだそりゃ??」
 多分水野は教室のどこかで電話してるんだろうか、怪しい会話になってきたのを察知したのか、しばし音声が途切れ、そしてトイレらしき所に入った音がして、再び彼の声が聞こえる。
「ああ、悪い。それで、結局女になる事にしたのか?」
「う、うん…」
 いきなり核心ついた質問に僕は軽くうなずいてつづける。
「あ、あの、そっちはどう?あたし…僕が消えてから」
「ああ、こっちか…」
 多分人がトイレにいないか確認したんだろう。そして小声で話す。
「男子はいろいろとネタに使って噂話してたよ。只、今週になってあまりそれも聞かなくなった。女子は…」
「え、女子は?」
 息を飲んで水野の声を待つ僕。
「女子は、表向き何も話さないよ。クラスではね。只、亜里沙がさー…」
 学級委員長の橋本亜里沙?
「執拗に聞いてくるんだよ、他に誰もいない時にさ。連絡有ったかってさ。だから表向き平静でも、女同士でいろいろ話してんじゃないか?」
 僕が暫く黙ってると、水野が続けた。
「先公からの話は全く無し。やっかいものがいなくなってほっとしてるんじゃねーか?」
「そーなんだ」
 僕はちょっと拍子抜けした感がしてため息をつく。
「あ、そーだ。お前休みとか有るのか?」
「うん、土日なら」
「今度の土曜、久しぶりにあわね?井本とか高見も会いたがってるし」
 僅か二週間なのに懐かしい気がする友達の名前を出されて、僕の心が揺らぐ。でも、
「あた…、僕も会いたいんだけど、僕がどんな風になっててもいい?」
 携帯から水野の笑い声が聞こえた。
「たった二週間で人がどう変わるってんだよ」
 後でどうなってもしらねーぞ、なんて思っていると、
「あ、授業だ。また後で連絡するから」
 そう言って携帯は切れた。僕はちょっと悩んだけど、とりあえず外出許可をもらう為に、再び校長室へ戻った。

 教室へ戻った水野を、橋本亜里沙がいぶかしげな目で睨みつつ、その帰りを待っていた。
「どこ行ってたの?」
「あ、トイレだよ」
「おめ、携帯持ったまま行ったろ?」
「あ、ああ、悪いか?」
「相手、まさか風木じゃね?」
 いきなり言われ、動揺を隠せなかった水野に、やっぱりという表情で亜里沙がうなずく。
「なあ、頼むからさ、何か連絡有ったら、そのー、教えてくんねーかなあ…」
 彼女にしては珍しい下手に出た頼みごとに、少しためらう水野。
「いやさ、ある日突然連絡無しに教室入ってこられるとさ、その、また面倒な事になりかねないんじゃないかって、その、思うからさー」
 彼女らしくない、何か隠してる様な言い方に何か引っかかる気もするけど、
「いいよ、わかったよ」
 笑顔で答える水野の亜里沙も少し微笑む。
「まあ、先公には言わないでいいと思うよ」
(なんでこいつ、そんなに気にするんだ?)
 そう思いつつも水野は軽くうなずいた。

「今週土曜日?クラスメートと会って何するの?」
「え、ううん、久しぶりに会いたいだけです。お話したいし」
「じゃあ、ここの事は話さない事。そして夕方までには帰る事。であればいいです」
「ありがとうございます!」
 女の子らしく、両手をスカートの前にぺこっとお辞儀する僕。
「あ、それと」
 出て行こうとした僕の後ろで佐伯先生が僕に声をかけた。
「今日の昼休みにここに来てください。重要なお話をします」
 え、なんだろ?と思ったけど、僕はたいして気にもせず、LL教室で今日から始まる高校のビデオ授業を受けに教室へ急いだ。

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