「皆様大変長らくのご乗船ありがとうございました。当カラカサ号はまもなく時間通り冥王星軌道ステーションに到着いたしまーす。軌道ステーションから地上ステーションまでは三〇分で到着のシャトルが出ています。又、ケンタウルスα方面へ行かれる方、次のマザース号は満員ですが、二時間後の貨客船ツバル号に若干空きがございまーす…」
つい先ほどまで和美の横でコンピュータで何やら検索し、プリントアウトを持って客室に入っていったミルキー・メルティの声をコックピット内のスピーカーで聞きながら、和美は小さなため息をついた。
航行中、メルティの歌や小話、そして乗客の笑い声をが幾度と無く聞こえてきた。
瞳ともう長くこの商売をやっているが、こんなアットホームな雰囲気は今まで無い。
「和美、そろそろ着くぜ。…なんだよ、うかない顔して。なあ、お前今更になってメルティ降ろすの嫌になったんじゃねーの?」
「ばか、違うよ…」
ちょっと意地悪そうな瞳の言葉を軽くあしらいながら、冥王星ステーション管制官と着艦の交信を始めた。
「そういえばさ、冥王星が惑星から外されてもう長いよなあ。仲良し九人姉妹の末っ子がある日突然男だったってわかったみたいなもんだよなあ…」
両手を後頭部に当て、複雑な形をした冥王星ステーションを横に見ながら、隣の瞳が独り言の様に呟く。
「冥王星という名前はステーションだけに残ったっていうわけか…」
「どうしたんだよ、なんか瞳らしくない感傷的な言葉じゃねーか。まさか、あのせいか?」
「うるせーな、あの事はもう忘れようとしてんだよ!」
地球ステーション「ゼノン」であの奇妙な積み荷の誤操作で怪しい放射線みたいなものを微量だが長時間浴びた瞳の行動は、今回の航海中、不思議とおとなしめの感じだった事を和美は思い出す。
普段の貨物ドックとは違う小奇麗な旅客ホームに、コックピットを外向きに後ろ向きにステーションへ無事。手続きを終え、乗客全員を無事ドックに降ろしたのを確認すると、横のソファーに席を移し、大きな背伸びをする和美と瞳。とドアの開く音がして、ミルキーメルティが入ってきた。
「和美さん、瞳さん。本当お世話になりました。後でキャンディーズの方々が来られるので、これからの事をお話しようと思います」
そういってぺこっとお辞儀をする彼女の長い髪から、女性の甘い香りがかすかに漂った。
「ああ、名残惜しいけど、元気でな」
「元気でな。銀猿の連中には気をつけなよ」
そういって、追い返す様な素振りをする二人に、元男だった彼女はもう一度深くお辞儀をした後、指で軽く目をふい拭ってドアに向かった。
「今度冥王星ステーションに来た時、必ず立ち寄ってくださいね!必ず!」
メルティが消えたドアを見つめながら、瞳がふと呟く
「なあ、あの娘なら暫くこの艦にいてもらっても良かったんじゃねえか?」
「だめだよ、お前の治療に今後長い危険な航海に出るんだろ?」
「そうだけどさ…」
「瞳こそどうなんだよ?体なんともねえのか!?」
「いや、いまのところは…」
短いやりとりの後、ポケットから煙草を取り出し、換気装置のスイッチをはじく和美。とその時、空になったステーションの乗客ドックの扉の開閉許可のランプと音が鳴る。
「ああもう、メルティの奴、忘れ物か?」
口にはさもうとした煙草をテーブルの上に乱暴に投げ、ソファーから何かちょっと浮き足だった様子でコックピットから飛び出し、カラカサの乗務ハッチからドックに飛び出る和美。
(まさか、また戻りたいと言い出すんじゃないかな)
そう思いつつもドックの開閉スイッチを乱暴に押す和美。
「だあああ!こら!メルティ!しつこいぞ!連れて行かないって…あ?」
ハッチの前に何やら箱を持っていて立っていたのは、なんとローラーブレードを履いたメイド服の美少女。
「こんにちわあ!基地宅配ケーキショップSAYAでーす。ご用命ありませんかあ?」
まだあどけない少女のにっこりする表情に、和美は何故か一歩あとずさり。
「お、お前…誰だよ…」
「あ、もしかしてここはお久ですの?今や私のケーキは冥王星軌道ステーションの名物なんでございまあす」
「し、知るかそんなこと…」
「それでは、そういうお客様向けにサンプルをお配りしていますので、よければどうぞぉ」
その美少女に大きな赤いハートの描かれた小箱を胸元に突きつけられ、思わず受け取ってしまう和美。と、その時、
「沙夜香ちゃーん、こっち!おそいじゃない」
「はーい、ただいまあ。あ、注文お待ちしてますーぅ」
軽いウインクの後、大きな肩掛けカバンをかけたメイド少女が、向かいのドックの入り口から顔を出したひげもじゃの男の元に猛スピードで飛んで行った。
「和美、誰?」
「わっかんね。ケーキの押し売り、サンプル付き」
瞳の問いかけに、もらった小箱をテーブルにそっと置きながら答える和美。
「ケーキか、なんか暫くそういうの食った覚えないなあ」
つぶやきながら瞳がその箱を手に取る。とその時コックピットのモニターが二人を呼んだ。写ったのは、
「よう、チセじゃん」
映ったボブヘアの眼鏡の娘に、ハートの描かれた小箱を持った瞳が答える。
「あ、瞳君?良かった和美じゃなくて。あのさ無事着いた?冥王星軌道ステーション?」
「ああ、さっき着いたよ。今休んでたところ。あ、メルティは予定通り降ろしたよ」
「あ、うん、わかった。それでさあ、そこで宅配ケーキ屋の娘に会わなかった?」
「あ、なんかさっき和美が会ったみたいだけど」
「…あっそ。んでさ、お願いなんだけど、その娘からさ、カロンイチゴケーキとパイを二個ずつ買ってさ、あたしに着払いで送ってくれない?そっからだと多分ワープ便で一日で届くからさ。あたし大好きなんだけど、基地以外の宅配やってないのよ」
会話を聞いていた和美が瞳から小箱を受け取り、ちょっとにやつく。
「チセ、これ要冷蔵でさ、賞味期間は標準地球時間で二日って書いてあるぜ」
横でわざと聞こえる様に大きめの声で和美がしゃべる。
「うるさいなあ、和美に頼んでないから」
モニターの眼鏡娘の顔が少し曇る。
「で、おめー、たった一日でさ、ケーキとパイ都合四つ丸ごと食うのか?」
瞳を少し押しのける様にして和美が意地悪な顔でモニターを覗き込む。
「るせー、あっち行け!」
(こいつ怒らせると本当面白いなあ)
そう思いながら小箱を持ったままソファーに行く和美。横では瞳とチセが何やら世間話を始めた。それを横目で見ながら、和美はクリームらしきいい匂いのする小箱を開ける。
「へえ、イチゴのケーキとラズベリーかなにかのパイか。なんかありふれてるなあ」
そうつぶやき、おもむろにパイを一口かじる和美、と、和美の手が止る。懐かしい地球の自然のラズベリー畑と、高原の風景が一瞬目に浮かび、そして消えた。小さい頃母親の作ってくれた、みてくれは悪いが本物の懐かしいパイの味。
「うんめぇーーーーー!」
和美の声に瞳が思わず振り向く。
「こらあ!そのパイはおめーみたいな奴が食う様に作られてねーんだよ!」
相変わらず毒づくチセを尻目に、今度は瞳がケーキを手にして、落とさない様用心深く口に運ぶ。
「これ…うめーよ…」
前にメルティから手に入れたパックコーヒーとそのケーキとパイを前に、和美と瞳は上機嫌でチセと話している。
「いやー、この無愛想な冥王星軌道基地にさ、こんないいものが有ったなんてなあ」
「いつからこういうもの売ってたんだ?しかもモニターで見る限りあのメイドの女の子も結構かわいかったし。名物になるわけだよ」
ちびりちびりとパイをかじりながら話す和美に、瞳もケーキを小皿に移しなおして、美味しそうに食べながら相槌を打つ。
可愛いメイド娘だったとの言葉にモニターのチセがちょっとむっとした。
「そうね。一年程前からかしらねっ。今じゃ基地本体のレストランもご用達よっ。あ、さっきのケーキとパイの注文忘れないでよねっ」
ぷっとふくれたチセの顔が可愛い。
「んでさ、確かに美味しくて有名なんだけど、名物の理由がもう一つあるのよね」
「まあ、あの味と売り娘のあの可愛さじゃ、当然ダブルで有名になるわなあ」
ふくれたまま話すチセに、パイを食べ終えた和美がコーヒーを口に含みながら満足げに答える。
「そうじゃないわよ…」
チセが少し声を落として答えた後続けた。
「あの娘、男の子だもん…」
その言葉に、ほぼ同時に和美と瞳は、チセの映っているモニターにコーヒーを噴き出した。
「男…ってか、あの娘…モニターで見る限り完全な女だったぜ」
ぼそっとつぶやき近くのスイッチとかのテストをして、モニターを雑巾で拭きつつ、ちょっと落ち込む瞳。
「しかし、可愛かったなあ…」
和美がコックピット付近に飛び散って漂っているコーヒーの粒を掃除機みたいな装置で吸い取っている。
「みーんな知ってるよ、沙夜香が男だって事。でさ、ちょっと気になることあるんだけど、ちょっと和美!とっとと雑巾がけ終わらせなよ」
モニターのチセの顔を雑巾がけしている和美は、その言葉に苦笑いし、いっそう丁寧にモニターを拭き始める。
「あの沙夜香って娘…だけどさ、あのメルティって娘…になったんだっけ?友達なのよ。男子高校の同級生でさ」
「…だからどうしたっていうのさ」
和美が雑巾がけを終えて、コックピットの室内乾燥装置のスイッチを入れる。と横の瞳の顔が難しくなる。
「その沙夜香って奴、今日基地に降り立ったメルティと絶対会ってるよな。あの体の変化って隠しとおせるものじゃないだろ…いくら秘密にしても…」
その言葉に和美もはっとする。
「これは…メルティの奴、あの装置の事ばらすかも…」
と程なくして、再びドックの入り口に来客のランプが灯る。モニタースイッチを切り替えてそれを覗き込む和美と瞳。そして互いに顔を見合わせた。
「そら来たぞ…」
そこには、ドックの入り口に備え付けられたカメラを神妙な顔つきで覗き込む沙夜香の顔が映っていた。
「あの、これがあたしの一番の自信作のカロンイチゴのケーキ、これがパイです。そして、これが一年に一kgしか手に入らない、キラーハニービーの蜜とクリームのパイ、そして、これが高熱を加えると大きくなる不思議なアルムの実のタルト。この実ってペーストにするとナッツ類ではすごく美味しいんですけど、焼き加減注意しないとすぐ膨張して固まっちゃって、大変なんですぅ。そしてこれが…」
ソファーの上にペタン座りして、持ち込んだ大きなカバンから次々とパイやケーキの箱を取り出してテーブルの上に置き、持ち込んだ自信作や珍しいものあれこれ説明するメイド姿の沙夜香と、それを細い目で見ながら聞き流す和美と瞳。
横のモニターでは、絶対それだけの量二人で食べきれないだろうから、後で絶対送ってくれると確信しているチセが、沙夜香の声に一喜一憂し、満面の笑みを浮かべ、箱を見せろとか、中身を出してカメラに映せとか、しつこい位二人におねだりの言葉を送っている。
そんなチセの言葉も無視し、瞳がまだいろいろ喋っている沙夜香の言葉を止めた。
「んで、なんで注文もしていないのに、ケーキとかタルトとかパイとか、一〇個も持ってきたの?」
その言葉に沙夜香はふと言葉を止め、うつむき、そして体を震わせ始めた。
「あのさ、メルティから何を聞いたかわかんないけど、俺たちはさ…」
なだめる様に和美が喋り始める。しかし、沙夜香は相変わらずうつむきて肩を震わせているそしてその言葉をさえぎる様に話し出した。
「今日メルティちゃんと会いました。だって、あたしと同じ男だったはずなのに、すっかり可愛い女の子になってて、どうしてって問い詰めたら、ここの事話してくれたの。
絶対秘密だけどって事だけでしたけど。あの、お願いです。あたしも、あたしも女の子にしてください!」
髪を振り乱し、きっと顔を上げた沙夜香の目は真っ赤になっていて、もし断られたら舌でも噛みそうな雰囲気だった。
「あ、あの沙夜香ちゃんさ、その…」
そう喋りだす瞳を遮る様に和美が喋りだした。
「まあ、メルティちゃんの場合は悪党から逃れる為に仕方なくやったんだけどさ。本来これは本当に秘密でさ、装置だってまだ不安だし、それに必ず成功するなんて保証ないんだぜ」
困ったなあという表情で喋る和美。しかし、そんな和美をにらみつける沙夜香の目は、まるで相手を焼き殺すビームでも出るかの様だった。
「あ、あの、沙夜香ちゃん」
「は、はい!」
「成功の保証ないんだぜ!」
「いいですっ!」
「秘密なんだよなあ、これ」
「殺されても喋りません!」
「…失敗して死ぬかも…」
「構いません!」
だめだ、こりゃ絶対あきらめないなと思った和美。と今度は瞳が困ったという顔で沙夜香に話し始めた。
「費用がさ、二,〇〇〇,〇〇〇Crかかるんだよ。それに三日後俺たちここ出発するし」
「二,〇〇〇,〇〇〇Crですか…」
ふと、沙夜香の顔が普通に戻り、そして天を仰いだ。
「お、おい、瞳…」
「大丈夫だよ、ケーキ売りの娘がそんな大金持ってないって。まだ一年だろ?」
小声で会話する瞳と和美。と、二人の予想に反して、沙夜香の険しい顔が元に戻った。
「二,〇〇〇,〇〇〇Crで、やっていただけるんですか?」
「え…?」
「は…?」
沙夜香の顔にポカンとする和美と瞳。
「あの、大丈夫です。なんとか用意できます。だって巷でやってる手術の為にお金貯めてきたんです。あの、先にいくらか振り込みますので…」
沙夜香の顔に再び笑顔が戻る。でも和美と瞳はどうしたらいいかそわそわし始めた。二人のそんな様子を少しも疑わず、沙夜香は嬉しそうに声を張り上げた。
「本当に、本当にありがとうございますぅ!絶対に秘密にしますから安心してください。あ、後でもう一〇枚お持ちいたしますぅ」
モニターからチセの喚起の声が上がるが、瞳はそれを断った。
「どうするよ、瞳」
「面倒嫌なんだよなあ、あの機械、まだわかんない所いっぱいあるし。うっかり変な事になっちまったらさ」
追い出す様に沙夜香をドックの外に連れ出して帰らせた後、二人は艦に戻り居住区のソファーに座る。と、
「こらあ、早く送ってよ!そんなにたくさんあんたたちで食べきれる訳ないでしょ!腐ったらどうすんのよ!」
さっきからモニターからのチセの声がうるさいのなんの。
「るせーなー、いつ誰がお前にやるって言ったよ!おめーこそ食いきれるのかよ?」
「あーー、お願い、送ってちょうだいっ」
「おい、瞳、早く送る手続きしてさ、あの眼鏡猿黙らせろよ。多分一週間後には眼鏡ブタになってるかもしれないじゃん。面白いからさ」
悪態をついてるチセの映ったモニターのスイッチをパチンと切ってため息をつく和美。
「最初からこうしときゃ良かったんだな、ははは。そろそろ予約した部屋に行こうぜ」
そう言うと和美は、ケーキの入った大きなカバンを持った瞳を促し、カラカサを後にし、ドックの出口へ向かった。
狭くて小汚い迷路の様なステーションの中を疲れた様子で用意された部屋へ向かう二人。
まだ地表が冥王星と呼ばれていた時代から使用されているその中は、あちこち簡易的な修理の跡があり、独特の臭気も満ちていた。
元々この惑星には地球から引っ越してきた宇宙船の工場が密集しており、景気は悪くないはずなのだが、工場独特の黒錆色で包まれた一種独特な雰囲気が漂っている。
そんな中で沙夜香の様な存在は、特に目立ってひいきにされるのかも。いくら沙夜香が男であっても…。
「あ、俺ケーキ送ってくるよ」
部屋へ行く途中、重そうな荷物を肩にかけなおした瞳が小走りに小型貨物発送所に向かっていく。
地球時間で翌朝、地球のビジネスホテル位の軌道ステーション内の小さな部屋で目を覚ました和美。カーテンを開けると豆電球位の大きさの太陽の横に、巨大な衛星カロンの影が見える。元冥王星のすぐ上に作られたステーションだが、元々重力もそんなに無く、部屋の中では気をつけないとすぐ体が浮いてしまう。
「おおい、瞳、まだ寝てるのか。朝メシいかねーか?」
瞳のベッドでは、掛け布団の山がわずかに動いただけだった。
「腹減ったし、一人で行くか…」
和美がガウンを羽織った時、部屋をノックする音が聞こえた。
「誰だよ、全く。ベッドメイクはまだ先だろ…」
迷惑顔の和美が部屋のドアののぞき穴から外を見た瞬間、一歩あとずさりする。その気配に気づいたノックの主が明るい声を張り上げた。
「おっはよーございまあああす。夜は良く寝られましたか?朝食をお届けにあがりましたあ!」
その声に和美はドアを開け、メイド服にローラーブレード姿で昨日と同じ大きなカバンを肩にかけた沙夜香を部屋に引っ張りこんだ。
「こら、おめー、何考えてんだ」
「私は皆様の朝の健康と活力を常に考えておりまーす」
「…朝メシ頼んだ覚えは…」
「いえいえ、これもささやかなサービスでございまあす。今朝はハーブ入りミートパイとシナモンティーでございまあす」
「待てよ、朝っぱらからこんな油っこいもの、俺はジャパニーズブレックファストの方が…」
と和美が言いかけた時、
「よお、沙夜香ちゃん。今日も可愛いね。じゃ遠慮なくもらっていくよ」
いつのまにか起きてきた瞳は、和美の後ろから沙夜香の手に持ったミートパイとパック入りの紅茶の入った袋を手に取りウインクする。
「はーい、ありがとうございまあす。和美さん、和風がよろしければ、焼き鳥とかキンピラの入ったパイもありますよぉ。豆乳使ったチーズケーキもありますしぃ、明日お持ちしまあす」
「あー、わかったわかった」
和美がまたもや追い出す様に沙夜香を部屋の外に押し返す。と、ドアから出る時、
「あ、和美さまあ。口座を教えてくださいなあ。お振込みいたしますぅ。足りない分は、…後でお持ちいたしますぅ」
「…あ、じゃここへ…」
和美が走り書きしたその紙ナプキンを大切そうに胸ポケットに入れ、笑顔を和美に振りまくと、沙夜香は風の様に次の部屋へ向かって行く。その様子をじっと見ている和美の肩を瞳が叩いた。
「まあ、とりあえず朝メシにしようぜ」
「何が、今日も可愛いね、だ。この、女たらし…」
「相手は男だぜ」
「そーゆー問題じゃねえよ」
「しかしよ、もうこれはどうあってもあの機械使わざるを得ない状況になってきたぜ」
沙夜香のミートパイを絶賛していた瞳が残った紅茶を一気に飲み干し、パックをゴミ箱の上の壁に当てると、ふわふわとそれはゴミ箱に収まった。
「まあ、あの娘?が本当に二,〇〇〇,〇〇〇Cr持ってくればの話だけどさ」
そのままベッドにごろんと転がった瞳は、ふと窓の外を見た後、和美に向き直る。
「それはそうと、ここの税関の関税、いつからあんなに上がったんだ?」
「何か聞いたのか?」
「いや、昨日寝る前にチセに沙夜香のケーキ一〇個送ったんだけどさ、関税率二〇%もとられんだよ。地表からステーションで一〇%、ステーションからチセの所に送って一〇%。前は五%だったはずだぜ」
「ああ、じゃああれだよ原因は。ここの政府直々に小型宇宙船の新造工場建設してるだろ。最近不景気で昔はあまり重要視されなかった小型船が、機動性とコストで見直されたからさ」
瞳の横に行った和美は、軌道上窓から見える遠くの小さな要塞みたいな複雑なステーションを指差す。
「け、俺達の税金で建造してるんだよ、せこいなあ。今日二件ばかり地表で取引あるけど、儲けの計算狂っちまった…」
和美はそう呟くと、出かける用意をし始める。
「やっぱり関税四倍なんてめちゃくちゃだよ。それに軌道ステーションと地表の間でなんで関税かかるんだよ!」
カートに乗せられたユニットとクリスタルの箱のがX線とか音波チェックを受けている横で、通関書類と目録を前にして和美が税関の係員とごたごたを起こしている。
「税は二倍になっただけです。それに元々冥王星軌道ステーションは地球のゼノン管轄。地表は別の国家です。今まで取らなかっただけです」
「ゼノンからステーションの間でも関税かかってんだぜ!」
「そんな事は知りません。ゼノンに言ってください」
しらっとした雰囲気で、いけすかないひょろっとした関税管が慣れた口調でのらりくらりと話す。
「お願い、関税負けてよ。何か方法無いの?」
「ございません」
あいかわらずつんとした様子で話す税関職員。軌道ステーションと地表の間での税はやはり最近になって設定されたらしく、ブースのあちこちで似た様な話がされていた。
「仕方ねえなあ…」
和美が通関書類にサインをしようとした時、
「おっさきーーーぃ!」
ぎょっとしてその声の方を振り向くと、すぐ横の関税ゲートを大きな荷物とメイド服にローラーブレード姿の沙夜香がものすごいスピードで駆け抜け、振り向きざま和美に手を振る。それをあっけに取られた様子で見送る和美。
「な、なあ、おっさん。あれ…いいのかよ」
「何がですか?」
「あのケーキ屋、今ここ通過したよな?」
「はあ、それが何か?」
「ノーチェックかよ?」
「ああ、沙夜香さんは特別ですよ。大体あのカバンの中のケーキ調べるだけでどれだけ時間かかるか。まあ、あの人の場合は後で纏めて自己申告で払って頂いてますよ。ちゃんと個数チェックしてますし、嘘の申告も無かったですから」
「けっ」
通関書類に殴り書きでサインをした後、商品貨物エレベータに吸い込まれるのを確認した後、和美も地上とステーションの連絡シャトルに乗り込んだ。
地球で言うと退廃的なムード漂う下町の工場地帯といった雰囲気の元冥王星に降り立ち、依頼されていた試作ロボット数体の部品と光学分析器の特殊クリスタルを、貨物シャトルの集積所からレンタルエアーカーゴに載せる。
ほどなくそれを依頼主に届け、関税分の何パーセントかを追加料金として依頼主に認めさせ、ほっとした様子で場末のコーヒースタンドでくつろぐ和美。
ここでは男も女も作業着姿が目立つが、一応活気は有りそうで会話の内容とテンションはどこか明るかった。
「時間も有るし、商売ネタでも拾ってくるか…」
そう独り言を呟いた和美がスタンドを出ようとした時、
「あ、ごめんなさい」
入ってきた一人の女性がぶつかりそうになって和美に謝る。しかし和美の顔を見た途端彼女は口に手を当て、くるっと後ろを向いた。
和美もその顔には見覚えがある。いや、十分知っていた。ウェイトレスの衣装を纏ったその女性が小走りにそこから立ち去ろうとするのを襟首を掴んで和美は思わず叫ぶ。
「まて!メル…いや、ミルキー!見事にばらしやがって!」
「ご、ごめんなさい…でも、あの、あの娘の場合は勘弁してほしいんです」
観念した様にその場でうずくまるメルティ・ミルキーだった。
メルティ・ミルキーがここでコーヒーショップを開こうとして取引をしようとしていた近くのコーヒー豆焙煎工場の一角にあるコーヒースタンドで、メルティは鼻をぐずらせながら和美に小声で事情を説明していた。
「…だから、あの娘は女の子になる為の手術の費用を必死で溜めていたんです。ここ一年お菓子をただひたすら作って、売り歩いて、本当遊ぶ事も知らずに。そんな状態であたしだけ夢を叶えたなんて、だから、悪いとわかってて、その…」
誰かに聞かれていないかと注意深くあたりを見回す和美。焙煎するコーヒーのいい香りが漂う小さな店内は幸い新しい客も来ず、只、マスター兼職人が時折二人の様子を不思議そうに眺めるだけだった。
「あのさ、お前の場合は実験のつもりだったんだぜ。まあうまくいったからいいもののさ。まだあの機械わかんないこと多いし、あんな変な機械のおかげで面倒に巻き込まれたくないし。既に瞳がえれー事になってんだぜ…」
メルティは和美の言葉に黙って只うなずくだけだった。
ふと和美はメルティが本当にあんな大金を用意できるのかどうか不安に思う。
「なあ、メルティちゃんよ。悪いけど沙夜香の地表の家というかお菓子工場の場所教えてくんねーか?」
紙に書かれた住所を頼りに行くと、巨大工場群のはずれに到着した。そこは企業の倉庫や、粗末な住居が立ち並ぶもの寂しい一角。ふとある方角からうっすらと甘酸っぱい複雑な匂いが漂ってくるのに気がつく和美。
「はあ…このあたりだな…」
独り言の様に呟いた和美が、その怪しげな匂いを頼りに行くと、そこには上に住居を構えた小さな倉庫の在る建物に到着した。あたりには人もほとんどおらず、シャッターは閉められており、横の呼び鈴を何度か鳴らしたが、誰も出ない。
「ちぇ、留守か。まあ、今頃売り歩いてる時刻…」
と、誰かが和美の肩を乱暴に叩く。ふと振り返るとそこには、作業員とは違うなにやら風体の悪い小柄な男が立っていた。反射的に身構える和美にその男は胸元に手を入れ、和美を睨み付ける。
「誰だお前、何うろついてる」
「いや、ちょっと沙夜香に用が有ってな。おめーこそ誰だよ、沙夜香のナニか?」
「うせろ、ここは…」
とその時、エアーバイクの音が聞こえたかと思うと、メイド服の沙夜香がそれに乗ってこっちへ向かってくるのが見えた。
「いいか、二度とここへは来るんじゃねーぞ」
その不気味な男は沙夜香の姿を見るとそういい残して、小走りに通りの路地へ消えた。
「変な奴…」
そう呟く和美も、自分の住居兼工場の前でたたずんでいる和美に気がついた。
「あー、和美さんだ。どうしたんですか?何か御用ですかぁ」
「あ、いや、ちょっとおめーの事が気になってな」
「えー、なんですかぁ…」
そういいつつ和美はリモコンでシャッターを開け、乗ってきた宅配用とみられる少し大型のエアーバイクを中に仕舞いこむ。
その途端、中から様々のジャムやクリームが混ざったすごい匂いが漂ってきた。
「汚い所ですけど、良かったらあたしのお菓子工場覗いていきませんかぁ?」
和美も少し興味があり、むせる様な甘酸っぱい匂いを我慢して中に入る。その傍らにはどうやらジュースを作るジューサーらしき機械と、折りたたまれたジュースのパックの包みまであった。
「おめー、ジュースまで手作りなのか」
ジューサーの横に一枚置かれたSAYA-COFFEEと書かれたパックを手に取って和美が独り言の様に呟く。
「なあ、さっき表で変な男と会ったんだけど、何かおめーと関係ありそうだったが」
一瞬沙夜香の動きが止ったが、
「あ、ううん、なんでもないですよぉ。近所のおじさんですぅ」
ふと和美の脳裏に嫌な思いが浮かぶ。
「お、おめー、まさか、ここで、春を…」
と沙夜香が思いっきり吹き出した後笑い出す。
「あはははっ、そんな事ないですよぉ。あたしまだ男の子だし、ケーキだってほら、今日も殆ど完売ですよぉ。あ、いつも売れ残ったお菓子、近所の子供たちに配ってるんで、ちょっと行ってきますから」
そう言って沙夜香は売れ残った二箱のケーキを取り出し、手早く切り分けおおきな皿に載せて、入り口付近に立っている和美の横をすり抜けていった。釣られる様に外に出た和美の目には、そこに集まってきた数人の子供達に小袋菓子を配る沙夜香の姿が映る。
再び薄暗い小さな工場の中に目を向けると、二〇個くらいの鍋を載せたガスレンジや数台のオーブン、冷蔵庫、そして作業台が目に付く。
ところせましといろいろな物が置いてあるが、掃除が行き届きちゃんと整理整頓されている。
「まあ、変な奴じゃなさそうだな…」
さっきの男が気になりつつも、和美の心は決まった。失敗する危険はあるかもしれないが、メルティみたいにしてやろう。
「あ、和美さん。今から仕入れに行くんですけどぉ、良かったら一緒に行きません?」
いつのまにか菓子を配り終えた和美の声が後ろから聞こえる。ひょっとして和美の知らない貿易品とかルートが見つかるかもしれない。そう思った和美は快諾した。
「あ、今着替えるんでちょっと待ってくださーい」
そう言って、薄暗い工場の隅のクローゼットの前でおもむろにメイド服を脱ぎだす沙夜香。
「お、おい、男が見てるんだぞ」
「平気ですよぉ、あたしまだ男の子だし…」
その様子を不思議そうに見る和美。ショーツとブラだけになった薄暗い蛍光灯に照らされた鏡に映る沙夜香。多分女性ホルモンのせいか、丸みを帯びた全身は真珠色に輝き、ショーツからは女に変ろうとしている彼女の柔らかなヒップの肉がはみ出し、そしてブラをはずした彼女?の胸は処女の様に膨らんでいて、バストトップはあきらかに女性のそれに変化していた。
「もうすぐ、メルティちゃんみたいに、なれるんですよねぇ」
うきうきとした様子で話す沙夜香に和美は只黙っているだけだった。
ラフなスエットスーツに着替えた沙夜香の貨物用エアーバイクに同上し、雑然とした工場街を抜けると、卸売市場に到着。といきなり声がかかる。
「よー、沙夜香ちゃん。なんだい、今日は彼氏といっしょかい?」
「えー、違いますよぉ、お友達ですぅ」
「沙夜香ちゃーん、この前言ってた金のトマト手に入ったよ」
「あー、後でいきますぅ」
バイクに乗った沙夜香にかけられる声からして、あきらかに沙夜香は人気者だった。
やがてバイクを一角に止め、あちこちで買い物をし、両手一杯に荷物を抱えて、和美の待つエアーバイクの後ろの大きなコンテナに次々と積み込む沙夜香。
そんな姿を見る和美の目はだんだん細くなり、口元には笑みが浮かんでいた。
とうとう沙夜香は嫌がる留守番の和美の手を引き、果物卸のブースに入っていく。その中で完全に沙夜香の彼氏扱いされる和美だったが、いつのまにか和美も沙夜香と一緒に果物の選定をしたり、手渡された果実の味見をしたり、値段の交渉までしてしまう。
「よーし、男の子の沙夜香ちゃんに彼氏が出来たお祝いだ!特別にこれだけまけてやろう!」
居合わせた商人達と沙夜香の笑い声で和美だけがその声に怯える。
「お、おい、沙夜香!みんな知ってる訳?おめーの事」
「うわー、和美さんが始めて私の事さ・や・かって呼んでくれましたぁ!」
「こ、こら、沙夜香!」
「よお、交渉上手なあんちゃん!わしらの沙夜香ちゃんを泣かすんじゃねーぞっ」
その帰り、口笛吹きながら時折地表のガイドをしたりしながらバイクを操縦する後ろで和美はあれこれ考えていた。
ここに来るまでの航海中の乗客運送は確かに商売としては美味しいが、規定で必ず乗客十二人に一人スチュワーデスが必要になる。
メルティの場合は少し大人しい性格だったので、これからの航海は不安だった。でも、沙夜香なら、その役が務まるかもしれない。
無事女の体になったなら沙夜香の大切なお菓子工場は、そうだよメルティかあのキャンディーズ三人に任せて…
「えー、どうしたんですかぁ、疲れたんですかぁ」
「いや、なんでもない…」
あれこれ勝手な事を考える和美に沙夜香が何やら話しかけてくる。と和美が何か思いついた様に、工場へ向かう沙夜香に、別の方角へ行く様に指示。
「え、どこに行くんですかぁ」
「いいから、あ、そこで止めろ」
「はあい」
そこはショッピングモールの衣類専門のブースであった。
作業服や一般医療、下着から布地まで、様々な品物を展示販売している店を沙夜香を従えてうろうろする和美が最終的に一件の店の前で止った。
「ここって、宇宙船クルーのスーツ専門店じゃないですかぁ」
沙夜香が店の前で目をぱちくりさせる。
「いいから、ちょっと着てみろって」
「えーー、和美さん、コスプレさせる趣味あるんですかぁ?」
「ばか、そんなんじゃねーよ」
和美とあれこれ品定めしたあげく、上着とスカート付きパンツがセパレーツになった可愛いスーツを手に、ちょっとためらう様なそぶりで試着室に消える沙夜香。
「あれ、SAYAの沙夜香さんですよね。え、船に乗り込まれるんですか?」
女性店員がちょっと不思議そうに和美に尋ねた。
「あの方、その、男性ですよね」
「いいじゃないですか。まあちょっとした好奇心ですよ」
店員の言葉を適当にあしらい、和美は沙夜香を待った。しばらくすると、
「お待たせいたしましたあ」
その言葉に試着室の方を向いた和美は一瞬言葉を詰まらせる。長い髪を後ろで束ね、ノースリーブの白にピンクのストライプ調のデザインの上着と、太ももををぴっちり包み込み、腰のミニスカートが可愛いそのスチュワーデス用衣装に包まれた沙夜香は、おへそが出ているのがかなり気になるのか、横の鏡に全身を写してポーズを取ってみたり、髪とか衣装を直したり。胸元まだ十分膨らんではいないが、ラインは女のそれになっている。
「お、おい沙夜香、ぴったりだよ、その、すごく可愛いし…」
思わず普段あまり使わない言葉を口にする和美だったが、
「あのー、やっぱり女の子用だから、あたしにはお尻と太ももがちょっとぶかぶかで…」
沙夜香がしきりにヒップラインを気にする。
「そんな事ないですよ。太ももとヒップのラインとか、ちゃんと女の子になってますよ」
沙夜香のケーキのお得意さんなのだろうか。事情を知っている店員も、普段とは違う彼女?の姿をずっと褒めていた。
「あのー、嬉しいんですけど、あたしはやっぱり着慣れたこのメイド服の方がいいですぅ」
「ああ、わかったよ」
和美の言葉に再び試着室へ消える和美。それを見届けた後、和美はカードを店員に示した。
「冥王星軌道ステーション、R八一ドック、カラカサ号に送っといて。あ、予備に一着買うから関税分サービスしといて」
「あ、はあ…かしこまりました」
和美の申し入れに、店員がちょっと不思議な顔をして、カードを決済に回していた。
「なあ、沙夜香、お前女になったら、どうしたいんだよ」
「え、あたしですかぁ」
何やらすっかりにわか恋人ムードになった二人は、沙夜香の倉庫へ向かう途中、更により道をして、軌道ステーション途中の過去和美が元冥王星に来たとき、時々考え事とかしたりした、ドームの展望台のベンチに座って、岩石色の地表の上に粟粒の様に建造されたステーションをじっと眺めていた。
「あたしは、体が女の子になっても、相変わらずみんなの為にケーキ焼きたいなあ」
「そうなのか…」
「うん、みんなの嬉しい顔見るの好きだし」
「…」
ふと沙夜香がベンチから飛び降り、透明なドームがいくつも並ぶ地表に向かって手を降り始める。
「みんないい人ばかりだよ。ここの人。でもね、あたしが男だってわかってるから、恋人になってくれる人はいなかったんですの」
そして和美に背を向けながら嬉しそうに一曲の鼻歌を歌いだす。それは大昔和美も観たアニメーションのエンディングの歌。一人の少年が女性に連れられ、列車型の宇宙船で旅をするという名作。和美にとっては今の商売をするきっかけにもなった作品だった。
和美がそんな沙夜香をじっと後ろから見つめていた。確かに彼はこれから女の子になるという運命らしい彼女の運命を知る存在だったから、多少なりとも女として沙夜香を見ていたのかもしれなかった。
だが、和美にはだんだん沙夜香が特別な存在に写るのに気がついていた。学生時代初恋の相手にふられた後、あまり女性には縁の無い生活を送ってきた和美。だが…
「おい、沙夜香。明日の仕込みあるんだろ。そろそろ…」
「はーい、そろそろ帰りましょう!」
沙夜香の家兼工場に到着したのは、地球時間でいえばもう午後九時を回っていた。何か別れたくなさそうにしている和美をじっと見つめた沙夜香だが、
「あ、和美さん、流れ星!」
沙夜香が指さす方向を思わず和美が見た時、
「!?」
和美の頬に、もう長い間忘れていた感触が伝わった。振り返った時和美の目の前で沙夜香が少し顔を赤らめる。
「ば、ばかやろ!俺男とキスなんて…」
「今日付き合ってくれたお礼ですぅ。明日もがんばってくださいねぇ」
無邪気に笑う沙夜香に軽く別れの挨拶をした後、時々振り返りながら近くのエアーバスの乗り場へ向かう和美。その光景を見えなくなるまで沙夜香は笑顔で見つめていた。
しかし、その沙夜香の後ろに昼間見た怪しい男の影が迫っていた事を和美を知るよしもなかった。
「よう、沙夜香」
その声に怯えた様に肩をすくめ、後ろを振り返る沙夜香。
「なんだ、男でも出来たのか?男のお前に」
「い、いえ、あの人は、…違いますぅ」
にやけながらガムを噛み続ける男に、沙夜香は少し困惑顔をしてうつむく。
「まあ、いいやな。ほれ、いつもの様にやってくれ。相手はわかってるな」
男はそう言うと臭い息を吐きながら沙夜香に汚らしい小さな紙袋を渡す。
「り…了解…ですぅ」
手渡された紙袋を両手で持ち、胸元で振るわせる沙夜香を尻目に、その男は上機嫌で歩き出し姿を消した。
「おっはようございますーぅ」
翌朝部屋のドアをどんどん叩く音に、昨日飲みすぎて二日酔いになった和美と瞳がベッドの上でもぞもぞ動く。
「おっはよー…」
「あー、わかった今開けるから!」
瞳が髪をかきむしりながらベッドから起き上がると、相変わらず大きな肩掛けバックを下げ、大小二つの紙袋を持った沙夜香がにっこりする。
「ああ、ありがとう。和美にも渡しておくよ」
瞳が二つの紙袋を受け取ろうとした時、
「あ、あのー、大きい方が和美さまの分ですぅ」
「な、なにぃぃぃ!?」
じゃあごゆっくりぃと、瞳に手を振り、風の様に立ち去る沙夜香。
「お、俺のが和美より小さい…」
それは今まで女の子に接する事対しては和美より圧倒的に優位であった瞳のプライドをガタガタにするに十分な出来事であった。
頭を抱え、ふらふらとベッドに戻る瞳に、ようやくベッドから起き上がった和美が声をかける。
「なんだ瞳、まだ頭痛いのか」
「そんなんじゃねーよ!」
「なんだ、沙夜香の朝メシか?」
「大きい方がお前のだってよ。昨日言ってた変なケーキかパイが入ってんじゃねーのか?」
「あ、俺パス。瞳食っていいよ。俺の朝はやっぱり自然米のご飯と味噌汁が…」
「うるせー!さっさと食え!おめー、どーも男にもてるらしいなあ」
そう言うと瞳は大きな方の紙袋を和美に乱暴に投げてよこす。
今日は一日暇なので、ゆっくり朝風呂に漬かった後、軌道ステーション内のゲームセンターで煙草をくゆらしながら対戦格闘ゲームをプレイしていた和美。
その和美を見つけ、瞳が寄ってくる。
「おい、沙夜香から入金が有ったぜ」
「…へえ、二,〇〇〇,〇〇〇?」
「いや…」
聞き返す和美に、瞳が少し声を落として耳元で囁く。
「半分の一,〇〇〇,〇〇〇Crしか入ってねえんだ…」
瞳の言葉に和美はしばし無言になった後、プレイする手を止めないまま話す。
「いいんじゃねーか、一,〇〇〇,〇〇〇Crで」
「いいって、おい和美らしくねえなぁ。いつものおめーならビタ一Crむしりとってるだろ?」
「いいって事よ」
「お、おい、今月まだ大きな仕事入ってねーだろ。あてにしてたんだぜ俺。二,〇〇〇,〇〇〇Crあれば、カラカサのローンとゼノンの使用料あらかた払えるぞ」
「いいんだよ」
ちょっと手元が狂ってゲームに負けた和美が、くわえていた煙草を横の小さな専用シューターに投げ込む。
「ま、まあ、まだ締めには日があるからいいけどさ。でも沙夜香の奴、俺たちの出港する明日までにちゃんと用意できるのかなあ」
「そんなの沙夜香に聞けよ。まあ用意できなくてもいいよ」
ちょっと不思議そうに瞳に話すかずみ瞳に、和美が席を立ちながら喋る。
「おめー、まさか沙夜香と何か有ったんじゃねーのか?」
「バカ、なんにもねーよ」
ちょっと意地悪く笑いながら話す瞳に、和美は吐き出す様に言った。
「沙夜香ちゃん遅いなあ、もう一時間待ってるんだけど」
「俺も午前中に、あのクルミのタルトとイチゴパイ頼んでるんだけどなあ。こんな事今まで無かったよなあ…」
昼過ぎ、ドックにカラカサの点検に行こうとした瞳の耳にこんな声が聞こえてくる。部屋に戻った瞳は、今まさに出かけようとしていた和美とドアで鉢合わせした。
「和美、なんか沙夜香の様子がおかしいらしいぜ」
「あ、俺も聞いた。なんか注文をいくつかほったらかしにしているらしい。そういや、今日あれ以来沙夜香みてないしなあ」
部屋のドアのにもたれかかりながら和美が答える。
「和美、それはそうとどこへ行くんだよ?」
「あ、ああ、昨日沙夜香にケーキ材料揃えてる店とか教えてもらってさ、ほら、材料いくつかそろえてさ、SAYAKAの菓子材料としてうちでまとめて交易したらって」
「おい和美、生物の交易はこの前人面リンゴで懲りたはずだろ?」
瞳は、以前珍しい人面リンゴなる物を運んだ際、温度管理の失敗とリンゴ同士の共食いで、その殆どをだめにした事を思い出し、和美にきつく注意した。
「あ、そうだったっけ…」
「いったいどうしたんだよ。沙夜香に会ってからお前おかしいぜ」
ぷいと出かけようとする和美を瞳が手で止める。
「ああ、わかった。ちょっと沙夜香が気になるから、奴の家見てくるよ」
「あ、お前、昨日沙夜香の家まで行ったのか?」
「え、ああ、まあな」
ちょっとバツ悪そうに答えた後、和美は部屋をあとにし、地上との軌道シャトルステーションへ向かった。
「おおい、沙夜香?」
昼過ぎ、相変わらずむせる様なにおいのする沙夜香の自宅兼ケーキ工場に着いた和美は、誰もいない工場に入り、沙夜香を探す。工場のシャッターは開いたまま。しかしエアーバイクが無い。しかし、テーブルの上にはついさっきまでケーキか何かを作っていた形跡がある。
「おおい、沙夜香!客がケーキの配達待ってるぞ!」
まさか病気かと思い、二階の住居にも声をかけたが返事はない。不思議に思いながら和美は工場をあとにし、軌道ステーションへの帰途についた
「瞳、沙夜香今日見たか?」
「いや、見てない。税関の連中もホテルのフロントも不思議がってたよ。こんな事今まで無かったってさ」
「どこ行ったんだよ、沙夜香の奴…」
瞳は落ち着かない様子の和美を不審に思ったが、まあ特に自分達には左程重要な問題ではない。もし沙夜香が後で出てきたらその時振り込まれた金は返せばいい。そう思った瞳は、それよりも重要な事を和美に喋る。
「あのさ、コックピットの空調フィルタ、長く掃除してなかった上に、ここに着いた時派手にコーヒー吹いたろ。もうだめになってるから今からユニット取りに行ってくるよ。戻ってくるのは地球時間で夜中になりそうだから、カラカサで待機しててくれな」
瞳の言葉に手だけで軽く合図した和美は、瞳の後を追う様に部屋を後にした。
地球時間ではもう夕方。作業を終え、帰宅する人で時間でごった返す地表では、人ごみの中をかき分ける様に複数の男が走り回っていた。
男達は時折互いを待ち合わせる様に落ち合い、そして何か小言を交わした後再び街の中に散って言った。
昨日沙夜香と和美が訪れた果物取引場でも、一人の男がいらいらした様子でたたずんでいる。その元に一人の男が駆け寄ると小声で何か話す。
そこにいた男はくわえていた煙草を思いっきり地面に叩きつけ何か怒鳴ると、駆け寄ってきた男は再び人ごみに消えた。
「軌道シャトルステーションは押さえたな。まだ地表にいるはずだ…」
小声だがはっきりした口調でそう独り言をいい、果物取引所の狭い路地を小走りに消えていく。と、男が消えた後、その路地の建物同士の隙間から、一人のメイド姿の女の子が顔を覗かせた。
「た、たいへんですぅ…」
その少女はそうつぶやいた後、再び壁の隙間に姿を消した。
カラカサのコックビットについた瞳は、さっき沙夜香をさんざん探した事でかなり疲れた様子。空調装置の扉が開けっ放しになっているのは、多分先ほどまで瞳が中を触っていた為であろう。中を少し確認した和美はコックピット後ろのソファーで少し横になった。
「後で、チセに連絡してみるか。何か知ってるかも」
休憩のつもりだったが、疲れのせいか和美はいつのまにか深い寝息を立てていた。
どれくらい時間が経過しただろうか?ふと和美はドックへの来訪者連絡用のブザーを耳にする。
「あ、瞳が戻ってきたな…」
特にモニターを確認する事なくドックの扉を解除し、眠い目をこすりながらカラカサ号の搭乗口へ急ぐ和美。
「よう、和美すまねーな、こんな夜遅く…」
そう言いながら搭乗口の扉を開けた和美は、目の前に立つ人影を見て、驚きの声を上げる。
「さ、沙夜香!」
大きなショルダーバッグを下げ、暗闇にぼーっと立っているのは間違いなく沙夜香だったが、生気の無い顔は曇り、息をぜいぜい切らしている。
「お、お前、今までどこに行ってたんだ!?」
尚もびっくりして問いただす和美に、沙夜香がなおも息を切らせながら、か細い声で答える。
「あの、残りの代金はこの中にあります…早く、中に入れて…」
「早くって、大丈夫かお前!?」
「あの、早く中に入れて、そして、手術して、ください!」
息を切らせながらの蚊細い声だが、はっきりと沙夜香が喋る。
何だかわからないまま和美はコックピットへ向い、カラカサ号の予備電源を入れ始めた。
「一体何だってんだ…沙夜香の奴いきなり…」
電源操作パネルを確認しモーターの低い唸り声を聞き届けた後、和美は例の謎の機械の設置されている貨物室の扉を開ける。と、そこにはもう既に沙夜香がたたずんでいた。
「お、おい沙夜香、よくここに置いてあるってわかったな。それに…」
「あの、早く、お願いします!」
幾分落ち着いた様子の沙夜香の声に、和美は沙夜香の横を通り機械のスイッチを入れる。ブーンという音と共に、その機械のカプセルの中に照明が灯った。
「あの、沙夜香、断っとくが成功の保証は…」
と和美が沙夜香の方を向くと、いつの間にかそこに沙夜香はいない。ぎょっとしてカプセルの中を見ると、既に沙夜香はその中に入っていて、にっこりと微笑んでいた。
「お、おい、いつのまに…」
和美が何か妙な雰囲気を感じた時。
「和美さまぁ、おねがいしまあす」
沙夜香がありったけの笑みを和美に向けていた。不思議に思いつつも、和美はカプセルの扉を閉める。
「ああ、あたし、これで女の子になれるんだあ!」
沙夜香の嬉しそうな声に和美はちょっとほっとした。
「頼む!成功してくれ!」
祈る様に和美がつぶやき、レベルをメルティの時と同じ真ん中に合わせ機械のメインスイッチを入れると、鈍い音とともにカプセルの中の嬉しそうな顔をした沙夜香が光に包まれる。
「沙夜香、よかったな…」
その光をみつつ独り言の様に喋る和美。ところが、
「お、おい!どうなってんだ!」
機械の音がどんどん大きく異常な音に変り、そして沙夜香を包む光がどんどんまぶしくなっていく。
「な…な…」
和美か驚きの声を上げた途端、一瞬にして光は消え、そして機械の音も止った。駆け寄る様にカプセルに行き、そして中を覗き込む。
「沙夜香!沙夜香!大丈夫か!?」
カプセルの中には…誰もいなかった。
「沙夜香!沙夜香!」
狂った様に大声を上げながらカラカサ号の中を走り回って沙夜香を探す和美。しかし、どこにも沙夜香の姿は無い。
「まさか、カラカサの外に!?」
大急ぎでカラカサ号からドック内に飛び出し、沙夜香の名を叫びながら探すが、沙夜香の姿はどこにもなかった。と、沙夜香の持ってきた大きなショルダーバックがドックの扉付近に置いてあるのを和美は発見する。
がっくりうなだれた様子でそれをコックピットに運び、和美はソファーに座り、顔を手に当て、がっくりうなだれた。
「まさか失敗…したのか…いや、失敗したんだ」
ソファーに座り、しばし放心状態の和美。その時コックピットのモニターが明るくなる。大急ぎでそこに行くと、何か驚いた表情のチセの顔が映った。
「和美!和美!大変!」
チセの叫ぶ様な声も耳に入らず、和美もやり返す。
「チセ!大変なんだ、沙夜香が!沙夜香が!」
和美の驚いた様子にチセも一層声を荒げる。
「和美!あんたも知ってたの!?」
「え、何をだ!?」
何の事かわからず和美がチセに聞く。
「何をって、沙夜香が…」
「そうなんだ、沙夜香があの機械の中で消えちまって…」
「な、何?何言ってるの和美!?」
モニターのチセの目が丸くなる。
「和美!気をしっかり持ってよ!沙夜香が誰かに殺された事わかってんでしょ!」
「え、何!?何言ってんだチセ…!?沙夜香はたった今、あの機械の中で消えちまって」
「ふざけてないでよ!今瞳クンが沙夜香が殺された所に行ってるるから!もう、今あんた狂ってるみたいだから、一旦切るよ!」
一方的にモニターから消えたチセ。それを目の前にして和美は呆然とする。目の前から沙夜香が消えたのを見たショックと、沙夜香が死んだというチセの言葉によるショックが二重で和美を襲う。
「俺、夢でも見たのか?」
しかし、テーブルの上には沙夜香の持って来た大きなショルダーバックがちゃんと有る。
和美が中を開けて確認すると、例のSAYAのロゴの入ったパイの箱が三個とパックのオレンジドリンクが三個有った。
「これって、俺たちと沙夜香の分て事だったのか…」
しかし、いずれにせよ沙夜香がもうこの世にいないという事は決定的らしい。顔を覆う和美の指の間からは熱い物が流れ始める。どんな困難な事が有っても決して弱い姿を見せなかった和美だったが、今回は流石にダメだった。
「和美!大変な事になってるぜ!」
カラカサに戻ってきた瞳はソファーに呆然として寝ている和美に声をかける。
「沙夜香が、殺されたんだろ」
「知ってたのか、そりゃ辛い…」
と瞳はテーブルに置かれた沙夜香のショルダーバックを目にすると、驚いた様子で和美に尋ねる。
「お、おい、このバック…」
「沙夜香が持ってきた」
「…、いつ!?」
「少し前かな」
「どーなってんだよ、現場じゃ沙夜香のバッグが無いって、みんな不思議がってたのに」
そう話す瞳に目を赤くはらした和美が聞きたくなさそうな表情で尋ねる。
「沙夜香、やっぱり殺されたのか…」
その表情に瞳が少し話し辛そうな表情で口を開く。
「俺が行った時はもう沙夜香は運ばれていった後だった。背中と首をナイフでばっさり切られてたらしい、可愛そうだよ。只、目撃者の話からするとどうやら誰かに追われていたらしい。なんか俺も基地の公安にいろいろ聞かれて大変だったぜ」
「沙夜香のカバンがここに有るの、まずくねーか」
ぼそっと喋る和美がバッグを指差して呟く。
「確かにまずいかもな、只追っていた男は人相悪い奴ばっかりだったし、お前ずっとここにいたんだろ?アリバイ有るだろ?」
そこで和美はさっき沙夜香がここに来て例の機械に入った事を瞳に話した。当然瞳は全く信じない。
「んなバカな話があるかよ!おめー!夢でも観たんだろ!?」
「じゃあここに有るバッグは何なんだよ」
「ずっと以前に沙夜香がここに来て、あれ、俺がここ出たの数時間前だよな…その頃には沙夜香はもう…」
二人が何やら只ならぬ物を感じた時、ドックの外に誰やら来た様子。
「カラカサ号ですね。公安の者ですが」
さっき現場で公安と話していた瞳が、すっと席を立ち搭乗口に向う。
「ちょっと行ってくる。そのバッグは今朝ホテルの部屋に沙夜香が持ってきたという事にでもしとけよ」
ところがドックのハッチを開けた瞳がそこで見たものは、小型の銃らしきものを手にした小柄な男だった。一瞬ひるんだ瞳に男は銃を首につきつけ、カラカサの中に行く様に指示。
「和美って奴がいるだろ。沙夜香といい仲になったそうじゃねーか。会わせてもらおう」
小柄のくせに意外に力強い男に横に付かれたまま瞳はコックピットに向う。
「和美…、その、お客…」
振り返った和美は、その異様な光景にはっとする。瞳を片手で抱きかかえる様にし、もう片方の手で銃を首筋にあてているその男は、確かに昨日沙夜香の工場の前で会った男だった。
「よう、また会ったな和美さんよ。さあ、ダイヤを渡してもらおう」
その言葉に和美は一瞬きょとんとする。
「ダイヤって、何の事だ?」
「てめー!お決まりの文句並べてんじゃねえ!」
鈍い音と共にいきなりその男は和美の座っているソファーに二発の銃弾を打ち込む。
「ま、まて!俺には何の事だかわからん!」
男の様子から、かなり興奮しているらしい。男はまだ煙を吹いている銃口を再び瞳に当てる。
「和美、何かわからんけど、言うとおりにした方がいいぜ!」
片手で男に抱きかかえられたままの瞳が、その銃口から顔をそむける様にして和美に叫ぶ。
「だから、何の事だ!俺にはわからん!」
和美が両手を挙げながらソファーから立ち上がる。
「あるじゃねーかここに」
男は、瞳を抱えたまま、和美にテーブルの上の沙夜香のバッグからケーキを入れた箱を取り出し、中身を出す様指示する。
「おっと静かにしててくれよ」
片手で瞳を抱えたまま男は、もう片方の手に持った銃でパイをつつき始める。
「ここにあるはずだぜ…」
しかし、その男の顔が次第に険しくなっていくのを和美と瞳が見逃さなかった。次第に荒々しくわけのわからない声を上げ、手に持った銃でパイを床に叩き落した後、男は抱えた瞳をソファーに突き飛ばし、二人に改めて銃を向ける。
「おめーら、ダイヤどこに隠しやがった!」
荒々しい息遣いで怒鳴る男、とうとう短気な和美が切れる。
「知らねえものは知らねえよ!さっきからダイヤダイヤって、沙夜香がパイの中に隠したとでも言うのかよ!」
「それを捕ったのがお前達だろうが!俺達の獲物捕るとはいい度胸してるじゃねーか!」
「沙夜香殺したのはてめーか!」
「裏切り者は消すさ、おめーもな!」
瞳が男の気配を汲み取る。
「和美!伏せろ!」
瞳が和美の頭に手をやり、力任せに顔をテーブルの下に押しやり、自分もテーブルに顔を伏せる。目の前にパイの残骸が有ったがそんなの気にしない。と部屋に大きな音が聞こえた。しかし、それはさっきの銃声の数倍大きな音、とともに
「ぐあぁぁぁぁぁ!」
男の悲鳴に和美と瞳が顔を上げると、男は尚も低い唸り声を上げ、片手を押さえコックピット内の装置にぶつかりながら出て行った。あわてて男を追おうとした和美を瞳が止める。和美が振り向いた先には、顔中パイのかけらを付け、何やら黒いものを摘んだ瞳がいた。
「奴の銃、暴発したらしい」
「暴発!?どうして?」
「わからん…。まあそのせいで助かったんだが」
瞳はそう言うと、銃口が変に膨らみ、銃身が一部欠けた男の銃をテーブルに置き、顔中についた沙夜香のパイの破片を一つ一つ取り始める。と、何か茶色のクリームの様な物を指でぬぐい、それを口にした瞳が不思議な顔をする。
「和美、これ…」
「なんだよ、ダイヤでも有ったのか?」
「違う、暴発したのはこれが銃口に詰まったのが原因じゃねーか?沙夜香が救ってくれたんだ…」
「どういう事だよ」
「沙夜香の今日持ってきたパイ、ほら最初に持ってきたろ。熱を加えると膨張して硬くなるアルムの実…このペーストが銃に詰まって、熱で膨張して硬くなってさ」
はっとした和美は、瞳の指についてたそのペーストを自分の指にうつすして眺める。
「砂糖加えてペースト状にすり潰して…、パイに入れてたんだ」
和美はそれを見て呆然とする。頭の隅で、
(よかったねー)
沙夜香の声が響いた気がした。と、その時コックピットにいきなりチセが映る。いきなり聞こえてきたチセの声は何やら怯えていて良く聞き取れない。
「なんだって?チセ」
ようやく聞き取れる様になったチセの言葉が震えている。
「あ、あ、あ、あんたの所に、さ、ささ、沙夜香が来たって言う時のさ、モ・モ・モニターの映像を取り寄せてさ!み、、みてみたのよーーー!」
瞳がふとため息をつく。
「取り寄せたんじゃなくて、ハッキングしたんだろ?全く悪い奴だなあ」
「そんな事言ってる場合じゃないの!これみてよ。今切り替えるよ!」
チセの顔が消え、チセがハックした軌道ステーション内のドックの入り口のカメラ映像に変った。それを覗き込む和美と瞳の顔がだんだん恐怖にゆがみ始める。
「さ、ささっ、沙夜香の、ゆ、幽霊…」
横でチセの怯えた声が聞こえる。そこに映っていたのは、人の形をした真っ白な煙の様なものが大急ぎでカラカサ号のドックに向って移動してくる姿だった。ドックの前についたそのもやの様なものは、真っ白なは半透明のメイド服の少女に姿を変え、そして何かを待つ様に扉の前で足踏みとかしている。
「幽霊にしては、可愛らしいじゃねーか…」
瞳がぼそっと呟く。
いつのまにか地球時間の朝を迎える。
和美は自分の見た沙夜香の正体が判ってから、がっくりうなだれコックピット後ろの小さな倉庫に閉じこもって出てこない。
「ほら、和美、沙夜香の宇宙葬始まるよ。いい加減に出てきなよ」
「うっせーー!ほっといてくれ!」
モニターのチセが呼びかけるが、閉じこもった和美は出てきそうもない。
暫く沈黙が続いた後、さっきから何やら情報を集めていたチセが、大きくため息ついた後モニター越しに皆に話し出す。
「沙夜香ってさ、お菓子作ってた両親早いうちに亡くして、ずーっとひとりぼっちだったんだ。
高校出て両親の使ってた工場でお菓子作ってたんだけど、いつのまにか密貿易に関わる様になってたんだよね。
手術代貯める為に。最近は関税のがれの一般宇宙商艦も相手にしていたそうよ。貴重品をパイに隠してね…」
「そんな事までしてたのか」
瞳はそう言いつつ、コックピットから遠くに見える軌道ステーションの一段高い展望台を見つめている。
宇宙葬はそこで行われており、そしてその様子は放送局によってCHのひとつで放送されていた。
「沙夜香、可愛い娘だったなあ」
「娘じゃないよ」
「ああ、そうだった…」
悲しそうにつぶやきながら一瞬うつむいた瞳は、ふと目に指を当てると再び展望台の方を向いた。
「ねえ、沙夜香ってさ、自分が死んだ事今でも気づいてないんじゃないかな」
モニターのチセがちょっと笑顔で続けた。
「だってさ、体は死んでも魂の方は必死でカラカサまでたどり着いたんでしょ。そこで念願の女性化の処置したんだし…」
「そんなのわからねーよ」
チセの話に、相変わらずクールな瞳が答えた時、
「沙夜香は女の子になったんだよ!少なくとも、俺があの機械動かして、ちゃんと女の子にしてやったよ!」
和美の涙ぐんだ声が倉庫から聞こえてくる。
「長い間つきあってるけどさ、あんな和美、初めてだよ」
「一目惚れしたんだったらさ、素直にそう言えばいいのに…、まあ、沙夜香男だったけどさ」
「よせよ、あいつには自分が沙夜香に一目惚れしたって事がわかんねーんだよ」
相変わらず展望台の方を眺めながらチセにそう言うと、瞳は和美が閉じこもっている倉庫の方をふと振り返った。
倉庫の中で和美は、もし沙夜香が無事女の子になったら、カラカサ号で働かせる為にと準備したあのスチュワーデスの衣装を手にして、流れ続ける涙を必死でこらえようとしていた。
倉庫内でのモニターでも、沙夜香の宇宙葬の様子が流れていたが、あまりにも辛いのか、和美はそれを観る事は出来なかった。
つい先ほど届いたその衣装は、もう和美の涙でぐっしょり濡れている。沙夜香の肉体は既にかなり女性化していたのだろうか、沙夜香が試着したそのスーツからはかすかに甘い女性の香りが漂っていて、それが更に和美を悲しませていた。
「和美、大丈夫だよ。もし今でも天国ってのが有るんだったらさ、女の子になった沙夜香はそこで元気でまたパイとかケーキ作って売ってるよ」
「うるせー!知った風な口利くんじゃねえ!」
「和美!いい加減にしないと怒るよ!」
とうとうチセが怒った声で和美をたしなめる。しかし、
「和美って、意外とああいう所あるんだ。ちょっと見直したかな…」
ぷっとふくれてチセが独り言を言う。
昨日の死者は沙夜香の他にもう一人、なにやら事故で死んだ地表に住むとある実業家らしい。大勢の人の立会いの下、たくさんの花輪が添えられ、そして二四発の空砲の後、遺体の入ったカプセルは無事元冥王星の軌道に打ち放たれる。そしていよいよ沙夜香の番だった。
大勢いた人々は消え、沙夜香が眠るカプセルには一人の女性が花束を置いていた。
宇宙葬を放映しているモニターを見ると、どうもそれはメルティー・ミルキーの様だった。
係官も立会い一人を除いて全員が展望台の中に隠れる様に入っていってしまう。
「おい!なんでだよ!なんで沙夜香の時はメルティ一人なんだよ!寂しすぎるじゃねーか!」
倉庫から聞こえる和美の声にチセが答えた。
「あの子は重罪人なんだよ。軌道ステーションの中をあれだけおおっぴらに密輸とかしてたんだし、ゼノンの信用ガタ落ちなんだからね。
今なんとかゼノン本部に知られない様に冥王星ステーション基地のお偉いさんとかが暗躍してると思うわ。沙夜香に密輸を依頼した奴達も、今頃は沙夜香一人の犯行にする為にいろいろ工作してるんじゃない?それでね、ここでは罪人の葬式は立会い一人だって決まってるの」
「…あんまりじゃねーか、あいつはただ、女になりたくて、遊びもせず、只必死で…」
和美のくぐもる声が聞こえてくる。ようやく宇宙葬の様子を倉庫のモニターで観れるまで落ち着いた和美。その前のモニターでは、長々と泣きながら長い弔辞を読んでいるメルティに、係官が発射時間だからと中止を呼びかけている様子。
「まて!沙夜香!行くな!」
メルティが係官に引きずられるのを見た和美は、とうとう我慢しきれず倉庫から飛び出し、瞳の横で遠くの展望台を凝視する。
「一〇・九・八…」
まるでゴミを捨てる様な粗末な宇宙葬も終わりを向えはじめた。
「沙夜香―――――!」
和美の悲痛な声と同時に、沙夜香のカプセルが火を噴き、元冥王星軌道上に発射される。カプセルは暫く軌道を周回した後流れ星となり、地表付近で消えるらしい。
「くそぉぉぉ!」
和美は腕で顔をぬぐうと、コックピットのすぐ下の普段使わない部屋に通じるハッチを開け、そこに体をすべりこませた。そこは万一の海賊などの襲撃用の小型ミサイルの砲台。それを見た瞳は大慌てで静止する。
「和美!バカ!やめろ!何する気だ!あの展望台を砲撃したら只じゃすまねーぞ!」
「砲撃なんかしねーよ!何言ってんだ!」
和美が何をするのか不安でおろおろする瞳の耳に、複数の砲撃の音が聞こえた。
「わーーー!バカ、何するんだ和美!」
展望台の方へ軌跡を残して飛んでいくミサイルみたいな物。しかしそれは展望台のはるかさき横を通過し、次の瞬間、大輪の花火が咲いた。
「和美…」
次々と同じ場所に花火が咲き、宇宙葬を放映しているモニターからも、アナウンサーの驚いた声が聞こえてくる。
「沙夜香!元気でな!あの世でもちゃんと、美味しいケーキ作るんだぞーー!」
そう言いながら和美の放った最後の花火は、今までの三倍近い大きな花を咲かせ、軌道上を無数の星で飾った。
「あれ…、カラカサのローンが払い終わった時に打ち上げる予定だったのに…」
瞳が少し残念そうにモニターのチセに話しかけた。花火を打ち上げた和美が砲台から戻ってきた時、
「お、おい、あれ…」
とカラカサ号のコックピットの上をかすめ、別のロケットみたいな物が飛んでいく。
「和美…あれは!?」
「し、知らねえ!俺じゃねえよ!」
そのロケットはさっき和美が打ち上げた花火の爆発した地点まで飛んでいき、そして爆発。
「おい、あれは…」
そのロケットが爆発した地点では、花火ではなく、何と無数の星で描かれた巨大な可愛いメイドさんが現れる。そしてその時、
「はあーい、大変だったみたいね。どうだった?あたし達の指向性信号弾?」
「ミキがさ、アキバー星で冗談で買ってきたんだけどさ、使い道無かったの」
「今日の日にぴったりだよね。ねえ、軌道ステーションに怒られるなら仲間がいた方がいいでしょ」
別のモニター画面が開て聞こえてきたのは、遅れて来ると言ってたあのスーパーキャンディーズの三人組だった。
「おまえら、マジで感謝するぜ!」
ようやく和美の顔に少し笑顔が戻る。
「あのケーキ、大好きだったのになあ」
「大丈夫、蘭がもう動いてるみたいよ。メルティに後やらせようかってさ」
「当局としてさ、穏便に済ませたいなら、あの人気のケーキ屋なくすよりは、代わりに誰かにやらせた方が事荒立てなくて済みそうに思わない?」
「わー、お姉ちゃんさっすがー!」
和美の悲しい気持ちを知ってか知らずか、勝手に盛り上がる三姉妹。その声で和美の沈んだ気持ちも少し回復し始めたのは間違いない。
「しかし、密輸したダイヤって、どこへ行ったんだ?」
和美の言葉に、ふと瞳はテーブルの上に乗っている沙夜香の幽霊が持ってきた大きなバッグを見つめ、そして中を調べる為に近づく。程なくして瞳は和美の方へ向き直る。
「和美、あったよ」
「え、パイの中には…」
「パイじゃねえ、今回だけここに隠してたんだ」
瞳はそう言うと、バッグの中からパックのジュースを取り上げた。瞳がそれを振ると中からカラカラと小さな音がする。注意深く中身を横の空の小物入れに空けると…、
「これか、沙夜香が残りの代金として俺達に持ってきたのは…」
オレンジ色の液体の中に、透明・ピンク・ブルーの色の付いたダイヤが有る。瞳はそれを手でつまみ上げ、調べる様に目元に持ってくる。
「地球産だろな。この大きさだと一つ、500,000Crはするぜ」
「こんなものの為に、沙夜香の奴…」
再び和美ががっくり肩を落とす。
短い間だったが、後から思うと楽しかった沙夜香とのひと時が次々と脳裏に浮かんでは消えた。
ケーキ工場で一生懸命になっている沙夜香、子供達に売れ残ったパイを笑顔で分ける沙夜香、そして食品取引場で人気者だった沙夜香、そして展望台での挨拶かわりのキス…やっとそこで和美は、自分が沙夜香に一目惚れしてたんだと気づいたらしい。
「最初から、ここで働いてくれと、言えばよかったんだ」
そろそろ消えかかっている信号弾の最後を見届けながら、再び顔を手でぬぐう和美だった。
その間瞳の姿をモニターからじっと見ているチセの姿が有った。チセも少しは思いを寄せている瞳が、コックピットの窓越しに展望台を見ている姿。以前ならそんな格好で見る事はなかったのに。
多分無意識だろうと思うが、窓枠に両肘を付き、顎をその上に乗せ、お尻を少し突き出す様なポーズ。片方の足はもう片方のかかとの後ろで、つま先でトントンとリズムを取っている。
(瞳、それやばいんじゃないの??)
チセは瞳がモニターから消えるまで、その後ろ姿をじっと見つめていた。
「このダイヤどうする?」
「貰っとくよ。どうせよからぬ方法で奴らの手にわたったんだろ。届けたりしたらまた面倒だしさ。俺、初めて一生ものの宝を手に入れたよ」
信号弾の最後の星が消えるのを見届けた後、和美は出発の為カラカサのメイン電源とエンジンを起動させた。
女の子になりたい、ただそれだけの自分の夢の為にケーキを売り続けた沙夜香。その強い思いが引き起こした一つのあやまち。それは大きな代償となって沙夜香に降りかかってしまった。
後に宅配ケーキショップ「SAYA」は正式にスーパーキャンディーズに引き継がれ、いきなり後を任されたメルティーは、その味の再現に相当苦労したらしい。
でも、確かな事は、和美や瞳、そしてチセ、キャンディーズ、そして沙夜香のケーキのファン全員がこう信じている事だ。
天国で女の子に生まれ変わってケーキを焼き続け、天国のあちこちに宅配を続けている沙夜香の姿を。