開いていた扉

月夜眠短編集 2

「朝比奈君!至急先生の部屋まで来てくれんか!!」
 高校一年の秋、九月の諏訪湖での合宿研修の早朝、純の部屋に担任の先生が飛び込んできた。クラスメートが眠い目をこすりながら起き出す中、純も迷惑そうに目をこすりながら、担任の先生を睨む。
「な、なんですか。…僕呼び出される事何も…」
「とにかく、すぐ来てくれ!」
 言われるままに、まだふらふらする足で先生についていく純。先生達の部屋に来た時、ようやくはっきりしてきた頭に、つんと煙草の匂いが刺激した。そこには他の部屋に詰めていた先生も集まっている。何やら唯ならぬ様子に、純は何か悪い予感を覚えた。
 皆話しにくそうな顔でうつむく中、学年主任の先生がちょっと口ごもりながら重そうな口を開いた。
「朝比奈君、言いにくいんだが、君の実家が、…今朝火事にあった。全焼だそうだ。今からすぐに荷物を持って、病院まで行ってくれ。ご両親が重体だそうだ…」
 純は頭の中が空になり、全身の血の流れが止まっていくのを感じた。そのままドアのにもたれかかれる純を、何人かの先生が駆け寄って、体を受け止め、
「朝比奈君!気をしっかりもって!!」
「さ、早く御両親のところへ!」
 と言ってくれたが、純の耳には聞こえなかった。
「おい、朝比奈君!待て、気を落ち着けて!」

 病院へ着くやいなや、送ってくれた先生の車のドアを開けて飛び出した純は、とうとう我慢できずにあふれてきた涙を袖で拭きながら、受付へ走っていく。いくら気性の強い純でもこればかりはたまらなかった。
「朝比奈です!火事で、入院した僕の両親は!どこですか!」
そこにたまたまいた制服の警察官が純を手招きして先に歩き出す。
「お父さんと、お母さんは!」
 そう言ってついていく純の後ろに看護婦さんも一人ついてくる。やがて階段の途中で看護婦さんが先頭に立ち、そして純に小声で話す。
「大変お気の毒ですが、お母様は重症です…」
「お父さんは!?」
 そうこうしているうちに看護婦さんが二階のナースセンター横の「絶対安静」と札のかかった病室に入っていく。続いて駆け込もうとした純を二人看護婦が制止するが、先に入った看護婦が引き入れてくれた。
「お母さん…」
 そう行って絶句するベッドに寝かされていた母は顔一面包帯が巻かれており、酸素吸入の管がホースから出ている。
「ねえ、お母さん、助かるんでしょ!」
 主治医らしき医者が純のその言葉に顔を曇らせる。
「重度の火傷と、一酸化炭素中毒で…」
「お母さん!!」
 純はそんな医者の言葉を聞いていなかった。包帯で巻かれた母の手をそっと掴むと、一瞬わずかだが、純の手を握り返す感触が伝わる。が、暫くしてその手から力が抜けた。
「嫌だよ!死なないで!」
 横で辛そうにその光景を見ていた主治医は、ふと心電図の方に目をやり、純の横で包帯に包まれた顔からそれをずらし、確認した後、時計を見た。

「心中お察しいたしますが、ご臨終です。十時三二分です」
 看護婦さんが純の母親の顔に布をかけた後、ちょっと涙目になっている主治医と一緒に部屋を出て行く。その涙目からして、精一杯治療してくれたんだろう。純は今一度母親の手をぎゅっと握った後、あきらめて立ち上がり、天を仰ぐ。
「あ、お父さんは!」
 ふと我に帰って、お父さんの病室を探そうと病室の出口に向かおうとした時、
「お父さんは、一時間前に亡くなったよ…」
 そこには純の父親の腹違いの弟、純が小さい時から良く遊んでくれていた叔父さんが、叔母さんと一緒に立っていた。
「部屋の前で聞いたわよ。お母さんまで…」
 大声で泣きたくなるのを必死でこらえ、純は叔父さん達に連れられ外に出た。部屋の外で待機していた学校の先生の
(気をしっかり持て!)
 のゼスチャーに軽くうなづき、叔父さんについていく。やがて地下の霊安室にたどり着くと純の足はそこで止まってしまう。入ってしまうと父の死を受け入れなければならない気がしたからだ。
「純ちゃん。気持ちはわかるけど、現実を受け止めてちょうだいね」
 叔母さんが扉を開け、純の肩を押す。そこには白い布を顔にかけたご遺体が一体、ベッドの上に寝かされていた。恐る恐る布をめくると、間違いなくそれは純の父親だった。
「お母さんを助けようとして、家の中に入って、そして煙に巻かれた…みたいよ」
 純は心を落ち着けようと何度も深呼吸した。心の中で父親のその勇気をたたえようとしたが、結局は大声で泣き出すのをこらえるのが精一杯。そんな純を暫く見守る様にしていた叔父さんが純の肩を抱いて言った。
「純ちゃんはまだ未成年だし、学校の事もある。後は叔父さんに任せてくれんか」
 誰かにすがりたい気持ちの中、そんな叔父さんの言葉にしっかりうなづいた。

 無事両親の葬式も終わり、純は叔父さんの元に引き取られ、高校も地元の公立高校に転校し、新しい生活が始まった。叔父さんの家は地方の漁村で小さな水産物の加工工場を営んでいた。純の住んでいた都会とは異なり、景色も空気も良く、一度に両親を失った純にとっては心を落ち着けるにはふさわしい場所だった。
 気性は荒いけど元々性格も良く、少女の様な顔つきで成績もスポーツも上位だった純に、女子生徒達はあちこちで噂をし、野暮な男子生徒も、転校生の純をいじめるよりはむしろ仲良くした方が女の子達と付き合いできる機会も増えると悟ったのだろう。純の周りには新しい友達が次々と出来て行く。
 そして純が新しい高校に通い始めてから二週間後のある日。

「あっさひーなクン!」
 まだ気持ちのが完全に落ち着いていない純が学校帰りに海を見に行く岬への小道を一人で歩いていると、急に後ろから女の子の声がする。
「なんだよ、恵美か」
 振り返って答える純に、恵美という女の子はちょっとあたりを見回した後、にこにこ顔で駆け寄ってくる。転校してきてまもないのに、もう純を独り占めしようとする女の子の中の一人だった。
「よくここの小道通るよね。朝比奈君の家あっちでしょ?」
「僕の家じゃないよ。僕の叔父さんの家」
「あ、そうだったわね。でもどうでもいいじゃん」
 恵美は純の横にくっついて一緒に歩き出す。地元の漁協の会長の一人娘で、地方の街の娘にしては、どことなく都会的な匂いのする女の子で、都会育ちの純にとっては何かと話易い娘だった。
「あのさ、あたし最近親から言われてさ。もう昔みたいに小遣いはやれないから、どっかでバイトでもしろっていわれてさー」
「へー、親父さんここの偉いさんで、お金持ちじゃなかったの?」
「え?うん。でもなんかさー、子供は甘やかさない主義みたいだよ」
「いい親父じゃん…」
「あ、ごめん。朝比奈クンのお父さん…」
「いいんだよ、もう…」
 ちょつと気まずい雰囲気になった時、恵美が足を止めた。
「どうしたんだよ?」
「ほら…」
 恵美は強くなってきた海風を感じ、そして海の上にかかる雲そして海の色の変化をじっと見ていた。
「雨が来る。結構強い…」
「え、だってこんな天気だぜ…」
 純が言い終わらないうちに、たちまち太陽が雲に隠れ出す。
「あたしはこれでも漁師の娘よ!こんな事くらいわからなくて…。でもどうする?傘なんて持ってきてないでしょ?あ、あたしの家の方が近いから、今からおいでよ!」
「えー、お前ん家??」
 と、遠くの海の方で雷の鳴る音がする。
「ほら、早く!あと十分しないうちにどしゃぶりが来るから!!」
「わ、わかったよ…」
  純は恵美の後を追う様にしてその場を後にした。

 しかし、五分とたたない間に大粒の雨が二人を襲いだす。少し悲鳴をあげる恵美を、咄嗟に純は着ていたブレザーで覆い、港近くの恵美の住んでる大きな屋敷へと避難した。
「うわあ、ずぶぬれじゃん。ごめん、あんたの靴この袋に入れて部屋に持って行って」
「え?靴?どうして」
「いいから、言うとおりにして!」
 純は言われたとおり、傍らに有ったレジ袋に自分の靴を入れ、恵美に連れられて二階の彼女の部屋に入る。綺麗に整頓され、白のカーテンにピンクの絨毯。そしてたくさんの縫ぐるみ。初めて入った女の子の部屋は、純にとって興味を引くことばかりだった。
「早く、濡れた服脱いで。風邪ひくから」
 恵美はエアコンのスイッチを入れ、そして何やら暫く考えた後、自分のクローゼットから何やら取り出す。それは、
「ちょっと、恵美、それは」
「いいから、風邪ひくとだめだから!」
  手渡されたのは、タオルとピンクのスエットの上下だった。
「嫌だよこんなの、これお前のだろ?」
「それしかないんだから!それともスカートはきたい?」
 純がしぶしぶその上着に手を通し、スボンに足を通すと、純の全身を石鹸の様ないい香りが覆う。
「こっちみないでね」
「みないよ…」
 純の後ろで恵美は濡れた制服を脱ぎ、素早くジーンズとTシャツに着替え、髪をドライヤーでさっさと乾かし始めた。とその時、
「恵美、帰ったのか?」
 階段の下から男性の声がする。
「やっべ、親父いたんだ!」
 ドライヤーのスイッチを切り、独り言の様に彼女はつぶやく。
「おい、ちょっと、降りてこい」
 今度は階段に向かって喋っているのか、その男性の声がさっきよりも大きく聞こえる。
「朝比奈君。ここで待っててね。絶対外出たり、窓から顔だしちゃだめだよ!」
 小声でそう純に言うと、部屋から出て行く恵美。雨の音以外何も聞こえない中、階下の恵美と彼女の父親の会話が聞こえてくる。

「傘くらいちゃんと持って行けよ。途中の事務所で借りれなかったのか?」
「急だったから、急いで帰ってきたの」
「お前、今誰かと家に入ってきたよな?誰だ?」
「あ、あたしの友達。雨宿りするだけだから。いいでしょ?」
「男みたいだったぞ?お前まさか」
「…違うって!女の子だよ!」
「そうか…、ならいいんだけどな」
 やがて再び恵美が階段を上ってくる音がした。
「おい、バイトみつけとけよ!うちはどっかの家みたいに甘やかさないからな。来月で小遣いは終わりだからな」
「うん、わかってる!」
 部屋の外でそう答えた恵美がそそくさと部屋に入ってきた。

「朝比奈クン、やばいよ!うちの親父疑ってるよ!」
「そんな事言われてもさ…」
「あー、あたしのスエットの下びしょびしょじゃん!」
「仕方ないだろ、パンツまでびっしょり雨に濡れてたし…」
 純と恵美が小声でコソコソ話した後、恵美は純の顔を暫く見つめる。
「な、なんだよ…」
 しばし無言で純の顔を真剣な眼差しでじっと見つめていた恵美は、
「なんとかなりそう」
 そう呟くといきなり立ち上がって、先ほどのクローゼットの前に立ち、何やらごそごそと探し始める。
「これと…これと、えっとー…」
 引き出しやら何やら物色した後、座っている純の前になにやら投げてよこす恵美。
「お、おい、これ…」
「シーーー!」
 驚いて声を出す純を、恵美は手の指を口に当てて制する。
「親父絶対部屋に上がってくるから、それまでにさ!」
「なこと言ったって…」
「あんたが今女の子でいてくれないと、あたしが親父に大目玉食らうの!うちの親父、あたしの付き合う男の事になると目の色かえるんだから!」
「でもさ…」
「いいから!うちの親父あんたがこの家から出て行くまでずっと気をつけてみてるはずよ!ああみえても細かい所すごく見るんだから!!」
 まだ純は恵美の親父さんの顔は見て無いけど、なんとなしに想像が着いた様な気がした。
「早く!これパンツ!濡れたままのあんたのパンツいつまでも履いてる訳いかないでしょ?そしてブラ、ブラは手伝ってあげるから。えっと、キャミとストッキング…先にパンツとストッキング履いてよ。見ないから!」
「わ、わかったよ。履けばいいんだろ」
 恵美のすごい剣幕に負け、純はしぶしぶパンツを脱ぎ、生まれて初めて女の子用のパンツを足に通した。気を使ってくれてるのか、それはまだ値札の付いたままのブルーと白のストライプでフリンジの無いシンプルなものだった。そして黒のストッキングをつま先から履こうとするけど、純にとっては初めての事だしなかなか進まない。
「早く!」
 恵美にせかされてようやく腰までそれを引っ張り上げた純に、恵美は後ろ手になにやら手渡した。
「何これ?」
「ガードル!パンツのままだと、ほら前がいやらしいから!こっちが前。わかる?」
  純は言われるままにそりに足を通す。と、
(うわ…なんだこれ、女ってこんなのいつも履いてるの?)
 ピンクのそれを履くと、純の下腹部はすっきりとなり、お尻の部分は今まで経験した事の無い様な感触に襲われた。
「履いた?」
 やっと恵美はこちらを向き、純の下半身を確認しつつ、手にブラを持って立ち上がり、立ったまま呆然としている純の後ろにまわった。
「ちょっと待ってよ、こんなのわざわざ付けなくたってさ」
「いいから!親父は何年もあたしを見てるのよ!女の子がブラ付けてなかったら、胸の膨らみなかったら怪しまれるじゃん!」
 そう言うと恵美は付いていた値札とかタグを引きちぎる様に取り、肩紐を純の腕に通す。
「わ…なんだこれ…」
 恵美がホックを止めると、体に不思議な感触が走り、思わず純は胸に手をやる。
「これ、胸に詰めて!」
 二枚のパンストを手渡された純が恥ずかしそうに胸に詰めている間に、恵美はクローゼットにかかっているたくさんの自分の服を暫く眺めた後、ジーンズのスカートと薄いピンクのTシャツを取り出し、純に渡す。
「ちょっとこれ、ブラが見える」
「いいの!逆に見えた方が怪しまれないし!」
 香水のいい香りのするラメの入ったデザインのそれを頭から被り、そして
(こんなの恥ずかしいよ…)
 と思いつつも。純はスカートに足を通す。
「違う、女の子はもっと上!」
 恵美はチャックを上げようとした純の手を止め、更に腰高の位置にスカートをひっぱり上げて、ホックを止め、チャックを上げた。そして傍らには化粧道具が置かれていた。
「あ、あのさ…恵美」
「あたしが親父に怒られてもいいの!?ほら!正座!」
  正座した純の前に自分はあぐらを組んで座りなおし、手早くパウダーをはたくと、
「動かないで!」
「ちょっと待てって…」
 純の声も空しく、彼のちょっと太い眉毛が恵美の持つハサミの様な器具で整えられていく。
「僕、これじゃ明日学校へ行けないじゃん」
「いいから黙って!!」
 始めての化粧品の匂いにむせかえりながらそう泣き言を言う純のまつ毛にビューラーがかけられていく。
「なんとかなったか、後は髪か。朝比奈クン、女の子の声だしてみて!」
「え…こう?」
「もっと高く!」
「え、これでいいの?」
「もっと高い声!」
一旦純の前から立ち去った恵美の命令に合わせて、まだあまり声変わりしていなかった純の口から、なんとかそれらしい声が出る。そうこうしているうちに、純の前に口に何本かの髪留めを加え、なにやら入った小さな籠を手にして純の前に座りなおし、純の長めの髪の毛を解き、手に強い匂いのするワックスみたいな物を付け、純の髪を整えはじめた。とその時、
「恵美、おーい!」
 階段の下から、先ほどの親父さんの声、そして階段を上がってくる音がした。
「やっべー、もう来やがった、あのバカ親父!!」
 純が普段聞いた事の無い言葉を口にすると、ささっと加えていた髪留めを純の髪にさし、大あわてで純の元から離れた。
「恵美!入るぞ、いいだろ!」
 間一髪で自分の机の前の椅子に座りなおし、部屋の扉へ向き直った時、その親父さんが入ってきた。それは初老で白髪交じりの髪を七・三に分け、メガネをかけたごく普通のおじさんで、純もちょっとほっとした。
「こら!なんでノックも無しに戸開けるのよ!」
 多分、娘が男を連れこんだと思っていたのか、何も言わず強めに戸を開けた恵美の親父さんは、純と恵美の方に目をやった時、あきらかに動揺している様子だった。
「ほら、純子だってびっくりしてるじゃん!」
 純はさっき覚えた女の子の声で、小さく、
「こんにちは」
 と、その親父さんに向かって挨拶。
「あ、いや…あの…こんにちは」
 親父さんはいきなり手で頭を掻き、申し訳なさそうなそぶりをみせた。
「いや、その、すまんすまん。てっきり…」
「うちの親父ひどいんだよ!純子の事男だと思ったらしいの!」
 純は恥ずかしげにうつむいたが、それがこの親父さんには、他人様の娘をひどくキズ付けたと思い込んだみたいだった。
「あ、あの時、わし、メガネかけとらんかったもんで、あ、そうだ」
 恵美の親父さんはポケットから財布を出すと、千円札三枚を取り出し、自分の娘に持たせた。
「これで何か好きなもの食べてきなさい。純子ちゃんだっけ、ごめんね、悪かったね」
「当然じゃん!」
 恵美は自分の親父さんの出したお金をかっぱらうかの様に受け取りながら怒ったふりをした。
「あ、わし、組合の会議があるから、純子ちゃん。また遊びに来てね」
 そう言うと親父さんはそそくさと部屋から出て行った。
「いい親父さんじゃんか。なんか悪い事したみたいでさ」
「いいのいいの、普段怒られてばかりだから、こういう時反撃しとかないとさ」

 椅子の背もたれをぐっと後ろに倒して背伸びをした後、純はクローゼットの前に純を手招きした。
「朝比奈クン、鏡みてみてよ。元が良かったのかもね。短時間でやったにしては、すごく可愛くしあがったみたいよ」
 クローゼットの前に純を座らせ、恵美はその扉を開けた。
「じゃーーーん」
 鏡に映った自分の姿を見た瞬間、純の顔には驚きの顔が浮かんだ。元々目がぱっちりしてて頬もふっくらしている少女みたいな顔だったけど、恵美のメイクによってそれがより強調され、多分自分の通っている高校のクラスでもベスト五に入る位の可愛い女の子の顔になっていた。
「はい、これで完成」
 いたずらっぼく言うと、恵美は純の唇に軽く口紅を塗った。
「ま、まじで?」
 驚きの声が純の口から漏れる。
「あたしも正直びっくりしてるんだ。ね、ほらさっきもらったお金で何か食べに行こうよ!そしてそのまま今日は帰ったら?」
「え、でも僕」
「服どうすんのよ。濡れたくしゃくしゃで着て帰れる?今日はそうする以外他にないでしょ」

 近くの電車の駅前のちょっと開けた商店街の中の小さなファミリーレストランで、純と恵美はケーキとか軽食と飲み物をオーダーし、ただひたすらいろいろ喋っていた。純は女装した自分が全く怪しまれる事なく、そのまま街に溶け込んでしまった事に半分驚いて、そして半分は面白がりはじめていた。
「朝比奈クン、あのさ、さっきから不思議なんだけど、全然オトコ出ないね?」
「え?そう?一応意識はしてるけど」
 髪の毛を指で触る仕草をしながら、ちょっといたづらっぽく純が答える。
「ていうか、朝比奈クン、さっきからあたしの真似ばかりしてるでしょ?」
「え?わかった?」
 純はちょっと大げさに手を口に当てながら答え、恵美の顔をじっと見つめた。
「あのね、あたしのバイトの事なんだけどさ」
 前より親しみを込めて恵美が喋り始める。
「隣町でファーストフードのチェーン店がオープンするんで、バイト募集してたの。そこにしようと思ってさ」
「ふーん、行けば?」
 恵美のちょっとつんとした仕草と口調を純が真似る。わざとちょっと起こった仕草を見せた後、恵美が続けた。
「朝比奈クンも一緒にバイトしない?」
 そう言われて、ちょっと純には考える所が有った。いくら事情が事情であれ、今の純は親戚の所に居候している身で、いくら優しくしてくれていると言っても、ちょっと後ろめたい所が有った。せめて毎月いくらかでも渡したいという気持ちは前から持っていたし。
「ねえ、一緒にやろうよ」
 別に反対する理由はない。
「う、うん。やってみよっか」
 純がOKした事に恵美はきげんが良くなり、そしてあたりを見回して、顔を純の近くに寄せてきた。
「それでね…」
 小声で純に耳打ちする恵美。それが終った後、純はちょっと複雑な表情を見せた。

  駅で恵美と別れた後、女の子姿の純は、自分の濡れた制服の入った大きな手提げ袋を手に、海の匂いの漂う小道を人目をなるべく避けながら、叔父さんの家に戻ってきた。あたりを見回して、そっと叔父さん家に入り、自分の部屋に入ろうとした時、
「ああ、忙しい…」
 そう独り言を言いながら作業場から戻ってきた叔母さんが運悪く横のドアを開け、純と鉢合わせする格好で出逢ってしまう。
「あれ、あなたどちらさま??」
 叔母さんが一歩引いて、不審な顔を純にむけたが、正体がわかるまで左程時間はかからなかった。
「あ、あれ、純ちゃんじゃない!ちょっとどうしたの?その格好…」
純は恥ずかしさで顔から火が出る思いだった。
「あ、あの叔母さんごめんなさい。あの帰る途中で大雨に会って…」
 純が小声で今までのいきさつを話す間、おばさんは不思議な物を見る様な目で純の姿をじっとみていた。
「まあ、それじゃ仕方ないけど、でも純ちゃん…、どう言っていいかわからないけど、普通に女の子に見えるわよ。ただ、あまりそういうのは止した方がいい。それに…」
「ごめんなさい。もうしません」
 叔母さんが何か言いたげにしているのを振り切って、純は自分の部屋に戻った。唯、部屋に入る前に一言言うのを忘れなかった。
「おばさん、僕来月からバイトするね。いくらかでも毎月渡すからさ」
 そんな純をおばさんは複雑な表情で見ていた。

「バイト希望の方ですね。あ、形だけなのでそこの書類に必要事項を書いてください」
 一週間後、まだ準備中のそのファーストフード店の奥の事務所で、店長らしき男の人から渡された申込み書に記入する二人。ジーンズにパーカー姿の横には、同じ様にジーンズにトレーナーの純の姿が有った。特に女の子の格好を意識しているつもりはないけど、髪型だけここに来る前にちょっと変えてもらっただけだった。
 二人が書類を書いていると、先ほどの店長さんが手に制服らしき物を持って再び部屋に戻ってくる。
「ごめんなさいね、開店準備中で忙しくて。ここに制服置いておきますので、サイズが合うかどうか試着してください。一週間試用期間になりますので、正式手続きはその後となります。また後で来ます。前原恵美さんと、朝比奈純さんですね。では書類お預かりいたします」
 店長さんはそう言うと記入した書類を手にして再び部屋から出て行った。
「朝比奈クン、ほらこれ!!」
 恵美が手にした透明なビニール袋には、二つ同じ服が入っていた。
「僕、女の子で通ったの??」
「よかったよねー、あの紙に性別記入欄無かったし、多分あの用紙は女の子のアルバイト希望者にしか渡さないのかもね。ほら、朝比奈クン!」
「あ、その、僕やっぱり男で応募する!」
「だめ!せっかく面白くなってきたんだから!!ばれたらばれた時謝ればいいじゃん。時給だって男より安いんだしさ。ほら、店長さんが戻ってくるまでに試着するの!」
 そう言うと恵美は純のトレーナーに手をかけて無理矢理脱がし始める。
「あ、スカートだと思ったけどキュロットじゃん。丁度よかった。これでうまく隠せるし」
 しぶしぶ服を脱ぎ始めた純の横で、袋から二着の制服を出し、手にとって面白そうに喋る恵美だった。

 五分後、事務所の鏡の前には、白とオレンジのストライプのブラウスに紺のキュロットスカート姿の二人の女性店員がいた。恥ずかしそうに鏡の前に立つ純の着ている制服をあちこち直しながら、しきりに独り言を言ってる。
最後に純の被っているバイザーから出る髪をあれこれ直すと、やっと純は鏡の中の自分を意識しはじめた。
「ほら、決して美人じゃないけど、どこにでもいる女の子って感じじゃん」
「そ、そう…?」
「いいって、女のあたしが言うんだから」
 やっと純の顔に笑顔が戻り、とうとう鏡に向かって胸元でVサインまでし始めた。
「なんか、いけない事してるって感じでスリル有る。やってみよっか!」
 純はとうとういけない世界に足を踏み入れ始めてしまった。
「さ、早く店長さんが戻ってくる間に元通り着替えないと」
 そう言うと、なんと恵美は純の見ている前でするするとスカートを脱ぎ、ブラウスに手をかけ、さっさと脱ぎはじめる。白のキャミソールと、そこから見える彼女の白くて柔らかそうな手足が純の目に眩しく映った。
「お、おい恵美!」
 その言葉にはっと我に返った恵美は、怯えた顔で手にしていたプラウスで胸元を覆い、後ろを向く。
「あ、ごめん…」
 ちょっと顔をあからめた純が謝ると、ゆっくりと恵美は純に向き直り、ちょっと照れながら彼の顔を上目使いで見つめた。
「ごめん。今の朝比奈クンに全然男感じなかったもん」

「いらっしゃいませー」
秋も深まり、それから一週間後のそのファーストフード店開店初日、店の中ではの女の子達に混じって純と恵美の明るい声が響いていた。
 一週間の間、毎日放課後には恵美と一緒に岬へ行って海に向かって女声と仕草の練習した甲斐が有ったみたいである。それからというもの、週三日の夕方五時から八時と日曜日は学校から帰ると、岬近くの無人の祠に直行。隠してある女の子の下着を付け、ブラの中には恵美からもらったパッドをいれ、買ってもらったガードルを履き、女性用のジーンズとトレーナーを着て、近くの公園の女子トイレで髪を整え、恵美の家に彼女を迎えに行く日々が続いた。
 変わった生活が始まったけど、純にとっては両親を失った苦しみと辛さを忘れるには十分楽しい生活が始まった。一緒のローテーションになっている恵美のサポートも有り、一緒にいる女の子達は誰一人として純が男の子だなんて思いもしなかった。
 そんな中で好奇心の強かった純は、他の女の子達の仕草や言葉遣いを徹底的に真似して自分の物にしていく。一ヶ月もすると、高校や日常でも彼の気の緩みから、女言葉が出たり、ヒップに手を当てて座ったり、女の子みたいに髪をいじったり、足が内股になっていたり、女性の動作がしばしば出る様になる。純の通う高校では、早くも純の事をおかまよばわりするクラスメートも出始め、そしてある時、そんな純の行動が裏目にでてしまう日が来た。

「いってきまーす」
「行ってらっしゃい」
 いつもの様に朝高校へ出かける純は、最近叔父さん達が自分を避けている様な気がしていたが、叔母さんと朝の挨拶をするたびに、気のせいだと思う様になっていた。そんな純の後ろ姿をずっと見ていた叔母さんに一人のがっしりした中年の男が近づく。男はくわえていたタバコを地面に捨てて靴で消し、意味ありげな顔で近づいてくる。
「おかみさん」
 その声に振り向く叔母さんの顔はちょっとひきつり、そして丁寧におじぎをする。
「例の件の事なんですがね…」
 叔母さんの顔がちょっと強張り、押し黙ってうつむく。
「ここでは何なので、事務所で社長さんとお話させてもらえませんか?」
 男の声に、叔母さんは黙ってその男を事務所に案内する。そんな男の存在を純が知るはずもなかった。

 叔父さん達の態度が変ったように純の目に映ったのはその日の夕方からだった。月末に叔父さんに渡すと言っていたバイト代の半分は、自分の為に貯金しておく様に言われ、今まで避けていたと思っていた二人の態度は、急に親しみを込めたものになり、純は少しでも叔父さん達が自分を避けていると思った事をとても済まない様に思った。
「純ちゃん、なんか最近の純ちゃんは昔と違って、なんだか大人しくなった気がするんだけど」
 ビールを飲みながら赤ら顔で話す叔父さんの言葉に、純はちょっとどきっとする。
「いやだねぇ、元々女の子みたいな可愛い顔してるし、純ちゃんも大人になってきたし。当然の事じゃないですか?ねえ純ちゃん」
 叔母さんのフォローの言葉に、純は二人に対して感謝の気持ちで一杯だった。
「叔父さん、叔母さん。いろいろありがとうございます。お二人がいなかったら、簿今頃どうなっていたかわからないです」
 そう言うと、純は畳の上のテーブルから腰を移し、正座しなおして二人に深くお辞儀をする。
「純ちゃん、そんな水臭い事言わないで。私達を両親と思って頂戴ね」
 おばさんの言葉に純の目頭が熱くなった。

 早くも一二月に入り、純のいる小さな町でも所々でクリスマスソングが聞こえる様になっていく。相変わらず純は恵美と一緒にファーストフード店で女の子として働き、そして時々はミニの女性サンタの姿で、店の前に立ち、呼び込みをしていた。たまに目の前を通るクラスメートに最初はどきっとしたが、まさか純と気づかずに、彼の手からセールのちらしを受け取っていく所を見ると、本当に気がついていないらしい。その度に純は恵美にこっそり、だれそれが通ったけど気づかないみたい等と打ち明け、二人で笑っていた。

 ある日の夜、叔父さん達との夕食の時間、叔父さんがビールを飲みながら純に話し出した。
「一二月二四日に、民生委員の人が純ちゃんを尋ねて来るんだよ。丁度その時は前の日から叔父さんと叔母さんは用が合って外出するんだけど、お留守番お願いできるかな?」
 叔母さんも続いて純に話す。
「丁度アルバイトも休みの日でしょ。お願いできるかしら?あと、そろそろどこで働いてるのか教えてくれてもいいんじゃない?」
 留守番の件はともかく、純はバイトの事を話す訳にはいかなかった。女の子で働いてるなんてとても言えないし、今までずっと内緒にしていた事だった。
「あ、うん。天皇誕生日だよね。バイトは休みだし、一日ゆっくりしてるよ。でもバイトの事は聞かないでよ。ちょっと離れた町の飲食店の洗い場だから」
 純は適当に嘘をついたが、
「民生委員て、どうして?」
「あ、純君の事はいろいろ話しておいたので、これからどうするかとか、ちょっと聞きたいんだって。叔父さんも叔母さんも仕事で忙しいし、なかなか純ちゃんの相談に乗って上げられないし」
 何故か、叔父さんはちょっと言葉を詰まらせて話していた。でもすっかり叔父を信じていた純は別にきにも止めなかった。
「僕、別にこのままでいいよ。何もしてくれなくても、ここに置いてさえくれればいい。でも、わざわざ来てくれるんだったらお話聞かせてあげてもいいよ」
 純の言葉に、二人は顔を見合わせてうなづいた。
「じゃ、純ちゃん。お願いね」
「はーい」
 叔母さんはともかく、何かを隠している様な叔父さんの態度を全く気にも留めず、純は食事を続けた。

 その当日、仕事場も休みでガランとした家の玄関で、純は叔父さんと叔母さんを見送っていた。
「帰りは明日の何時になるかわからないけど、お願いね」
 叔母さんは家を出る際純にそう喋ったが、叔父さんは何も喋らず、そのまま車の方へ歩いていく。やがて車のエンジンの音が聞こえ、走り去っていく音が聞こえなくなると、純は一人部屋に戻り、ベッドの上に寝転がった。かすかに聞こえる波の音を聞きながら、純はこれからどうしようかといろいろ考え始めた。
(叔父さん達にこれ以上迷惑かけられないし、高校卒業したら焼けてしまった自分の家を叔父さんに処分してもらって、叔父さんに今までの養育費としていくらか払って、残りを貰ってそれで大学に行って勉強しようか…)
 高校一年生の考える事とは思えない事を一人考えていた時、玄関のチャイムが鳴った。
(あ、民生委員の人、もう来たんだ)
 ベッドからぽんと起き上がって、純はちょっと緊張しながら玄関へ急いだ。

「朝比奈純君だね。よかったらちょっと上がらせてくれんかね」
 民生委員と名乗るその男は、純をつま先から頭までじっと通して眺めた後、そう言った。特に純は怪しむ事もなく、叔父さんが応接に使っている畳敷きの間に通して、慣れない手でお茶を入れ始めた。
「タバコいいかな?」
「あ、どうぞ」
 急須を手に、慌てて灰皿を用意し、その男の目の前に湯のみを置き、やはり慣れない手つきで純はお茶を入れ始める。
「大変だったね。君の叔父さんからいろいろ聞いたよ」
「あ、別にいいんです。もう今は何とか忘れようとしてますし、ここでの生活も気に入ってますし、楽しいし」
(僕がオンナの子でバイトしてるなんて知ったら、この人どんな顔するだろ)
ちょっと思い出し笑いする純。
「よかったら、君の夢を聞かせてくれんかね?」
 タバコをくゆらせながら優しそうに微笑むその男に、純はすっかり気を許してしまう。
「え、夢ですか?あはは、夢なんて、まだ、その…」
 と言いながらも、純は小さい時から俳優になりたかった事とか、大学は行ってみたいとか、後自分の生い立ちとかを延々と喋り始める。そんな純の話をその男はじっと目を細め、タバコを吸いながら聞いていた。
「おじさん、僕今はここにいるけど、いつまでもここに迷惑かけられないし。それでね」
 さっきベッドの上で考えていた自分のこれからの事を話そうとした時、
「なかなかしっかりしてるね、君は」
 今まで畳の上の和机に純に向かって座っていたその男が立ち上がり、純の横に座りなおす。
「さっき、役者になりたいとか言ってたけど君ならアイドルにでもなれるんじゃないか?只、今の日本じゃ男性アイドルは裏ではなかなか苦労してるんだよ。こんな事もされるしさ」
 と、その男は純のお尻をそっと撫でる。
「おじさん、ちょっとやめてくださいよ」
 その男の行為を軽い冗談だと思ったのか、純は軽く触られた手を払いのける。
「その顔だって、まるで少女みたいじゃないか?」
 払いのけたその手は、今度は純の頬をペタペタと軽く叩き始めた。
「おじさん、ちょっと…」
 その手の感触がちょっと怖かった純は、座ったまま一歩あとずさりした。そんな純を見ながら、その男は口にタバコをくわえたまま、持ってきた傍らのセカンドバックから何枚かの写真を取り出して純に見せる。その写真を見た時、純は心臓が止まる思いがした。その写真は、女の子の姿であのファーストフード店で働いている純の姿ばかり写っていた。
「おじさん…これ…」
「純君、だめだよ、こんな変な事してちゃあ」
「お願い!叔父さんと叔母さんには絶対言わないで!!」
 純は座ったままもう一歩あとづさりして、頭を畳に付けて何回も土下座をする。その男はゆっくり立ち上がり、抱きかかえる様に純の肩に手をかけた。
「言う訳ないじゃないか。純君にも迷惑がかかるだろ。可愛い君の嫌がる事おじさんはしないよ」
 男の言葉に純はほっとして、正座している足を横にくずす。バイト以外でも時々スカートを履いていた純には、いつしか女の要素が染み込みはじめており、そんな動作が自然になっていた。その姿を見たその男は今度はにやつきながら、再び純の顔に自分の顔を近づけ、臭い息をはきかけたる。
「そのかわりといっては何だが、今日一日おじさんと遊んでくれないかね?純君みたいな可愛い男の子、私は好きなんだよ」
 男は新しいタバコに火を付け、今度は堂々と純の体を撫で回す。
(抵抗したら叔父さん達にばらされるかもしれない)
 純は我慢してされるままになった。純をもてあそぶ男の手は更にエスカレートする。
「純君が望むなら、私が引き取ってもいいんだよ。好きな物なんでも買ってあげるし、望むならいつでもずーっと女の子の姿でいてもいいんだ。おじさんお金持ちだし、ここの村の人にもたくさんお金貸してるんだよ」
「えーーー!おじさん…」
 飛びのく様に純はその男から離れ、そして声をあげる。
「おじさん…民生委員の人じゃ、なかったの?」
「民生委員、あいつらそんな事言ってたのか?」
 その男は大声で笑うと、再び目を細めて純を見つめた。
「実はね、今月の支払いを延期するという約束で、今日一日純君とおつきあいわせてもらう事になってるんだよ。あ、いや断ってもいいんだよ。そのかわりここの家と工場は人手に渡るけどね。そうなったら純君もここを出て行かなきゃいけないんじゃないの」
 男はとうとう座っている純の後ろに座りなおし、両手で純を抱きしめ始めた。必死で我慢している純の顔に、なおも男は臭い息をふきかけ、そしてトレーナーの中に手を入れ、純の胸のあたりを愛撫し始めた。
「賢い君ならわかるだろ?君の今後の人生は今日一日で決まるんだよぉ。アイドルになりたいなら、私が口利いてやっても」
 純の耳にはそんな声聞こえていない。小さい頃父親や叔父さんに抱かれた時の感触とはあきらかに違う、自分を食べる前に愛撫する悪魔の様な感触。純は我慢するのが精一杯で何もできない。彼のそんな態度を観念したとみた男はとうとう純を抱きかかえ、そして畳の上に押し倒し、馬乗りになる。
「い、いやぁぁぁぁ!」
 純は思わず女の子の様な声で悲鳴を上げる。時々女の子になっている悪い副作用みたいな物が出てしまった。だが、その後、
「うおっ!」
力を振り絞り、純の服を脱がせ始めた男を足で撥ね退けると、さっきの声で油断した男の体は傍らの壁に叩きつけられた。
「お前、何をするんだ!自分が何をしたのかわかってるのか!?」
「わかってるよ!よくわかってるよ!」
 純は立ち上がりながら大声で反撃する。
「いや、お前はまだわかってない!俺にそんな事をしてこの町で生きていけると思ってるのか!?俺の後ろには議員もやくざもいる!この家なぞすぐに取上げてやる!」
「うるさい!!」
 純はそう叫ぶと玄関に向かって走り始めた。
「この事、みんなにいいふらしてやる!」
「ふん!やってみろ!誰も耳は貸さんぞ!みんな知らんふりだ!さあ、戻って来い!お前の為だ!」
 そんな男の声に耳を貸さず、純は大急ぎで靴を履き玄関を飛び出した。
「おい!待て!俺に恥をかかせやがって!」
 男は何か叫んでいたみたいだったが、走って遠ざかっていく純の耳にはただのわめき声にしか聞こえなかった。両親を亡くした純にとって、一見穏やかな優しそうなあの男は救世主に見えたのに、それなのに!そして、自分が今まで信じていた叔父さん達までもが、自分をこんな事に!
 海辺の道を走りながら、純の目には悔しさと絶望の涙がこみ上げてくる。純の足はそのまま恵美の家へ向かっていた。小道の坂を上ってふと海の方を見ると、下の小道に自分を追ってくる男の姿が一瞬見えた。息を切らしながら純は再び走り続け、そしてやっと恵美の家にたどりついた。
 家の呼び鈴を鳴らすわけにはいかず、純は恵美の家の裏手にまわり、小石を恵美の部屋の窓ガラスに数個続けて投げると、程なく窓が開き、恵美が眠い目をこすりながら顔を出した。
「朝比奈…クン!?」
「恵美、ごめん!家に入れて!!」
 恵美の姿が窓から消え、そしてほどなく鍵をあけるパジャマ姿の彼女が玄関のガラスに映っる。
「今誰もいないから、でもどうしたの??」
 それに答えず純が玄関に飛び込むと、すかさず再び玄関に鍵をかける恵美。
「何があったの!?」
 純がそれに答えたのは、恵美の部屋に入って一息ついてからだった。純はまだ落ち着かない心臓の為、息を切らせながら今までのいきさつを恵美に話した。

「あ、あいつね。ここの村でも評判の悪だよ。でもお金とか一杯持ってるし、偉いさんとも付き合いあるし。うちの親父も嫌ってるけど、あいつ無視すると結構面倒だし…」
 窓のすきまから純と恵美が家の外を見渡すと、その男は見失った純がこのあたりに隠れているんじゃないかとうろうろしており、時には家の戸を叩いて住人を呼び出して何か聞いたりしていた。
「どうしよう、俺もうこの町には住めないよ」
「とにかく、あの男から逃げないと…あ、ちょっと…」
 恵美はそういうと、純に部屋の壁に吊るしてあった自分の制服を取り、純に手渡した。
「えー!また女装すんの。もう嫌だよ、僕そのせいでさ」
「いいから!早く!捕まったら何されるかわかんないよ!変な人達とも付き合いあるんだから、あいつは!」
 再び純はしぶしぶ服を脱ぎ始める。

 五分後、そこには自分の通う高校の女子生徒に変身した純がいた。まだ恵美の女の残り香の残る制服の短めのスカートがちょっと寒かったけど、恵美のメイクのおかげでごく普通の女の子になった純は、鏡でその姿を確認すると、再び窓の外を見る。その男は疲れたのか、恵美の家の前のバス停の椅子に腰掛けて座っていた。
「はい、これ!」
 恵美は自分の小銭入れを純にしっかり手渡す。
「家の裏口から逃げて。あそこからは絶対見えないから!」
 恵美に裏口に案内されると、純は用意された恵美のピンクのスニーカーにルーズソックスの足を通し、そして後ろ髪を引かれる思いで、恵美の方を振り返った。
「朝比奈クン、好きだったよ。無事に逃げてね…」
 そう言うと、恵美は純の頬を両手で優しく抱えると、驚いてる純の唇にしっかり自分の口を当てた。あの男を怒らせた以上、もう彼は戻ってこれないだろう。その事は恵美も覚悟していた。
「気をつけてね!」
 恵美のその言葉に、純はそっと裏口の扉を開けると、恵美に向かって小さく手を振り、そして一目散に林の中の小道へ走り出した。

 駅のホームに隠れる様にして電車の来るのを今か今かと待っていた純は、ようやく電車が来ると、男が追ってこないのを見届けて乗り込み、そして大きく深呼吸をした。何人かの乗客の様子を見回したけど、女子高校生姿になった純を誰も怪しがる人はいなかった。
 やっと落ち着いた純は、ようやくこれからの自分に不安を抱き始める。もうここには戻れない。かといって、焼けた実家は今更地になっている。帰るところが無い事にようやく純が気づき始める。
(どうしようか。もうここにはいられない。とりあえず元の家の近くに何人か友達とかいるから、事情を話して、そして…)
 とりあえず、元いた東京の家の近くの友達を訪ねてみようと思った純は、心と体の疲れのせいか、電車の中でうとうとし始めた。

 純の元いた都会の焼けた実家の近くまで来たのは、もう昼過ぎだった。大急ぎで自分の家の有った空き地へ急ぐ純。しかし、そこに近づくにつれて、純はだんだん自分の目を疑い始めた。

(嘘でしょ、そんな事って…)
 空き地になっているはずの純の家の土地には、何かの建物の基礎工事が始まっていた。そして横の看板には
「○○邸新築工事」
 と書かれている。そこは純に残された唯一の両親の財産のはずなのに…。
暫く呆然とその前に立ち尽くす女子高生姿の純を、通りかかる人が何人か不思議な目で見ていた。と、その時、
(叔父さん!叔母さん!!)
 近くに一台の車がとまり、そこから出てきた三人の人影。そのうちの二人は今日外出しているはずの、まぎれもない純の叔父さんと叔母さんだった。横の建物の影に隠れてその様子をみていると、叔父さん叔母さんは基礎工事の進んでいる土地の横に立ち、何かサラリーマン風の男に何かいろいろ説明を受けている。そしてそれが終ると歩き出し、少し先の小さな喫茶店に入っていく。

 すかさず純はその後ろを追い、変装用にと恵美の渡してくれた眼鏡をかけ、その喫茶店に入り、そして叔父さん達の座っている席の後ろに座って聞き耳を立てた。自分の着ている制服が叔父さんと叔母さんの地元の高校のものだと不審がられないかと純は少し不安だったが、どうやら気づかれていない様子。そして、叔父さん達からは信じられない話が聞こえてくる。純は出されたコーヒーにも口を付けず、その会話を呆然と聞いているだけだった。

「先方とも金額の件で話しがつきました。税抜きで4500万。ほぼご希望通りの金額です。良かったですね」
「あなた、本当にこれでいいの?」
「…いいんだよ。これであのバカからの借金が返せる」
「でも、純ちゃんの両親の財産でしょ…」
「ここの家建てたとき、俺はあいつに一千万貸してたんだよ。返さずに、死んじまいやがって」
「一千万でしょ?」
「お前はあの家を手放したいのか!?出て行きたいのか!?小さい工場だが俺の親父の残した財産だ。銀行も金貸してくれないし!こうするよりなかったんだよ!」
「あ、あの失礼ですが、法的に問題は…」
「いい!ないない!同意書に純の指紋も残ってるし!」
「寝ている間に強引に押したんでしょ!」
「じゃあ、どうすりゃ良かったんだよ!言ってみろよ!」
「……」
「本当は今月末の返済だったんだよ。なんとか言いくるめて来月にしてもらったんだ」
「…どうやっていいくるめたの。あの人が返済を延ばすなんて聞いた事ないわよ」
「聞くな!もうこれで終ったんだ、何もかも」
「今頃純ちゃんは、民生委員人と何か話している頃ね。もう終わった頃かしら。ねえ、民生委員て、誰?大倉さん。あ、あの人今青森に帰ってるし…、ちょっと誰?民生委員て?」
「…」
「そういえば、あの男、可愛い男の子が好きだって噂、あなた、まさか…」
「…所詮、他人の子だ」
「あたし帰ります!まさか純ちゃんを!」
「やめろ!いいか、純ちゃんには気づかれない様にしろよ。絶対この場所に来させるな。当面両親の事は全て忘れろって…」
 不動産会社らしい人もあっけにとられて聞いていたみたいだった。とうとう純はたまらず席を立ち、叔父さん達の座っている席の横に行く。

「ひどい!!!」
 いきなり現れた女子高校生にその席の三人はびっくりして純の方を向く。
「僕、叔父さん達信じていたのに!!なんで!なんでだよ!」
 そう喋る純に最初に気づいたのは叔母さんだった。
「あなたまさか…純ちゃん!?」
 叔母さんがそういい終わるか終らないかのうちに、純はそのテーブルを、乗っていたコーヒーカップやコップ共々ガシャーンとひっくり返し、そして大声で泣きながら店を飛び出す。
「純ちゃん!ちょっと待って!!」
 短いスカートも気にせず、純はとめどなく流れる涙を手でぬぐいながら駅へと向かって走り出す。もう何もかも忘れたい!もう誰も信用しない!純は狂った様に走り続ける。そんな純の足は、去年
のクリスマスに両親と過ごした渋谷の街へと向いていた。

 純が渋谷の街についたのは夕方六時。ミニの制服から出る純の素足を冷たい風が襲い始める。電車に乗っている間もぐすっていた純を殆どカップルばかりだった乗客が変な目で見ていた。多分クリスマスイブに彼氏に振られた女とでもみていたんだろう。何組かはそんな純を見て笑っていた。
 そんな恥ずかしさからやっと開放され、あちこちでクリスマスソングときらびやかな電飾の洪水になった渋谷の街を、一人ふらふらと歩く純。去年、両親と来た時は、いつしか自分にも可愛い彼女が出来て、そして、なんて事を思ったりしていた。
 まさか一年後、そんな幸せだった自分が、しかも女子高校生姿で、そして絶望に打ちひしがれて歩くなんてどうして想像できただろう。寒いのにコートも着ず、ふらふら歩く純に、渋谷の街を歩くカップルは電車の中と同じ様に冷たい視線を投げかけてくる。
 やがて純は一件のファミリーレストランの前で立ち止まった。そこは去年の今日、両親と夕食を食べた思い出の有る店。暖かい店内で、おなか一杯食べて、そして両親にMDプレーヤーの入った箱を手渡された思い出の店。
窓から見える、去年純達の座っていたその席には、今年は両親に連れられた二人の男の子が、やはり何かプレゼントされてはしゃいでる姿があった。その笑顔を見ているうちに純の足は一歩二歩とその方向に向かって無意識に歩いて行く。まるで自分もその幸せの中に入れてといわんばかりに。
「あ…雪…」
 頬に当たる冷たい感触にふと純は我に返る。
(ばいばい、幸せにね)
 心でそう言いつつ、その幸せな家族を窓越しにみながら純は胸元で手を振った。

 雪は次第に本降りになっていく。その中を傘もささずコートも着ずに歩く純の姿に多くの人が振り返る。冷たくなって行く手をさすりながら街を歩き続ける純。一年前の今日、父親と待ち合わせた喫茶店、そしてその前にちょっと遊んだゲームセンター、そして食事の後家族で散歩したセンター街。途中でお父さんがタバコを買った自動販売機…。
(一年前に戻りたい)
 もう涙も枯れ、そして体も冷え始めたのか、只純はふらふらと歩きながら鼻をぐすぐす言わせていた。
「…え、どこどこ、えー何あの子!」
「彼氏に捨てられたんじゃない?」
「すごい、髪なんてぼさぼさじゃん!」
 通りの反対側を歩く女の子人が突然叫ぶ。間違いなく自分の事を見て笑ってるのだろう。その女の子達の笑い声が終らないうちに、純は突然何もかも嫌になり雪の中を逃げる様に走り出す。
「何あれ、逃げちゃったよ、聞こえたんじゃない」
「あんた聞こえる様に言ってたじゃん」
 再び女の子達が笑い出す。

(大嫌い!みんな、みんな大嫌い!!)
 雪の中を只ひたすら走り続けた純は、いつしか自分が見知らぬ住宅街の中にいるのに気が付いた。息を切らせて立ち止まる純に容赦なく雪が降り積もっていく。雪は止む様子もなく、しもやけさえ出来始めた純の手を更に冷していった。
(冷たい…)
 制服の上着のポケットに入れた純の手に、恵美からもらった小銭入れが手に当たる。海辺の町から無我夢中でここに来るまでに、その中身は小銭だけになっていた。
(これから僕どうすればいいの)
 皆が幸せそうなあの渋谷の繁華街にはもう行きたくない。純は更に強くなってきた雪を避ける様に、近くにあった倉庫のシャッターの前の庇の下に逃げ込みうずくまった。冷えて濡れた体がいくぶん温まる。朝から何も食べていないお腹もぐうぐう言い始めるけど、どうする事も出来ず、只そこでうずくまっているだけだった。
 今何時なんだろう。うずくまっていた純がふと顔を上げてみると、前の道の先に、少し明るくなった所があるのがわかった。
(暖かそうだから、とにかくいってみよう)
 純はだんだんふらふらして、頭痛さえし始めた体を我慢して動かし、そして立ち上がってその光に吸い寄せられる様に歩いていった。

 やっとたどり着いたそこは住宅街の中の小さな教会だった。まだまだ日本にはクリスマスイブに教会に行くという習慣が無い為か、その中を見渡してみると、礼拝堂の祭壇の前には二組のカップルがいるだけだった。
 扉の横に付けられたスピーカーからは、オーケストラが奏でるクリスマス音楽が流れている。やっと暖かな所へ来たと思った純は、ふらふらとその中へ入り、祭壇の前に並ぶ椅子に座って、濡れた上着を脱ぎ始めた。
 先にいた二組のカップルは、雪の日にびしょぬれになった純をちょっと変に思ったのか、数回純の方を向いた後、さっさと消えてしまった。クリスマス音楽の流れる礼拝堂に残されたのは純ただ一人。いくぶん体が少し温まった純は、ゆっくりと祭壇の前に行って、目の前に有る小さな十字架のキリスト像を見上げた。
 純は今まで神様なんて信じた事がなかった。信じなくても幸せだったし、楽しかったし。神様なんて信じる方がおかしいなんて思った事もしばしば有る。でも流石に今日の純いつもとは違っていた。帰る家も無く、明日自分がどうなっているかもわからない。体も冷え、頭痛と鼻水はどんどんひどくなる。観念した様に純はキリスト像に向かって目を閉じる。その時、
「お嬢さん。どうしたのですか?何か訳有りの様ですが…」
 いつのまにか後ろには眼鏡をかけた神父らしき人が立っていた。
「何か訳ありであれば、お話を伺いますが。でもこんな寒い夜にそんな格好でいるのは良くないですよ。警察にご連絡して家まで送って頂ける様にいたしましょうか?」
 その神父さんは優しくそう言ってくれたが、今の純にとって叔父さんの家に帰る事など考えたくもない。無言で首を振る純に神父さんは不思議そうな顔をして、横の扉から出て行った。

 再び一人になった純は、再びキリスト像の前で手を組んで、そして訴える様に話しかけた。
「神様、あんまりだよ。僕が何したって言うのさ、どんな悪い事したって言うんだよ!そりゃ女の子の格好でバイトはしたけどさ!僕の両親をなんで取って行ったんだよ!僕これからどうすりゃいいのさ!僕を裏切った叔父さん所へ戻れっていうの!?ずっとあの変な男におもちゃにされろっていうの!どうなんだよ!」
 とっくに涙が枯れたと思った純の目に再び涙が浮かぶ。そう言い放つと、純は悔しくて悲しくてたまらないといった気持ちで、目をつぶり、握った手を再びぎゅっと強くにぎり直した。やがて、そんな事したって無駄なだけだと思い、席を立とうした純の耳に何かが聞こえた様な気がする。

(歩きなさい)

 エコーの利いた男性の声が今度ははっきりそう聞こえた。まさかと思って礼拝堂の中を見渡しても、神父さんの姿は無かった。

(歩きなさい。自分の心の向くままに)
「え!?」
 と思って、その声の方に顔を向ける。そこには十字架にかかったキリスト像が有るだけだった。と純にはそのキリスト像の顔が、純の方に向いている様な気がしてならない。その声は二度と聞こえる事はなかった。
(ひょっとして、本当に神様のお告げだったのかもしれない)
もう何もかもに絶望していた純にとって、空耳かもしれないのに、純は少し体が軽くなった様な気がして暫くキリスト像を見つめた後、その場を立った。
「お嬢さん。タオルお持ちしましたよ。それと今警察の少年課に、あれ、お嬢さん?」
 神父さんが礼拝堂に戻ってきた時、既に純の姿はそこから消えていた。

 再び雪の振る夜を歩き続ける純。不思議とさっきまでの刺す様な雪の冷たさによる冷たさと痛みは少し消えていた。いや、既にそんな感覚が無くなってしまったのかもしれない。振り続ける雪の中を、純は何かに導かれる様に歩き続けるが、不思議と純に迷いはなかった。どちらへ行っていいかわからない時、

(こっちだよ)

(そっちじゃない)

 そんな声が純の頭の中に響いて来る。寒く冷たい雪の夜、もう一時間も歩いただろうか、いよいよ純の足は疲労と雪の為、動かす事も辛くなり、そして両手の感覚はとうとう失われ、頭痛が消えたかわりに眠気に襲われ始める。
(だめだよ、神様、もう動けない)
 雪あかりに映る町並みからみると、もうここが都心から大分遠ざかった所だとわかる。純はとうとう動けなくなり、横の住宅の壁にもたれて苦しそうに息をする。不思議と痛みはもう無く、只々眠いだけだった。

(眠い…、凍死する時って、眠くなるんだっけ…)
(聞いた事ある。キリストって、死ぬ前に長い間歩かされたんだっけ…)

 壁にもたれたまま、そんな事を思いながら雪の降ってくる頭上をじっと見つめる純。ふと純はある事に気づいた。

(そっか、お父さんとお母さんが僕を呼んでるんだ…。天国で寂しいのかもしれない)

 暫く空を見上げる純の顔に容赦なく雪が積もっていく。さすがに冷たくて痛かったのか純は殆ど動かなくなった手で、やっとの思いで顔から雪を振り払った。もう純には心の迷いは無い。多分このまま凍え死んだとしても、多分目を開けたら目の前には、お父さんとお母さんがいるんだと信じて疑わなかった。しかし、

(せめて、雪の当たらない所で…)

 純は壁によりかかる様にして、雪を避けられる所を探して一歩また一歩と歩く。と、その壁には終りがあり、そしてその先には小さな門構えの有る家が有った。

(あ、これで雪が防げる)
 もう喋る気力もなくなった純は、上にひさしの有るその家の玄関まで行くと、ふらふらとそこに崩れ落ちる。と、

(あれ…扉が…開いてる)

 無用心にもその家の扉は鍵がかかっておらず、純は最後の力を振り絞ってその家に倒れこみ、寒さをしのぐ為扉を再び閉め、そして玄関の床に転がった。もう純には体を動かす力は残っていない。

(お父さん、お母さん。今会いにいくね…)

 どろどろ、びしょびしょになった女子高校生の服を着たまま、純はそこで動かなくなった。顔に微かに笑顔を浮かべて。


 それから間もなく、タイヤチェーンが雪道を踏みしめる音がして、一台のタクシーがその家の前に止まる。とドアが開くと同時に、
「じぃんぐるべぇぇぇる、じぃんぐるべぇぇぇる、すぅずぅがぁぁなるぅぅぅ!」
 相当酔っ払ってるのか一人の女性の調子の崩れた声が近所に響き渡り、そしてもう一人の眼鏡をかけた女性が、歌う様に叫んでいる女性をタクシーから引っ張りだした。
「お連れさん、相当酔ってられるみたいだから、しっかり介抱したげなさいよ」
「は、はい、どうもすみません」
 眼鏡の女性はタクシーの運転手にそう言ってお金を渡していた。

「じぃぃんぐうううる…」
 再び泥酔状態の女性が歌い出した時、
「ゆり!!もう近所迷惑だからやめなさいって!!」
 眼鏡の女性が、酔っ払った女性の肩を手で掴んで揺らす。
「なーにいってんのよぉぉ、こーこーはあたしの家、あーたーしの近所!あんたとこみたいな伊豆のど田舎じゃあ、ないんらからねぇ」
「ああ、もうわかったから…」
 眼鏡の女性はそう言いながら自分の首に泥酔常態の女性の左手をかけて歩かせようとするが、なかなか先へ進まない。と、
「おー…ここは…」
 ふらふらした女性がすっくと顔を上げ、目の前の建物を見る。
「早乙女くりにっくぅ…ばんざああああああい!」
「だーかーら、ゆり!!近所迷惑だっつーの!!」
 タクシーから降りた二人こそ、若き頃の早乙女ゆりと美咲あゆみだった。
「全くもう、ゆりがこんなに飲むなんて信じられんわ」
「うー…、こんな嬉しい日がぁ、あるかってーのよ、新米開業医で十年ローンよぉ、十年、親に半分出してもらってさぁぁ、うー…、都内一戸建てよぉ。あんたとこみたいにさぁ、親に頼めばなんだって手に入る家柄じゃぁ、なーいーんだからねぇ…、ねーぇお嬢様ぁ…」
「はいはい、よかったわね!!、酔ってなかったらぶん殴ってるわよ、こいつ…」
 殆どいう事を聞かないゆりの体を、あゆみが必死で引きずりながら玄関へ移動させる。
「みさぁ、知ってたぁ?この家ねー、おっきなおっきな地下室があんのよぉ」
「今朝、クリスマスパーティー行く前にさんざんあんたに見せてもらったわよ!」
「へっへっへぇー、それでねぇ、そこにミサイル置いといてさぁ、悪い奴が来たらそれで…どっかあああああん」

「まったくもう、あんな変な映画のDVD貸さなきゃよかったよ。早く寝かせないと、明日来る改築業者さんにまで迷惑かかっちゃう」
 積もった雪の上をゆりを引きずってようやく玄関にたどり着いたあゆみは、一息ついた後、ゆりに鍵を求める。
「鍵ぃ…あったっけそんなの???」
「もうバッグ貸しなさい!!」
 あゆみが外の街灯の下へ行って、ゆりから奪う様に取上げたバッグから鍵を探そうとした時、
「こんな扉にさぁ、鍵なんていらないわよぉ」
「あっそう?好きにしたら?」
「ひらけぇぇぇぇぇ、○○○!!」
「あんた!バカと違う!?」
 突然のゆりの卑猥な言葉に、恥ずかしいやら頭にくるやらで、再びあゆみはゆりの立っている玄関の前に飛び込んできた。
「ゆり!当分結城先生とつき合わない方がいいわよ」
「みさぁ、なーにいってんのぉ、ほーら開いたぁ!」
「え!?嘘、なんで!?」
 ガラガラと音を立てて玄関から家に入っていくゆりを見ながら、あゆみが不思議がる。
「ちょっと、ねえゆり!あたしたち、ちゃんと鍵かけたわよね??」
 今朝パーティーに出かける前に、ゆりと二人で鍵かけて、閉まってる事確認してから出てきたはず。ひょっとして中に泥棒が…!?そう思ってあゆみがゆりに声をかけようとした途端、
「きゃあああああああああ!!!」
 どさっと誰かが倒れる音がして、続いてゆりの悲鳴が聞こえてきた。
「ゆり!どうしたの!何かあったの…?」
 その声と音に驚いたあゆみが恐る恐るゆりに声かける。
「みさぁ…」
「ゆり、大丈夫!?」
「あのねぇ、人が倒れてるのぉ」
「倒れてるのはあんたでしょうが!!!」
 とうとう切れて玄関に飛び込むあゆみ。しかし、
「あ、ちょっと、キャッ!!」
そんなあゆみも何かにつまづいて倒れそうになる。
「ゆり!いつまでそこで寝そべってるのよ!」
「あたしは立ってるよぉ」
「え!?じゃ、これ、誰よ!誰なのよ!?」
 あゆみはそう言いながら、その倒れているらしい人らしき物を手でさぐると、丁度その手がスカートから伸びる足らしき物に触った。
「女の子みたいよ…。ミニスカートの…」
「くせものぉぉぉ、名を名乗れぇぇぇぇ!」
「バカ言ってないで、早く灯りつけてよ!」
「昨日引っ越してきたばかりだきゃら、わかんにゃい…」
「んとにもう!!」

 倒れている女の子?を踏まない様にあゆみは玄関に上がり、そして暗闇の中でようやくなれてきた目で玄関のスイッチを探した。蛍光灯に照らされた女子高校生姿のその女の子は、泥だらけでずぶぬれの制服に身を包んで倒れていた。
 いきなりしっかりした手で彼女?の脈を取るゆり。あまりの事にゆりの酔いも醒めたのだろうか。
「生きてるけど、うわあ、すごい熱よ」
「ほら、ゆり、目覚めたでしょ。奥に運ぶの手伝って!」
 二人は倒れている女子高校生(純)を廊下の上で半ば引きずりながら、応接室のソファーに寝かせた。
「熱さましのアンプル取ってくるから、ゆりは服脱がせて、なんでもいいからゆりの下着とパジャマ着せてあげて」
「う、うん、わかったぁ」
(まだ酔ってる。大丈夫かなあ)
 まだ整理されていない医薬品の入った段ボール箱から、ようやくあゆみが熱さましのアンプルと注射器等を用意した時、
「みさぁ…」
 自分を呼ぶゆりの声が聞こえる。
「みさぁ、この子、男の子だわ」
「ゆり、あんたまだ酔ってんの!?あんなに可愛い顔の男の子なんているわけないでしょ!ちゃんと女の子の制服着てたしさ」
「だってほらぁ…」
 大急ぎで、純の寝かされている応接へ行くと、ゆりが少し離れて純を見ている。あゆみは恐る恐る下半身を確認、そして、
「うそぉ…」
 暫く男性自身を見ていたゆりとあゆみが顔を見合わせた。
「…で、どうする?着替え…」
「ここに男物なんてないわよぉ」
「ゆりの貸してあげなよ、とりあえず」
「やだよぉ、なんであたしの服とか下着、男の子に着せなきゃなんないのぉ」
「今そんな事言ってられないじゃん。ブラまで貸せなんていわないからさ。綿パンとキャミとパジャマもってきなよ!」
「やだなぁもう…」

 しぶしぶあゆみに言われた物を取りに行くゆり。そして気を失っている純の顔を見ながら、あゆみはひそかに思った。
(この子って、ひょっとして性同一障害治療を秘密裏に始めたあたしたちへの神様からの、クリスマスプレゼントかも!?)

 それはゆりとあゆみが、試験的ながらも正規に堀幸男達三人を女性化訓練生として受け入れる一年以上前の事でした。

開いていた扉 完

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