ここはケネス・オードリー君が所属するネティア王立学習院。
歴史を感じさせる茶色煉瓦作りに白漆喰で装飾の施された建物が無数に並ぶ、地球で言えば大学院大学みたいなそこの係数物理フロアでは、丁度今ケネス君が自分の親父さんみたいな年齢の人にワープエンジンの原理と仕組を講義している所であった。
美奈子達がそこに到着したのは、地球で言えば太陽に相当するケンタウルス・α星が山裾に沈む夕暮れ。全ての講義が終わりに近づき、早めに講義を終えた老若男女の学生が帰り道を急ぐ頃。
ここに若い女性が来るのはそんなに無い事であり、帰途を急ぐ男性達の目線を少し楽しむ美奈子達。
最もこの二人は一人はれっきとした男性、一人は商売に有利な様に自らの体を女性化させたしていった男性であったが。
「この雰囲気懐かしいわねぇ。まほろと一緒に材料工学とか燃料学とか学んでいた頃が昨日の様だわ」
美奈子がそういいつつ、学習院の事務室を目指してキャンパスの中を歩いていく。
やがて学習院の事務室に到着。応対した職員とケネス君の執事は、最初むげに美奈子達追い返そうとしていたが、二人の持ってきた封筒の中身を見るとちょっと慌てた素振りを見せ、近くの応接室に彼女?達を通した。
その後ケネス君の執事は、ご主人様にお伝えしようと教室へ向かうと、早めに切り上げて戻ってきたケネス君と鉢合わせ。
「やあ、じい。早めに切り上げて帰ってきたよ。質問も出なかったんでね。全く学生の奴ら僕の話が判っているのかどうか、本当に気が重いよ」
メガネの美男子のご主人様の言葉を遮る様に、初老の執事は手を振り首を振りケネスに話す。
「おぼっちゃま。今二人の女性がおぼっちゃまを尋ねてこられまして、何かお仕事でお困りの様子で、是非おぼつちゃまの力をお借りしたいとかで」
老執事の言葉に、またかという顔をしてしかめっ面をするケネス。
「じぃ、そういう話は断ってくれと何度も言ってるじゃないか。それにもうお坊ちゃまはやめてくれよ」
「はあ、しかし…」
老執事がためらいながら話しを続ける。
「何でも地球の日本の貴族の末裔の方らしくて、それを証明する証書もございましたし、何より貴族の方とお近付になれるのは大変喜ばしい事と」
「僕は相手が貴族だろうが、庶民だろうが関係ないよ。ただ邪魔をされたくないだけだ」
その言葉に老執事はちょっとためらった顔をすると話を続けた。
「おぼっちゃま、あ、いや、ケネス様。この星では王族の方々はケネス様を評価しておりますが、その他の方面からはケネス様を煙たがっている方々も少なくありません。秀才ではあるが王族でもなく、まだ年も若いケネス様が鼻について仕方ないのでございます。今ケネス様に必要なのは強力な後ろ盾かと…」
またじいの説教が始まったという顔でケネスは顔を曇らせる。
「ああ、わかったわかったよ。じいの貴族信仰と僕の事を思ってくれる気持ちはね。ところでその女性達は本物の貴族なのかい?」
老執事はちょっと顔を曇らせると再び話始めた。
「正直申し上げて、今すぐにはわからないのでございます。私めもこの仕事に就いて長いので地球の貴族の事は有る程度わかります。蜜蝋の刻印は確かに地球の中世の頃の実在するフランス貴族のものと酷似しております。今その家系は途絶えたと聞いておりますが、しかも、その女性は地球の東洋風の容姿でして。
中世の革命で日本に逃げ延びたその貴族の末裔の可能性も。もっと調査してみれば何か…」
長々と話し始める老執事の言葉をめんどくさそうに聞いていたケネスが、もううんざりだという様子で髪をバサバサと掻いた後再び執事に向き直る。
「わかったよ。じいの顔を立てて会うだけ会ってあげるよ」
「あ、ありがとうございます」
笑顔の戻った老執事は足早に、そして自分の主人を急がせて美奈子達の待つ応接室へ向かった。
応接室に入ってきたケネスと執事を美奈子達は、先ほど必死で覚えた貴族風の挨拶で迎えた。
「はじめまして。愛野美奈子と申します。横にいるのは秘書の梶まほろと申します。以後お見知りおきの程を」
「君達の探しているケネス・オードリーというのは僕だ。今ここ王立学習院の助教授をやっている」
「まあ、ケネス様お目にかかれて光栄でございますわ。私共は地球の…」
「いいよ、そんな事。こちらも忙しいんだ。協力できるかどうかわからないが、依頼事というのを聞かせてもらおう」
そう言うとケネスは少し乱暴にソファーに腰掛けた。美奈子達も先ほどカラカサ号に仕掛けた盗聴器から聞こえてきた瞳の話とか情報を元にして依頼事を話始めた。
「そんな簡単な話じゃないよ。それが出来た時の状況は?水温、海水成分、場所。磁力線と引力。他にもいろいろ影響が有るはずだ」
一通り話し終わった美奈子達の話の後、ケネスは投げ出す様に話す。ちょっとがっかりした様子の美奈子達にケネスはふと考えた素振りの後再び話始めた。
「まあ、面白い研究対象ではあるがね。惑星物理学の一端を掠めているという所もあるし」
表情が好転したケネスの言葉にすかさずまほろが食いつく。
「あ、あの、じゃあ」
ケネスがそんなまほろの言葉を手で遮る。
「おっと待った。やるとは言っていない。研究費用とかもそんなに問題にしていない。問題はだ」
「え、その問題とは」
美奈子が真剣な眼差しでケネスを見つめる。そんな美奈子を子供らしい意地悪そうな目で見つめるケネス。
「最近レベルの低い大人たちばかり相手にさせられるもんだから、僕すごく退屈してるんだ。何か僕をやる気にするような、楽しい事何かないかな。僕を感動させてくれたら、その先のお話を聞いてあげるよ」
そう言いながら両手を後頭部に当て、ソファーの上で乱暴に足を組みかえるケネス。その横ではらはらした様子で老執事が自分のご主人様にささやく。
「お、おぼっちゃま!相手は地球の貴族ですぞ。そんな失礼な」
「おぼっちゃまはやめろって言ってるだろ」
わざとらしく大声でそれに答えるケネス。とその時、
「承知致しましたわ、ケネス様」
その言葉にケネスはメガネの奥に意地悪そうな目線を残し、薄笑みを浮かべながら美奈子の方振り向く。そんな事を気にかけない素振りで美奈子が続ける。
「明後日の夜、お時間を空けておいてくださいませ。場所は後で執事の方にご連絡いたしますから」
子供にバカにされたという事実に美奈子が不機嫌ながらも引きつった笑顔をケネスに向ける。
「おや、そうなんだ。じゃ、じぃ、聞いたかい?二日後の夕食会キャンセルだ」
「おぼっちゃま、いやケネス様、その夕食会は…」
「いいんだ、元々あんな娘に興味は無いし。丁度いい言い訳だろ」
困った顔の執事を軽くいなし、ケネスが続ける。
「愛野美奈子君といったね。自分の娘を僕と無理やり結婚させようと目論む人の予定をキャンセルするんだ。楽しみにしてるよ」
美奈子の横で一人不安そうなまほろが、何か言いたげに美奈子のスカートを引っ張っていた。
「仕事は邪魔されるわ、邪魔したあの女共にさんざんこき使われるわ、おまけにあんなガキにこけにされるわ、本当にもう!」
ハイヒールを履いた足でツカツカと乱暴に音を立てて美奈子が学習院を後にする。立派なそこの門を出た美奈子は携帯を取り出し、なにやらいろいろな所に連絡を取り始めるのを不安そう唯黙って観ているまほろ。
「みてなさい!かって親父共を何人も落としたあたしの接待術で、あいつも必ず落としてやるわ!」
携帯をハンドバックに仕舞い込み、立ち止まって大声でまほろに向かって怒りをぶつける美奈子。
「ねえ、美奈子、今回嫌な予感するんだけどさ」
「あんたにしちゃ弱気じゃない、まほろ!あいつさえ落とせばいいんでしょ!」
「美奈子、相手は子供だよ。いつもみたいに親父相手じゃないんだから!」
「男なんてみんな同じ様なものよ!」
「だといいんだけどさ…」
もうあたりは夕闇が支配し始めていた。名前もしらない虫達が泣き始めるネティアの寂れた街中、どうしても不安をぬぐいきれないまほろが、足早に自分の艦に向かっていく美奈子の後を追いかける。
夕闇も深くなり、ネティアの街の古風なデザインの街灯に一斉に黄色い灯が灯り始める。
先日、少年が少女に変る不思議な事件が起こった廃工場の近くの寂れた道端で、果物を売っていた少年が今店じまいを始めた様子。
売れ残りの果物の数を数えてため息をつく様子から、商売の方は芳しくない様子だった。ボロのシャツとジーンズを履いてはいるが顔立ちは整っており、少女の様な面影も持っている。
「たったの一、〇〇〇Cr…」
少年がそう呟いて並べていた果物を箱に入れようとした時、近寄ってきた黒い影に一瞬後ずさりをした。
「美味しそうね、ぼうや。オレンジを一籠貰えるかしら?」
気味悪い影の正体が、黒い服を着た女性と判ると少年はほっとした表情で籠の中に四つ入ったオレンジを紙袋に入れ始める。
「ぼうや、儲かってるの?」
その言葉に少年は首を横に振ると、黙ってオレンジの入った紙袋をその黒づくめの女に渡す。
「そんな格好だからだよ。もっと綺麗な服で売ったらいいのにさ」
そう言いながら手にした黒いポーチから一〇〇Cr硬貨を手渡す女。それを大事そうに受け取りながら少年は寂しく笑う。
「ごめんねおばさん。僕の持ってる服はこれだけなんだ」
そう言うと少年は手元の籠に入っている果物を。大切そうに箱に詰め始めた。
「そうね、メイドさんの服着た女の子とかが売ってるとさ、もっと売れるかもよ」
その言葉に答えもせず店じまいを続ける少年。その様子を見た黒づくめの女は二、三歩店から離れると少年の方に向き直る。
「ちょっとこっちへいらっしゃい。お店が繁盛する様におまじないかけてあげる」
ちょっと不気味な女の変わった行動に少年が作業の手を止めた。
「なんだよおばさん。おばさん占い師か何かなの?それとも魔法使い?」
「まあそんなものよ。いいからこっちにいらっしゃい」
「あのね、僕忙しいんだけどさ」
そんなくだらない事にかまってられないんだけどって言う表情で手を止め、女に近寄っていく少年。
「ぼうや、家族の人は?」
「いないよ。かなり前どっか行っちゃった」
「そうなの。それは都合がいいわね」
「ねえ、一体何をする気なの?」
その女は少年の問いかけに無言でさっきお金を出したポーチから小さなスティックを取り出す。
「おまじないなんかよりさ、さっきおばさんの言ってた可愛いメイドさんとかを付けてくれるといいんだけどな」
女はその言葉にも無言でスティックについたダイヤルを片手で調整し始める。
「それともさ、おばさんそういう服着て果物とか売ってみる?おまじないよりその方がいいかもよ」
女は調整が終わったそのスティックを少年に向け、一瞬空を見る素振りをした後、髪を振り冷たい笑顔を少年に向けた。
「あんたがそうなればいいんじゃない?」
「え?」
その途端、少年の体が薄い青い光に包まれる。小さな悲鳴を上げた少年の周りを蛍の様な小さな発光体が回り始め、その数が増えていく。
「おばさん!何だよこれ!?」
一声発した後、うめき声を上げながら地面に倒れる少年。
「良かったわね。これで明日からはたくさん売れる様になるかもねぇ」
無数の青白い光の粒に包まれた少年の服が消え、裸になった彼の体は次第に白くなっていく。
「あっああっ!」
もだえ声を上げている少年を包む光の粒は、青からだんだん紫に変化。
「ふふふ、うまくいったみたいね。まあ、これからの人生、女の方が楽しいかもよぉ」
そういいつつ、ポーチから細身のタバコを取り出し、薄笑いを浮かべた口に挟んで火を付ける女。
やがて少年を包む光の粒は薄い紫からピンクに変わり、悲鳴は次第に女の子の声に変わる。裸だった体にはいつしか白のブラジャーとショーツがまとわりついていく。
「やん、やーん!」
可愛い悲鳴を上げた少年の足には黒のニーソックスが付き、その足をくの字に体を抱え込みながらいやいやをする様に体をくねらせ始める。そして真っ白なフリルショーツに包まれた少年のお尻はだんだん大きくなり、少女のヒップに姿を変えていく。
「あん…あん…」
すっかり女声に変わった少年の体内には、既に小さな卵巣と子宮が備わりはじめていた。
「じゃ、ぼうや、じゃなかった。お嬢ちゃん。お仕事頑張ってねぇ。ほほほほほ!」
変身を見届けずに黒づくめの女は足早にその場を立ち去る。その途中でふと独り言を呟いていた。
「まさか、あの装置とあの憎らしい奴が同じ星に有るなんてねぇ。あたしにもようやくつきが回ってきたみたいだねぇ」
数分後、その場にはぺたん座りで、ただ呆然と遠くを見ているかわいらしいメイド服の少女が一人残されていた。
翌日の朝、というかネティアではもう昼近い時刻。
昨日、今回の仕事の先行きが見えた事で上機嫌でスーパーキャンディーズ達とステーション近くの酒場で深夜まで飲み明かし、メイドさんが綺麗に掃除してくれたベッドで上機嫌で寝付いた和美達だが、いきなりカラカサ号に入ってきた蘭・楠羽・美樹の叫び声に二日酔いの頭を抱えつつ、和美がベッドから身を起こした。
「なんだよもう!こんな起こし方するならもう合鍵返せよ!」
狭い寝室ユニットの上段で寝ていた瞳も眠い目をこすりながら蘭を睨む。
「一体どうしたんだ?」
そんな二人に蘭の声が襲い掛かる。
「どうしたんだって、大変なのよ!相手に先越されちゃってるのよ!」
「んな、ばかな…」
そう言って寝なおそうとする和美を今度は楠羽が掛け布の上から揺らし始める。
「昨日瞳君の教えてくれた方法と全く同じやり方で、昨日相手チームがケネスの所に相談に行ったらしいのよ!まさかあたしたちを裏切ったんじゃないでしょうね?相手チームに何か情報ばらしたとか!」
すごい形相で和美に吠える楠羽を瞳が目をこすりながらなだめ始める。
「んなこと言ったって、僕達相手の名前も知らないんだぜ…」
「MMCコンサルタントって言うグループよ!」
「ふーん…」
体を起こした瞳が一瞬考えた素振りを見せたが、すぐにベッドに入りなおした。
「じゃ、相手もパターン認識とデータベースを掛け合わせる方法に気づいたって事じゃん。もうあきらめなよ。貰った金は返すからさ。もう俺眠くってさ」
そう言いつつ掛け布を引っ張り上げ寝る体制に入る瞳。
「じゃあさ!なんで相手がその説明に銀のスプーンと銀貨を引き合いに出してくるのよ!」
「なんだって!?」
和美と瞳がほぼ同時に声を上げる。
「そいつは聞き捨てらんねえなぁ…」
瞳がそう言いつつベッドの上段から飛び降り、コックピットに向かい、通信装置を点検し始める。
「まさか昨日の点検中に誤作動起こして、俺たちの会話が外に漏れたとか。でもいくらなんでもそんなはずは…。うん異常は無い。回線は閉じたままだよ」
蘭達の話によると、今朝一番でケネス邸に連絡を取った蘭は、応対した執事からとんでもない話を聞かされたらしい。
昨日夕刻、蘭達がケネスに依頼しようとした内容とそっくり同じ内容で、MMCと名乗るグループの女性二人がケネスに面会し、相談事の受け入れ条件として何かケネスを満足させる事を行うというものだった。そしてその予定日が明日の夕方という事。
蘭達も面会させてほしいと申し入れしたが、ケネスの予定が多忙と言う事と、MMC側と比較した身分の違いを理由に断られたらしい。
がっくりと肩を落とす蘭達の横で一人和美がMMCコンサルタントが一体何者なのかを端末で検索していたが、本部所在地がグラナダ星という事以外は何もわからない状態だった。
「グラナダ星?」
和美の横でそう呟いた瞳が何か考える素振りを見せる。
「なあ、和美、昨日会ったメイド達だけど、何か話が出来すぎてないか?確かあのジュースもグラナダ星の名前が有ったし」
「あのドジっぽいメイド達か」
「まさか、あいつら無理やりあの変なジュースを開けさせて、カラカサに掃除で入り込んでさ…。ジュース配ってた奴と掃除しに来た奴がまさかグルだったなんて事…」
瞳のその言葉を聞いた途端、雷にでも打たれたかの様に和美がソファーから跳ね上がり、コックピットを調べ始めた。瞳も寝室へ向かい、蘭達三人もそれぞれ艦内のあちこちを調べ始めた。
「うわ!何だこれ!?」
程なく和美が壁に掛かっていたモニターの後ろから、六角形の形をした薄いカードの様な物を手にコックピット後ろの居住区へ戻ってくる。
「これだろ」
瞳も寝室ユニットの柱の裏に付けてあった和美の持っている物と同じ物を手に戻ってくる。
「何よこれ!?」
「あー!こんな所に!」
昨日ピザとジュースを置いたテーブルの裏とか、傍らの通信メインユニットの装置の隙間とかから、蘭達も次々と同様の物を持って集まってくる。
「お、おい、もっと探せ!あのメイド女が昨日掃除した所中心に!」
「ば、ばれちゃったみたいですぅ」
余程気に入ったのか、昨日着ていたメイド服をそのまま作業着代りにして、盗聴器の親機のヘッドホンからの会話を聞いていたユイが、丁度朝食を食べていた美奈子とまほろに向かって残念そうに言う。
その横では、多分蘭達が足で一つ一つ踏み潰しているのだろうか、その度に出る大きなノイズ音にヘッドホンをかけたエリーがビクっとしていた。
「あらそ、以外に早く気がついたわね」
チーフアシスタントの雅美と相棒のまほろと一緒に、ゆっくり朝食を取っていた美奈子が携帯を手にして全く気にもとめずにコーヒーカップを口に近づけた。他の二人も全く動揺していない様子にエリーが不思議がる。
「社長!どうします?急いでたし、あいつらの目も有ったんで、凝った隠し方してないし。このままだと全部見つかっちゃいますよ」
「社長って言うのやめろっつーの!」
美奈子がそう言ってゆっくり席を立ち、エリー達の前にいくつか無造作に置いてある盗聴器の受信機がわりの無線装置の所に行った。
「もうあらかた用は済んだし。それに全部なんてみつかりっこないわよ」
そう言ってまほろがコーヒーカップを手に大きなあくびをする。
「罠をしかける時のコツ教えてあげようか?たくさん仕掛ける時はさ、同じもの仕掛けて一つだけタイプの違うのを紛れ込ませておくのよ。ねえ、そうだよねー、雅美?」
エリーとユイの横で自慢げに言う美奈子の言葉に、トーストを口にした雅美が笑いながら手でVサインを美奈子達に送った。
「美奈子、明日のケネスの接待って大丈夫なの?なんか余裕って感じだけどさ」
大あくびをしたそのポーズでまほろが美奈子に尋ねる。
「あたしの人脈を信じてないのねぇ」
「いや、そんな訳じゃないけどさ」
心配顔のまほろの声を半分聞き流し、盗聴器の横で美奈子が携帯を手にいろいろ確認している。と、
「よし!おっけー」
独り言と共に携帯を閉じ、髪を軽く整えてユイとエリーの方に向き直る美奈子。
「どう?盗聴器の様子は?」
「あ、あのう、一台だけ生きてますぅ」
「ほらね、言った通りでしょ」
美奈子が満足げにうなづく。
「あれ、何だこれ?」
ふと作業着のポケットに違和感を感じた瞳は、そこから角度によって七色に変化する綺麗なビー球を摘み上げた。
「昨日酔った帰り道で拾ったのか?覚えてないなあ。まあいいや」
そう言うと瞳は居住区の棚に置いてある小さな小物入れ用の籠にそれを放り込んだ。
「ねえ、蘭、どうしよう。完全に先越されちゃったよ」
楠羽がソファーの上でがっくりと肩を落として小声で蘭に問いかける。
「とにかく、MMCの奴らが明日どこでケネスに何をするのか、それを探ってよ!ネティア中の飲食店とかクラブとかに聞きまわってさ!瞳君と和美君も手伝ってよ!」
カラカサ号の居住区の中をふらふらと歩き回り、いらいらしながら話す蘭。
「まあ、前金貰ってるしな」
和美がぼそっと言うと重い腰を上げコックピットに座り直してネティアの繁華街の情報を調べ始めた。
「チセがいないのが痛いなあ。どこで何やってるんだろ」
瞳もそう言いつつ出かける準備をし始めた。
カラカサ・スーパーキャンディーズ連合軍の調査の結果、その場所がネティアでも一番高級なホテルの中に有る、高級クラブ「クィーン・オブ・ネティア」のVIPルームだと判ったのは翌日の午後過ぎだった。
当然一つ残ってる盗聴器からの情報で美奈子達がいろいろ口止めとかをしていたらしいが、勝ちを確信していたのか、そんなにきつい口止めではなかったらしい。
決め手になったのは、瞳が見つけたHPのケネスの公式ブログ上に載っていた日記の一部で、ケネスの好物とされる某店のチョコレート菓子だった。
多分お土産として持たせようとしたのだろうか、その店からMMCの名前で、出来たばかりのその菓子を当日一ダースもクイーン・オブ・ネティアに送る様に依頼が有ったらしい。
美奈子達のセッティングしたその催しが開かれる頃であろうと思われる夕暮れ時、そのホテルの前でたむろするカラカサ・スーパーキャンディーズの面々がいた。
蘭達は昨日から執拗にケネスにコンタクトを取ろうとして断られ続け、とうとうこの時間になってしまった様子。
「場所はわかったけど、これからどうするの?」
疲れた様子で美樹が蘭に尋ねる。
「ともかく、終わって出てきた所を暫く尾行してさ、直撃するしかないわよ」
「車か何かでケネス邸まで送られるんじゃない?」
「じゃあその車追跡するまでよ」
「そっから先は?」
「…考えてない…」
珍しく気弱な姉の言葉に、蘭と楠羽は黙ってうつむくだけだった。
その頃、美奈子が大金を払って貸切にした高級クラブ「クイーン・オブ・ネティア」では、綺麗なカクテルドレスに身を包んだ美奈子とまほろが、ケネスの到着を待っていた。
貴族の応接室風のその部屋に、ケネス低のメイド達から聞き出して料理人に作らせた料理を並べ、ケネスと話が合いそうにと、ネティア中を血眼になって探した理系大学、大学院出身の美人ホステスを六人も侍らせ、満足げな笑みを浮かべる美奈子だった。
「今日のホステス達にも、ケネスとお付き合いできるチャンスだから、終わったら一緒に帰ってもいいわよって言っといたわ」
「うーん…」
赤のドレスで勝ち誇った様に言う美奈子の横で、ちょっとうかない顔をする水色のドレスのまほろ。
「美奈子、いくら使ったの?」
「野暮な事聞かないの!」
「ざっと見積もってもさ、二,〇〇〇,〇〇〇Crは使ってるよね」
「…だから何よ」
「うーん…」
「今までこの方法で口説けなかった取引先の社長はいないでしょ?」
そう美奈子とまほろが小声で会話している時、そこの支配人が二人に寄ってくる。
「ケネス・オードリー様お着きになりました」
その言葉に美奈子がにっこりして答える。と、
「あの、お着きにはなりましたが、その、いかにも軽装でございまして。今日はMMC様の貸切で特に何も申しませんが。次回ご利用になる時は最低限の正装をお願いできないかと。他のお客様の…」
「ああ、わかったわよ」
困惑顔の支配人の言葉を遮る様に美奈子とまほろがドアの方へ向かった。
「ケネス様ようこそ。お待ち申しておりましたわ。さあ、中へどうぞ」
清潔ではあるが、ジーンズに綿シャツとスタジアムジャンパーというケネスの格好を気にも留めずに、美奈子はケネスをテーブルの中央へ案内した。きりっとした姿の六人のホステスが一斉にケネスにお辞儀をしてケネスを迎え入れる。
「なんか、すごく豪勢だね」
「いえいえ、これくらいなんともございませんのよ。ケネス様に気に入って頂ければこれほど嬉しい事はございませんわ」
こういう事は慣れているのか、ケネスの横に座った美奈子はケネスから小さなバックとスタジアムジャンパーを受け取り、横のホステスの一人に渡す。
「さあ、皆様。今日は将来のネティアを背負ってたつ若き天才物理学者ケネス・オードリー様を迎えての楽しい一時でございます。いろいろとお話させてくださいな。じゃ、あ、ケネス様はお酒はだめだったんでございますね」
「ああ、僕は何かジュースでいいよ。それと若き天才とか、そういうのはくすぐったいから止めてくれないかな」
「あらあら、本当の事でございますのに」
程なく乾杯が行われ、部屋にはピアノの生演奏が始まり、楽しい宴席が始まった、かに思えた…。
「美奈子、ちょっといい?」
宴の催しが始まって三〇分。それなりに盛り上がってきたかの様に思えた頃、まほろがそう言って美奈子に席を外す様に促した。
「ケネス様、ちょっと失礼致しますわ」
そう言って美奈子はまほろと共に部屋の角の小ルームに行く。
「ねえ、この宴席って成功してるの?」
まほろが心配気に美奈子に尋ねる。
「成功してんじゃないの?それなりに話も盛り上がってるしさ」
「だって…」
まほろがケネスのいる方角をちょっと観て再び美奈子に向き直る。
「宴席というより、まるで大学の講義みたいじゃん。ケネス一人が喋ってるしさ、それにあまり嬉しそうな表情してないよ。料理も飲み物も殆ど手を付けてないしさ」
まほろの言葉にちょっと美奈子の顔も曇る。
「そりゃ、あたしだって気づいてはいたけどさ」
「あのホステスの人達って相当プロの人でしょ。それなりに会話はしてるから助かってるけどさ、普通の人だったらお通夜だよ」
美奈子がちょっと考える素振りをしていた時、フロアチーフみたいな人が美奈子に近寄ってきた。
「美奈子様。今ケネス様から生演奏のリクエストが有ったのですが、聞いた事もない曲ばかりでして…」
美奈子がそのメモを受け取り、顔をしかめる。
「う、うちゅうせんかんやまと?水の星へ愛をこめて?青い地球?なんだろこの曲?」
「知らないわよ、こんな曲」
無言で見詰め合ってそのメモをフロアチーフに返す二人。と今度はボーイが美奈子達に近寄ってくる。
「ケネス様、あまりお料理を召し上がっておりませんが…」
その言葉にまほろはちょっと困った顔をして、すっとケネスの所に向かう。
「ケネス様、お料理どうですか?お口に合いませんでしたか?」
ホステスの一人と何やら機械工学の話をしていたケネスは、その話を遮るとまほろに向ってなんだか申し訳なさそうに喋る。
「ごめんね。どういう訳か僕の家で召使の作る料理と良く似たものばかりでさ。召使の得意料理らしいんだけど、僕はどうも苦手でさ。いっつも同じ物ばかり食べさせられてね」
うわぁという表情で美奈子の所に駆け寄っていくまほろ。
「と、とにかく、何とかしてケネスに満足して帰ってもらわないと」
やっと美奈子が危機的状況に気づき始めたらしい。
しかし、流石は美奈子が大金払って今日のこの為に来てもらったホステス。ケネスとの会話の内容はともかく、そこは話のプロだけあって表向きは何とか成功したかに見えた。夜も深まったと思える地球時間で夜の九時頃、
「あ、もうこんな時間だ。僕そろそろ帰らないと」
ケネスの言葉に一瞬口にした飲み物でむせるまほろ。
「まあ、ケネス様。お話はこれからですのに」
「いや、門限が有ってね。遅いとじいにまた小言を言われるしさ」
「あら…、今日みたいな特別な日は…」
制する美奈子の言葉を無視する様にケネスはボーイにバッグと上着をとって来る様に指示した。仕方なくその場を立つ美奈子とまほろ。
「何かあまりおかまいも出来なかった様な」
「いいんだよ。僕の特別講義はためになっただろ」
六人のホステスも困惑しているはずだが、そこは口を揃えてケネスに賞賛とお礼の言葉を言う。
「あ、あの、じゃあお車を御用意いたしますわ」
「いいよ、今日みたいな日はさ、たまにモノレールとか自分の足で帰りたいし」
「あ、あの、お土産も用意いたしておりますのよ」
「後で僕の家に送っておいてよ。それじゃ」
そう言い残してそそくさとVIPルームから出て行くケネス。
「あ、あの、ちょっとお待ちくださいませ」
慌てて後を追っていくまほろと、すっと物陰に隠れて顔に手を当てる美奈子。
「これだから…ガキは…嫌なのよ!」
「楠羽!美樹!ほら、あれ!」
ホテルの入り口近くでさっきからフロントをじっと眺めていた蘭が、意気消沈している様子の二人に声をかける。和美と瞳はついさっき半ば諦めた様子でステーションのカラカサ号に帰ったばかりだった。
「あれ、ケネスじゃないの。しかも一人?」
楠羽がそう言って蘭に近寄る。
と、ケネスの後を追う様にブルーのドレスを着た女性が追ってくる。その女性はケネスがホテルの外へ出て行くのを観ると、ため息をついて引き返していく。
「どうなったんだろ?」
「なんかケネス様、浮かない顔してるわね」
当のケネスはただ一人確かに浮かない顔をしてホテルの階段を降り、そして暗闇をモノレールの駅の方へ歩いていこうとする。
その姿を暫く見ていた蘭が独り言の様に呟く。
「あたし、なんだかあの高級クラブとやらで何が起きたのかわかる様な気がするわ」
そしてしばし考えた素振りを見せると、足早にケネスの消えていった方角へ向かう蘭。
「楠羽、美樹、ついといで」
その言葉に姉に続く二人だった。
「ケネス君!」
暗闇でいきなり自分の名前を呼ばれ、びっくりした様に立ち止まって振り返るケネスに笑顔で向かう蘭。その後ろではいきなりの姉の言動にびっくりする楠羽と美樹。
「誰だい、君達は?」
ちょっと怯えた様に蘭に向かうケネス。
「あら、執事さんから聞いてない?もう一組の事」
「ああ、あなた達がそうですか。もう嫌ですよ、お仕事の話でしょ?」
不機嫌そうに答えるケネスだが、蘭は笑顔を崩さなかった。
「あら、誰がお仕事の話するなんて言った?」
蘭のその言葉に、その後ろで驚いた様に顔を見合わせる楠羽と美樹。
「え、違うんですか?」
蘭はちょっと踊る様にケネスの前に回りこむと、笑顔を絶やさずに話を続ける。
「最初はそのつもりだったんだけどさぁ、あんたの暗い顔見てるとさ、そんなのどうでも良くなっちゃって、ちょっと励ましてあげようと思ってさ」
「ちょっと、お姉ちゃん!」
天才物理学者を前にして、あんただのと言って長年の友達みたいに話し始める姉に、思わず楠羽が駆け寄って制する楠羽。
「あ、この子楠羽っていうの。後ろの子が美樹。二人ともあたしの妹だよ。三人でいろいろ商売やってんだ。最近あんまり儲からなくてね。あははっ」
ちょっとびっくりして声も出ないケネスに蘭が続けた。
「何暗い顔してんのよ。何か嫌な事でも有ったの?何か美味しい物でも食べに行かない?おごってあげるからさ」
「いや、僕、門限が有るので」
蘭の言葉にちょっとためらう様に答えるケネス。
「あら、門限てさ、誰の為にあるの?執事さんの為?あなたの為?」
「いや、それは…」
「あなたの為でしょ?夜悪い人に連れて行かれたり、事故に会わない様にさ。大丈夫よ、食べたらあたし達がちゃんと送っていってあげるからさ」
今度は顔をそらさずじっと蘭を見つめるケネスだった。
「こら、人の好意はちゃんと受けるもんだぞ!ほらすぐ近くにいいとこ有るから」
そう言うと、いきなりケネスの手を握り先へ急ぐ蘭。
「ちょっと、あの、君失礼じゃないですか!」
「おごったげるって言うのに、断る方が失礼ってもんだぞ。ほら!」
不思議と抵抗せず、蘭に手を引かれるままに先へ行くケネス。その後をまだ不安そうな顔をして楠羽と美樹が追った。
蘭がケネスを連れていった所は、さっき彼が行った所とは一八〇度違う、場末の居酒屋みたいな所だった。
ステーションで働く人やビジネスマンの人とか、艦乗り、その他大勢の人々で賑わううっすらと煙の立ち込めたその店の奥の席に通され、蘭と楠羽の間の席に座らされたケネスは、何か落ち着かない様子で店の中を見渡している。
「あの、僕こういう所は…」
「わかってるわよ、初めて来たんでしょ」
「いや、こういう所の食べ物は体に悪いって…」
「誰がそんな事言ったのよ。あんた物理学者でしょ?自分で実験してみれば?その仮説が正しいか間違ってるか」
「あ、そう、そうですね」
手短にいくつか料理と飲み物を頼む蘭の横で、まだそわそわしているケネスに、蘭が飲み物を彼に尋ねる。
「何か飲む?」
「あ、僕未成年なんで」
「何か好きな果物有る?」
「あ、あの、バナナ」
ぷっと吹き出した蘭が店員に注文する。
「ネティア地ビール三つと、彼にバニラサワーお願い」
「ちょっと!お姉ちゃん!酒はまずいって」
ケネスの横で楠羽が流石に怒った顔をする。
「いいんだって!いずれあたしたちが会えない様な偉い人とお酒飲む時が有るんでしょ。今のうちに覚えとくのもいいわよ。ねえ、親父さーん!そうだよねー!」
少し離れた所で焼き鳥らしきものを焼いていた店のマスターがその声ににっこりする。その受け答えの何が面白かったのか、ケネスの顔にやっと笑顔が浮かんだ。
「ほら、やっと笑ってくれたわよ。本当に世話のやける子ね」
そう言う蘭の手元に何やら煮込みらしきものが運ばれてくる。
「ほら、これ食べてみな、美味しいから。最もあんたが普段食べてるお上品な食べ物じゃないけどね」
「これは、何ですか?」
「これ?牛の内臓と野菜を長い事煮込んだものよ」
「え、内臓なのこれ!」
びっくりして顔を背けるケネスの頭を調子に乗った蘭が軽くこずく。
「いいから、食ってみろって!あんたの普段食べてる肉よりこっちの方が体にいいんだから」
「しかし、内臓ですよ」
「うるさい!お姉さんの言う事聞けないの!?」
まだ酔ってもいないのに、蘭の口が悪くなる。おっかなびっくりで一口それを食べたケネスの表情が変わった。
「これ、美味しいです!」
彼のその言葉にようやく楠羽と美樹の顔にも安堵の笑顔が戻った。
「はいよ、地ビールとバニラハイおまちーぃ」
店員から差し出されたバニラハイを受け取り、すかさずそれをケネスに手渡す蘭。
「ほら、そこでそれをぐーっと飲む!」
言われるままにそれをぐっと飲むケネス。と口当たりが良かったのかそれを一気に飲み干してしまう。
「あ、こら、誰が全部飲めって言った!」
と、それを飲み干したケネスが、蘭に向かって申し訳なさそうに言う。
「これもすごく美味しいです。もう一つ頼んでいい?」
その様子に初めて蘭・楠羽・美樹の三人が声を出して笑った。
「いいよいいよ、親父さーん、バニラハイもう一つ!」
ケネスの顔には今まで誰も見た事が無い表情が浮かんでいた。
「僕は、まだ一六歳なんだよぉ。それに巷で言われてるアニメとか特撮って言うもの毎日見て過ごしたいのに、なんで難しい物理学とか数学とか、やらされなきゃなんないんですかぁ」
初めて飲んだアルコールに触発され、さっきから何度も同じ事を言いつつ、だんだん顔が赤くなり、口調も酔った人そのものになっていくケネスを、三人は少し可愛そうになって彼の言葉に答える様にうなづいている。
「大人たちだってさぁ、僕を利用してばっかりだしさぁ、僕の講義を聞いても、質問なんてあんまり出ないんですよぉ、本当に理解しているのかどうか全然わかんないしさぁ」
そんなケネスを一人じっと美樹が見つめていた。
そのルックスの良さとそのすごい功績を持っている、自分が一目ぼれしたその人が、実はこんな寂しい可哀想なだったなんて。
テーブルの上にうつ伏して喋っている彼と同じ姿でじっとその話を聞いていた。
「MMCとかいうさっきの女の人だって、僕の事なんてまるで考えてくれない。こうすれば僕が満足するだろうって、自分達の考えでね。むしろ僕の方が気を使ってあの場をどうすればみんなに迷惑かからないかってさ」
そう言って、机の上に再びうつ伏すケネスに、美樹がふと声をかけた。
「ケネス様、アニメとか特撮とか好きなんでしょ」
「大好きだよ、毎日観ていたいさ」
「あたしも大好きなんだよ」
「え、本当なの!?」
「うん」
美樹のその言葉に、いい加減ケネスにちょっとうんざりしてきた蘭と楠羽が美樹に耳打ちする。
「美樹、暫く彼任せるわ」
軽くうなづくと、顔を上げたケネスににっこりとして話しかける美樹。
「でさ、ケネス様、今どんなの観てるの?」
少し元気と機嫌を取り戻したケネスが美樹といろいろオタ話をしてだんだん盛り上がってきているのを横目で安心した様に眺めつつ、蘭と相対する場所に席を移した楠羽が仕事の話を始めた。
「ねえ、お姉ちゃん、どうする?なんかこの子に仕事頼むの可哀想になってきたわ」
蘭もビールのジョッキを口にしながらその言葉にうなずく。
「別の方法にする?この調子だと多分相手(MMCの美奈子達)も絶対失敗してるしさ。最初に瞳君の言ってた原始的な方法にする?」
「そうねぇ…」
そう言って蘭が再びビールに口を付けた時、入り口から数人のサラリーマン風の男達が何か荒々しく喋りながら入って来た。
「お前どうだった?」
「俺も落ちたよ。全くあんな難しい問題出しやがって」
「こっちは金払ってるんだからさ、試験なんて無条件で合格させろってんだよ」
蘭達は気づかなかったが、彼らの言葉にケネスが反応していたらしい。
「あの若造助教授まだ一六歳だってよ」
「まだガキの癖に生意気な奴!試験なんて形式的なもんなんだから、これでまた俺上から怒られるんだぜ!」
「お前試験勉強してたっけ?」
「関係ねーよ!試験料だって安くないんだし、金払ったらさっさと合格証書出せって」
と、その言葉にケネスがいきなり美樹の飲んでいたビールジョッキを手に取り、その男たちの方へ向かっていった。
「蘭!やばい!」
「ちょっと!あんた!」
蘭達が止めようとする前に、既にケネスはその男達の前にどっかと座り、手にしたビールに口を付けていた。
「こんばんは!ブライアンさん。試験はどうでしたか?」
ケネスの前に座ったブライアンと呼ばれる男は、最初面食らった様な顔をしていたが、目の前に座られたその少年の顔を眺めて大声を出す。
「ケネス助教授!」
「そう、僕がケネスだ。試験にご不満が有る様ですね。どうですか、量子力学の基礎だったんですが、あなたの回答について今ここで議論してもいいですよ。ただ、基礎の公式を全く理解されていない様子ですので、僕の講義から始めましょうか?」
そう言い放つとケネスは持っていたビールジョッキの中身を飲み干し、乱暴に机の上に置いた。
「なんであなたがこんな所にいるんですか?」
「僕がどこにいようと関係ない。僕が知りたいのはあなたの解答に対するあなたなりの…」
「うるせぇ!」
その男は乱暴にケネスを突き飛ばす。床に倒れた彼をすかさず解放する楠羽と美樹、と
「あんた何すんだよ、子供に向かってさ!」
席から飛び出し、ケネスとその男の間に仁王立ちになる蘭。
「なんだお前!ガキと女が俺に意見しようってのか!」
そう言いながら向かってくる男に負けじと無言で詰め寄る蘭。
「お客さん!何やってんだ、公安呼ぶよ!」
店のマスターのその声に男は声のする方向を睨み返した後、ケネスの顔に乱暴に唾を吐きかけ、一緒に入って来た男達と逃げる様に店を出て行った。
「うわあ、あたし知らないっと」
美樹と一緒にケネスを介抱していた楠羽がぼそっと言う。
「僕、もう嫌だ…」
眼鏡を掛けなおしてはき捨てる様に言うケネスの服についた泥を美樹が一人払っていた。
「ケネス坊ちゃまは昨日の事で、王立院を一週間出入り禁止となりました!金輪際面会はお断り申し上げます!」
携帯電話できっぱりそう言われ、肩を落としてその電源を切る蘭。
昨日あの後ケネスを屋敷まで送り届けた際、先方の執事から怒鳴られ、今朝侘びの連絡を入れたが、自宅謹慎処分まで食らった様子で、応対した執事にきっぱり断られてしまった蘭達だった。
「酒は、まずかったな…」
今後の事を話す為にカラカサ号の居住区に集まってからの事だったが、電話を切られた後、和美がぼそっと蘭に言った。
「ちょっと、やりすぎたかもね」
「蘭もなんだかんだ言いながら、ケネスの事を子供だと思ってなかったんじゃないか」
「そんな事ないもん!仕事抜きで慰めてあげようとしたのは本当の事だよ。だって、女だったら落ち込んでる子供みたら誰だってさ」
瞳の言葉に反論する蘭。
「最も女なのに、そういった子供の心を理解しない奴もいるらしいけどさ」
昨日のケネスの言葉を蘭から聞いた和美が、暗にMMCの美奈子達の事を言ったのだろうか。無論、和美達はMMCの美奈子達がどういう人間なのか、そしてましてや美奈子とまほろが実は男性である事なぞ知る由も無かった。
「あたし、ケネス様の所に行ってくる!」
さっきからカラカサの居住区の隅でグズグスしていた美樹がいきなり立ち上がって、涙目を手で拭いてドアの方へ走っていく。
「美樹、もう無駄よ、行っても」
「だって、このままじゃケネス様が可哀想なんだもん!」
止める楠羽の声も無視して美樹がカラカサ号から出て行った。
「美奈子さん、あいつらあんな事言ってますよ!」
たった一つ残された盗聴器からの会話を聞きながら、雅美が美奈子に報告する。
「そう…」
昨日の接待失敗のせいか、暗い顔をしている美奈子がうつむいたまま答える。
「まあ、どうやらあっちも失敗したって訳ね…」
その横でまほろも呟く。
「んで、あいつら懲りもせずにまたケネスんとこに…」
「ほっときなさい。どうせ無駄でしょうよ…」
そう言いながら美奈子は重そうに腰を上げ、雅美に言う。
「雅美ちゃん。この前言ってたあなた案、もう一回検討するわ。資料持ってきて」
予め調べておいた住所を頼りにケネスの住む屋敷にたどり着き、門がしっかり閉まっているのを見ると、美樹は裏手に回り、どこか侵入できそうな所は無いか探し始めた。
程なく屋敷の塀をまたぐ形で垂れ下がった木を見つけ、近くに有ったプラスチックの箱を重そうに引きずって足場にし、垂れ下がった枝を上り始める。
まあ、こういった屋敷には当然防犯装置がついているので、揺れ動く木がセンサーを刺激し、当然のごとく屋敷内にけたたましい音が鳴る。
「何ばしょっとぉぉぉ!」
飛び出して来た用心棒も兼ねたあの巨漢メイドにたちまち木から引き摺り下ろされ捕まってしまう美樹だった。
「この屋敷に侵入するとはいい根性してるわね!」
意地悪そうに巨漢メイドが笑うと、手に持った大きなずだ袋を広げる。
「ちょっとやめて!」
じたばたする美樹の体と悲鳴は、その袋の中に消えていった。
「今の警報は何だ!?」
自慢げに大きなずだ袋を担いで部屋に入って来たメイドにケネスが尋ねる。
「はい、おぼっちゃま。大きなドブネズミが屋敷に潜入しまして」
「ドブネズミ」
「はい、これでございます」
そう言うと巨漢メイドは、美樹の入っている大きな袋を乱暴に床に投げる様に置く。
「痛っ!」
袋から聞こえたその声にちょっと首をかしげるケネス。
「じいはどうした?」
「はい、昨日の夜の件で王立学習院に釈明に行かれておいででございます。おばっちゃま!もう少し言動を考えてくださいませ!」
巨漢メイドの言葉に答えず、ケネスはそのすだぶくろに駆け寄ると、中から一人の女性を助け出した。紛れも無い、昨日の夜ケネスに少しの時間ではあるが、楽しいひと時を提供してくれた美樹であった
「ケネス様、怖かったです」
そう言うとケネスの胸に抱きついて泣きべそをかき始める美樹。
「どうしてここへ来たんだ」
ケネスの言葉に美樹は手で涙を拭きつつ答える。
「昨日の事ケネス様に謝りたくて!お姉ちゃん達のせいで、ケネス様にすごい迷惑をかけてしまって。面会謝絶って聞いたんだけど、会って誤りたくて、本当ごめんなさい!」
ケネスの胸を離れた美樹はそう言いながら床に座って土下座をする始末。
「気にするほどの事じゃないよ。自宅謹慎の決定をしたのは学習院の中の戒律院のトップの奴だ。普段から僕の事を煙たく思っている奴だよ」
まだ土下座をする美樹の方に手を当てて引き起こしながらケネスが続ける。
「僕は何も悪い事をしちゃいないし、言ってもいない。酒を飲んだだけだ。もう気にするな」
泣きながらうなづく美樹を胸にしっかり抱いた時、ケネスの心には今までに何かを感じた様子。そしてきりっとした顔を巨漢メイドに向けた。
「君は、人間とドブネズミの違いもわからない様だ」
「は?」
今までに無いケネスの表情に巨漢メイドの目が丸くなる。
「それとも、君は目が悪くなったのかい」
「いえ、私は目は良い方ですが」
「じゃあ、女性とドブネズミをどうして見間違えたのか、はっきり聞かせてもらおうか」
「いや、それは、嫌ですよぉ、たとえですよ。どうしたんですかお坊ちゃま!」
「黙れ!」
笑ってごまかそうとしたその巨漢メイドをケネスが一括。何事かと駆けつけた他のメイドの前でケネスが続ける。
「この人は昨日の夜大変お世話になった人だ。そんな人がここへ来た理由も何も聞かず、ゴミの様に袋に詰めて投げ出すとはどういう事なんだね!」
今までにないケネスの姿に一瞬巨漢メイドが困惑した表情を見せたが、再び笑ってごまかそうとする。
「もう、嫌ですわ。いつものケネス坊ちゃまと違いますわよ」
その声を聞かずにケネスは傍らのメイドを呼びつける。
「人間としての最低限の礼儀もわきまえず、注意されても笑ってごまかす様な奴は罰が必要だ。三ヶ月間の自宅謹慎をこいつに命ずる。お前たちはすぐにこいつの私室にいって部屋から外へこいつの荷物を放り出せ!」
その言葉に他のメイド達はケネスに慌ててお辞儀をすると部屋から出て行った。
「お待ちください、おぼっちゃま、いや、ケネス様!どうかお許しを!」
「目障りだよ!早く出て行ってくれ!」
悲鳴をあげながら部屋から出て行く巨漢メイドを目で追いつつ、ケネスは優しい顔を美樹に向けた。
「ははは、という事で僕も一週間自宅待機になってしまったよ。はははは!」
ちょっと作り笑いとも思える彼の笑い声を聞きながら、美樹はある事を思いついた。泣き顔は一転して笑顔に戻る。
「ケネス様、地球のコミケ・コンベンションて行った事有りますか?」
美樹のその言葉にケネスはちょっと寂しそうに言う。
「有る事は知ってるが、行った事はないよ。地球に知り合いもいないしね」
美樹の声が少し大きくなった。
「明後日からなんですよ!コミケコンベンション!」
「だから、何だい」
「一緒に行きましょうよ!あたし、お姉ちゃん達の罪の償いの為に、ケネス様を案内しちゃいます!」
ここは蘭達のクリスタルシュガー号の入っているドック。昼過ぎに何か船倉部分でがちゃがちゃと音がするのに蘭と楠羽が気づく。
「美樹?帰ってきたの?」
応答は無く、物音はだんだん大きくなる。と、突然クリスタルシュガー号の共通操縦席から、艦体分離の警告音が鳴り出す。慌てて蘭が確認すると、それは美樹の担当する三号機の分離警告音だった。
慌てて蘭と楠羽が三号機専用のコックピットへ急ぐ。
「美樹!ちょっと何やってんのよ!」
「お姉ちゃん、コミケ行ってくるね」
「ちょっと、こんな忙しい時に、まだ休みあげるってきまったわけじゃ…」
と、蘭と楠羽の目には、美樹の横に座っているケネスの姿が見えた。
「どういう事なの、これ!?」
蘭の言葉が聞こえたのかどうか知らないが、ケネスがこちらに向かってちょっと敬礼の仕草をする。
「蘭さん、楠羽さん。昨日はありがとうございました。それで、あの、ちょっと美樹ちゃんとデートしてきます」
「美樹!一体どういう事なのよ!教えてちょうだい!」
その時、女性の声で三号機切り離しのカウントダウンが始まり、美樹が操縦席でいろいろ操作すると、水素エンジンの音が蘭の耳につき始めた。
「お姉ちゃん!早くどかないとはさまれちゃうよ!」
やがて切り離した三号機がゆっくりとドックの中を移動し、切り離してぽっかり空いた一号機の壁には左右から壁が延び、隙間なく埋め尽くす。
切り離した三号機は、一号機との接続部分が埋まり、上に有った尾翼が接続部分に降り、ようやく小型商艦らしい形になった。
「美樹ちゃんてすごいんだね。こんな艦一人で操縦できるんだ」
ケネスがちょっと羨ましそうな顔を横の美樹に向ける。ドック内通路を移動したクリスタルシュガー③がカタパルトに移動すると、奥の重厚な壁が三枚次々と重なり、空気の抜ける音がする。
「クリスタルシュガー③、発信許可願います」
「こちら管制室。発信を許可します」
一瞬だけモーターの音がした後、あたりは無音の世界となる。右手で横のワープ用の自動操縦のプログラミング用テンキーボタンを操作した後、美樹はメインスロットルを引く。
「ひやー、すごい!美樹ちゃんてすごいんだ!」
普通の小型商艦の操縦が、横で見ているケネスにはすごく格好良く見えるらしい。
「えへへ、単機操縦なんて本当は半年ぶりなんだけどね」
そしてクリスタルシュガー三は地球へ向け、宇宙空間の暗闇へ滑り出して行った。
コミケ・コンベンションとは、大昔から続くコミックマーケットを母体としたイベントで、通常の同人誌即売会の他、ガレージキット、ホビー用品メーカーの展示即売会に、様々な討論会、映画試写会等を複合した地球の日本のTOKYO-CITYで年に一回、一週間にわたって開催される巨大イベントで、地球以外の星からも大勢の参加者が集まってくる、おたく・腐女子にとっての星域最大のお祭りだった。
会場に着いたケネスは、まず同人誌系で学術評論・メカ・歴史系の本を買いあさり、美樹の用意したキャリーでは到底追いつかず、大型のカートを調達して詰め込む有様だった。
美樹もまけじとこの日の為に貯金したお金を全額引き出し、ケネスの調達したそのカートに次々と詰め込む始末。カートは一日で一杯となり、一旦地球のゼノンの商艦格納庫に納め、翌日再び空のカートを引っ張ってコミケコンベンションに行くといった事を繰り返す。
三日目になると、古典映画のハリーポッターシリーズに出てくる男の子が会場をうろついているという事で、美樹の知り合いの腐女子仲間以外にもちょっとした有名人になってしまった。
「ケネス様。コンベンション会場行ってみる?」
「ああ、ちょっとした討論会とかやるんだろ?」
「行ってみようよ!」
ケネスの手を引いて急ぎ足で会場へ向かう美樹だった。
「(二本足走行軍事兵器は開発可能か)だつてさ。これ面白そうだね」
「うん、なんだかケネス様の好きそうな話題ね」
そういう美樹はもきやすっかりケネスの恋人気取りでケネスの腕に手をからめ、会場に入り、一番奥の椅子に座った。
数人の軍事兵器研究家とか、エネルギー学、そして作家や漫画家が段上でいろいろ討論を繰り返すそのイベントだが、始まって一五分もするうちにケネスはあくびを始める。
「つまんないの?」
そんなケネスが気になって、彼の着ている服を引っ張る美樹。
「いや、その、僕の知が知ってたり以前に研究した事ばかりなんだ」
小声で答えるケネス。その後も壇上の上のパネラーの話に、そうじゃない、こうだ、ああだと小声で独り言を言うケネス。
とうとうその行動がパネラーの目に留まってしまった。
「そこの君、さっきから私達の話にいろいろ反論しているみたいだけど、何か意見有るの」
一人の偉そうな評論家みたいな人がケネスを指さして意地悪そうに問いかける。会場を埋め尽くした大勢の人の目線が一同にケネスに集まった。
「ちょっと、ケネス様」
不安がる美樹に
「大丈夫だよ、僕の理論じゃそれはありえない」
その声を聞いたのか、別の学者風のパネラーもケネスの方を見る。
「そこの、昔のハリーポッター似の君。何か反論が有るならこっちへ来て話に加わらないか。一般参加者の方の意見も大事だからね。それが正しいか間違ってるかは別としてさ」
そのパネラーも口ではそう言いつつも、口元は笑っていた。とうとう部屋のスタッフによって壇上に押し出されてしまうケネス。そして司会者が意地悪そうにケネスにマイクを向ける。
「ようこそ、ロボット兵器工学の部屋へ。すごくお若いですね。学生さんですか?お名前をお伺いしましょう」
「あ、僕はケネスといいます。隣のケンタウルスアルファのネティア星から来ました」
その時、会場から二人程の驚いた声が聞こえたが、司会者には聞こえない様子だった。
「では本論に移りまして、先ほどの二本足走行兵器のエネルギー伝達において…」
その時は、会場の誰もがケネスがパネラーによってこてんぱんに論破されると思っていた。
「…おっと、軍事兵器評論家の○○先生、ここで脱落宣言ですか」
「申し訳ない!僕にはそこまでは判断できないよ。ましてや今の時代じゃ」
司会者の言葉に、真っ先に意地悪そうな顔でケネスに反論を求めた評論家が頭に手を当てながら苦し紛れの言い訳をする。
「いや、簡単な事ですよ。結論から言えば可能です。つまりこの時点で発生するエネルギーをX二とし、必要なエネルギーをY一として…」
用意されたホワイトボードのすらすらと公式みたいなものを書いて説明するケネス。その度に会場からは拍手とどよめきが上がる。
かろうじて作家も兼ねる現役の大学教授だけがケネスの話に追いつけるらしく、ケネス理論をわかりやすく会場の人々に説明していた。
「結論として、あと二年後にはこれらの技術的問題は解決します。後はメーカーがそんなくだらない兵器を作る気が有るかどうかの話ですが。完成してもあきらかに戦車より効率悪いし」
会場から笑い声の後、ケネスに送られる賞賛の拍手。司会者の作家の先生も困りながらも笑っていた。
「壇上のパネラーの皆さん。どうしたんですか?大学教授以外何の役にも立ってないじゃないですか」
「いやあ、ここまで綺麗に論破・解説されると、すがすがしいよ」
ケネスに壇上に上がる様に求めた学者風の人もケネス賞賛の拍手を送った。
美樹もそんなケネスに心の中で拍手を送る。最も口では
「お疲れさま」
の言葉しかかけなかったが。
それ以降ケネスは一躍会場の有名人に早変わり。すれ違う人々がケネスに握手を求めたり、別の討論に誘われたり、いろいろな物や自書を手渡されたり。
その日の夜は地球にいる美樹の腐女子友達にカラオケに誘われ、思いっきりアニメ・特撮ソングを歌い倒したり。
その時のケネスは美樹の目からは大学助教授ではなく、どう見ても興奮してはしゃぎまくる普通のアニメ・特撮ファンのティーンエイジにしか見えなかった。
だけど、皆の前ではまるでヒーローの様なケネス。そして美樹にとって年下のケネスに友達以上の何かを感じ始めたのも事実だった。
買って、話して、討論して、そして歌って、疲れて寝て。
瞬く間にケネスにとって生まれて初めての楽しいそのイベントのは最終日を迎えた。その日の討論会の一つにケネスは一〇人のパネラーに混じって特別参加者として呼ばれる事となっている。それは地球上でのアニメの歴史を元にした総合的な話題だった。
「ケネス様、明日大丈夫ですか。物理とか数学とか化学とか、そういうケネス様の得意分野じゃないし」
「大丈夫だよ美樹ちゃん。そういう歴史とか文学にも実は僕強いんだよ」
もはやホテルでは、一線は超えないが一緒のベッドで寝る様になったケネスと美樹。
「明日で終わりなんだ。すっごく楽しかったなあ」
ベッドの横で寝ている、まだあどけない子供の様なケネスの寝顔を見ながら
(おやすみなさい、ケネス様。明日も楽しもうね)
そう心の中で呟いた美樹も疲れのせいか、すぐに静かな寝息を立て始めた。
最終日のその討論会の準備をその日の朝のわずかの時間に行うケネス。
インターネット経由で自分のデータバンクからいろいろ資料を引っ張り出すケネス。それを判りやすく纏めたり、インデックスを付けたりして手伝う美樹だった。そしていよいよ討論会開始。
「さて今日の特別ゲストは、今回の一般参加者の中から彗星のごとく現れ、多くのゲストの方々のお話をある時は不動の理論にし、またある時はことごとく覆してゴミ箱に捨てさせる、今回ご参加頂いたゲストの方からは神とも悪魔とも呼ばれている、若干一六歳のケネス・オードリー氏です。
というか、ケネスさん、あなたお隣のケンタウルスアルファのネティアでは、その年で王立学習院助教授という身分であって、既に神童として有名なんですってね」
司会のおどけた紹介にも、会場の人々に手を振って答える程の余裕を見せ始めたケネスだった。
特に問題なく開始されたその討論会。歴史上の大作家を次々と紹介し、その人々に対してゲストパネラーと特別ゲストのケネス君がいろいろ言及するというものだったが、ある事でケネス一人が他の一〇人の小説家や評論家、漫画家達パネラー陣との意見が違うという珍事が起きる。
犬猿の仲とされる作家同士が本当に犬猿の仲だったのか、実は芝居だったのか。芝居だったとするケネスの説に、やはり犬猿の仲は間違いないとする他のパネラー達。
ケネスの主張に会場内も白熱。既に五人のパネラーが敗北宣言を出したが、流石のケネスも手持ちの知識と資料に穴が目立ち始めた。流石に一人で一〇人相手は苦しかったか。
そしてケネス君とうとう苦境に入る。
「ケネスさん。どうですか、ここまで証拠と証言が出ました。反論できる資料とか証拠は有りますか?」
司会者のその言葉にさっきまで白熱していた会場はしんと静まり返り、誰もがケネスの次の言葉を待っていた。
壇の一番手前の椅子に座った美樹も、両手を胸元でぎゅっと握り合わせ、最後までケネスに反論が有る事を祈った。
やがてケネスは天井を見上げも仕草をした後、マイクに向かってゆっくり喋った。
「反論は、ありません。参りました」
その言葉に会場の一部からは歓声が上がり、ゲストパネラーの一人は壇上で大げさに疲れたという表情で床にころがり、その他のゲストパネラーは次々にケネスに握手を求めて駆け寄った。
「いやあ、私も一〇年このコンベンションの司会をやってますが、今回ほど白熱した議論は初めてです。ケネスさん!来年は是非メインゲストパネラーとして絶対お呼びしますので、是非参加してください」
その言葉に握手を終えたケネスが自分の机の上のマイクを手にする。
「今回、美樹さんという友達に誘われて参加しましたが、生まれてから今までにこのイベントでの色々な出来事程楽しくて面白かった事はありません。
何百人という友達が出来ました。欲しかった映像資料や本もたくさん手に入りました。そして一番嬉しいのは、多くの人々と好きな事でいろいろ議論出来た事です。
議論すれば必ずどちらかが勝ち、どちらかが負けますが、議論の勝ち負けは結果の産物にすぎません。重要なのはその過程なんです。
こういう場を提供して下さった皆様に本当心から感謝します。ありがとうございました。最後に、僕にとどめを指してくれたあなた。次は覚悟してくださいね」
そう言うと、ケネスはまだ床の上で寝転がっているゲストパネラーに話を振った。
「俺、この二時間で少なくとも二年分頭を鍛えた気がします。いいです。首洗って待ってますから」
会場から一斉の笑い声と拍手が聞こえた。
「それじゃあ、会場のみなさん。ニューヒーローのケネス・オードリー氏と、そこの寝転がっている物体にもう一度拍手を!」
楽しげな司会者のその言葉に、会場からは割れんばかりの拍手が起こった。
「これでいいんだよね」
美樹もそう呟くと小さな手で、美樹にとっては今や彼氏になってしまったケネスに拍手を送った。こうして今年もコミケ・コンベンションは大盛況のうちに閉幕する。
このイベントは、多くの人々にとっては毎年恒例の事だが、ごく一部の人にとっては忘れられないイベントになった。
「長い間お疲れ様でした」
今日で最後になるホテルの自分たちの部屋で、美樹がそう言って。ケネスの着ていたスタジアムジャンパーを脱がせて片手に持った。
「いやあ、本当、この僕が議論に負けたなんて初めての事だよ」
何故か楽しそうに言うケネスの横に不安顔で近づく美樹。
「負けた事、怒ってる?」
「え?」
美樹の表情に、ちょっと顔を曇らせた表情でケネスは答える。
「美樹ちゃん、僕の話聞いてなかったのかい。大切なのは勝ち負けじゃなくて、議論する事だという事が…」
と、喋るケネスの唇に美樹がそっと口を当てた。びっくりした表情をしたケネスだが、暫くすると穏やかな顔を美樹に向けた。
「美樹ちゃん。君に言っておきたい事がある」
「え、何?」
ひょっとして怒らせたかもと、自分の軽いキスを美樹が後悔し始める。ケネスは自分の額を年上の美樹の額に押し当て、ゆっくり喋り始めた。
「一つ。美樹ちゃんのお姉さん達の言ってたお仕事の事。喜んで引き受けさせてもらうよ」
「えーーー!」
驚いた表情で声を上げる美樹。
「だって、あたし何もそんなつもりでケネス様を誘ったんじゃないもん」
「わかってるよ。でもこれだけ面白い体験をさせて貰ったんだ。何かお礼をしないと僕の気がすまない」
ケネスを見つめる美樹の顔が笑顔ではちきれんばかりになった。
「そして、もう一つ」
「え、何?」
軽く返事した美樹の頬にケネスが軽く両手を当てる。
「好きになった女の子に対して、何をしたらいいか、僕はわからないんだけど」
そう言って、ケネスは美樹の唇に自分の唇を当てた。一瞬びっくりした美樹の顔はたちまち、とろんとした表情に変わる。
美樹の手からはケネスのスタジアムジャンパーが滑り落ち、そしてその手は彼の背中をしっかりと抱きしめに入った。