「ゆっこ!よく聞いて!あたし今追われてるの!」
その日の夕方、純ちゃんの携帯からかかって来た電話からは、只ならぬ気配が感じられた。
「純!純!!今どこ!」
「渋谷のどこかだけど、追いかけられて迷っちゃったの。昨日のあいつらかもしれない!今隠れてるんだけどさ!また電話する!」
「そっちに行くから何か有ったら携帯に電話して!」
僕はゆり先生に言って、先生から警察に純ちゃんを保護してもらう様に御願いして貰った後、僕自身はともこちゃんとまいちゃんに連絡し、渋谷に集まる様に言って、そのままゆり先生と共に家を出た。それにしても純!自分で行くなって言っておきながら!最近純変だよ!
渋谷に行くまでに純ちゃんに何回も電話入れるけど、全然繋がらない。ゆり先生もとても不安顔になっている。駅に付いた時電話するとやっと繋がった。どこかのビルの踊り場に隠れているらしいけど、場所が全然わかんない!ゆり先生が僕の携帯をひったくる。
「純!いいから携帯繋ぎっぱなしにしておきなさい!時折切れてないか調べる事、わかった!」
僕はゆり先生から携帯を奪い返す。
「純!ねえ!ねえ大丈夫なの!」
「わかんない、囲まれてるかも…あ!やばい!見つかりそう!!」
多分携帯をバッグにでも入れたのだろう、色々な雑音が聞こえて来る。
「ゆり先生!ねえ、どうしたらいいの!」
ともこちゃんがゆり先生の服を掴んで引っ張る。その時ゆり先生の携帯が鳴った。それはまいちゃんからだった。
「まい!今どこにいるの!!え、ミサも一緒!?良かった。とにかく純を探して!変なチーマーとかが走ってたりしたら注意して!」
まいちゃんは美咲先生と一緒に別の所を探して貰えるみたい。
僕はずっと携帯から耳を離さなかった。その時その携帯から只ならぬ騒ぎ!数人の男の怒号や奇声が純の声と入り混じる!ああ!遂に!
「ゆり先生!純が!純が捕まった…」
無言で顔に手を当てるゆり先生。
「ねえ!ゆっこ!どこにいるかわかんないの!」
「静かにして!!」
すっかり泣きべそかいてるともこちゃんを制し、僕は全神経を携帯に集中させた。少し遠いけどはっきりした会話が聞こえて来る!
「…いろいろ面倒かけてくれちゃってぇ!どうしてくれんのぉ!…」
「なんで、なんであんたたちが今ここにいるのよ!」
「はぁ?いたら悪いのかよぉ!」
その時何かを叩く様な声と純の小さな悲鳴!純ちゃん撲られてる!!
「…とっちゃん!こいつどうするよ…」
「…只で返す訳にはいかねえなぁ…、まず昨日のお礼はしないと…まずネクタイのお礼だ」
ネクタイって、なんであのおたく男がそこにいるの!?警察じゃないの!?そいつ、とっちゃんて呼ばれてるのか!
何かがこすれる様な雑音が響き、多分純ちゃんだろう、微かなうめき声が…。おねがい!純!今どこにいるのか言って!!
「…待ってよ…じゃあ話ししようよ…うっ…、すぐそこのさ、エンジェルキッスってホテルでさ…、ほらそこにエンジェルキッスってラブホ有るじゃん」
「エンジェルキッス!ラブホだって!ねえ!知ってる!?」
大声で僕が皆に聞く。
「あ、あたし心当たり有る。可愛い名前だったから!確かこの近くのはずだよ!」
そうが叫ぶや、ともこちゃんが走り出した。僕も、純ちゃんの命とも思える携帯の電波が途切れない様祈りながら、その後を追った。
「もしもし、先程の女の子の保護を御願いした者ですけど、渋谷の道玄坂のエンジェルキッスというホテルの近辺で襲われているみたいなんです!…」
ゆり先生も走りながら携帯で警察に連絡していた。
「とんちゃんさー、あたしやっぱりむかつくーぅこの女!仲間にするなんてやだよー」
「あたしもむかつくぅ!こんな時にでもさー、自分で仕切ろうとしてんじゃん!」
あのガングロ女達もいるのだろう、携帯からあの女達の声も聞こえる。
「あたし、仕返しまだやってないしぃー」
「……痛っ…」
携帯から大きな雑音の後、パチッという音と共に純ちゃんの声。純!ひょっとしてビンタされてる!そして立て続けにビンタの音が!
(早く!早く、まだ着かないの!!)
そうこうするうちに、ともみちゃんは細い路地の方へ走っていく。ふと近くの建物の看板を見ると、有った!!(エンジェルキッス)の看板!とそこへ一人の自転車に乗った警官が通りかかる。
「お巡りさん!この辺です」
皆口々に叫ぶ。
「連絡してくれた人ですね。分りました。おおい!誰かいるのか!」
警官が自転車で路地に入り込んで行く。ところが、携帯からは!?
「とっちゃん!誰か来る」
「なんだよこんな時にさあったく!おい、お前達時間稼いで来い!でもおかしいよな…なんで分かったんだよここが??」
すると路地の奥から二人の金髪のチーマーが走ってくる。そいつらは自転車の警官を見つけると、顔を見合わせ大胆にもその前にたちはだかる。
「ねーえ、おまわりさーん!ちょっと道教えてほしいんだけどなあ」
「うん、俺達道に迷っちゃってよーぉ」
ひどい!警官が倒れそうになってる。
「君達、この奥から来たのか。誰か他にいるのか?」
「え?この奥?いねえよ。いねえったら!それより道教えてくれよ!渋谷の駅どうやったら行けるんだよ!」
「おめえ、おまわりだろ!困った人助けねえのかよ!」
奥へ行こうとする警官の前に立ちはだかり、邪魔をするあいつ!確か純にバタフライナイフ付き付けた奴!もう許さない!絶対許さない!僕はゆり先生のの制止を振りほどいて走りだし、警官とチーマーの横を擦り抜け、路地の奥へ向った。
「あ、てめぇ!」
「待て!この野郎ぉ!」
チーマーが追ってくるが、警官がそれを制し、もみあいとなっていた。
すでにおたく男(とっちゃん)によって、純のバッグから暗闇に光る携帯が見つかっていた。そいつは携帯をコンクリートに叩き付け、純に迫る。
「最後の最後まで、君は本当に俺達になめた真似してくれるね。もう俺の我慢も限界だよ!」
おたく男の手には、布で巻いたメリケンサックが握られている。
「あ」
純ちゃんの微かな悲鳴、その直後鈍い音がして、純の体は路地裏に飛ぶ。口から微かに血が流れている純ちゃんを数人の仲間が起こし、再びおたく男の元へ。
「とっちゃん!あたしたちも遊んでいい?ねえ、坊主にしてやろか」
「やめて!」
「いやあああ!」
純の悲鳴を少しも気にせず、ガングロ女は動けなくなっている純の髪の毛を根元から切り始める。
「むかつくよねー!結構綺麗な髪じゃん!」
頬を赤く腫らした純ちゃんは、それでもキッとその女とおたく男を見据えた。おたく男は純ちゃんにチッと唾を吐きかけた後、襟を掴み引き寄せる。
「おめえはとうとう俺を本気で怒らせてしまった様だ。ご褒美をやるぜ」
「ぶふっ…」
その途端純ちゃんの下腹部に強烈な痛みが走る。メリケンサックをしたまま、そのおたく男は連続して数発純のお腹を撲り始めた。
「きゅっ!」
あまりの痛さに純は悲鳴にならない悲鳴を上げ、お腹を庇おうとしたが、両足もチーマーによって締め上げられていた。
「いやあ!女を潰すのは久しぶりだなあ。可愛そうに、もうあかちゃん生めないよぉ」
「やめて!それだけは!やめて!」
「あははは!ちょいと潰させてもらうぜ!女の大事な子宮ちゃん!」
「いやあああああああ!!」
純ちゃんの悲鳴を聞いた僕は傍らに有ったモップを手に取り、暗闇に入ると、まさに純ちゃんのお腹を撲り続けている男達を目にした。
「おまえらぁ!何やってんだよ!」
僕はおたく男の背中にモップの柄で強烈な突きの一撃を食らわせると、他の奴等が純の手足を放し僕を捕まえようと襲ってきた。モップを持ったまま、今来た路地を引き返すと、そこにはともこちゃん、まいちゃん、そして応援が来たのだろうか、三人の警官とハチあわせしそうになった。
「とっちゃん、やべえ!ポリコだ!」
その声におたく男とチーマー共は塀を乗り越え、建物の壁を登り、散る様に逃げて行く。
「待て!」
警官がその後を追って行くが、僕達は真っ先に純を介抱しに走った。
「純!しっかりして!純!!」
目を閉じ、苦しそうにうめく彼女?の髪の毛は所々無残にも剥げが出来るまで切られ、口の回りは血と嘔吐物で汚れている。半分脱がされたスカートからショーツが見え、そのショーツの上のお腹全体が赤紫色に腫れあがっていた。
「純!純!」
ゆり先生は号泣しながら、ハンカチで純の口元をふき、胸で顔を抱きしめた。
「今、救急車呼びますので、お待ちください!」
戻って来た警官の声に、ゆり先生はびくっとして答える。
「あ、私の家に運んで下さい!。私医者ですから!家も医院やってますし!」
「しかし、一刻を争います。救急施設の有る指定病院に運んだ方が…」
「いいです!私達で何とかしますから!」
「いや、しかし!」
「早く!救急車呼んで!そして○○の早乙女クリニックへ運んで!おねがいだから!」
始めて見るゆり先生の鬼の様な形相、それにたじたじしながら警官は連絡を取っていた。そうだよね。普通の病院なんかへ運ばれたら、純の秘密がばれちゃうもん!
ゆり先生は少し落ち着きを取り戻すと、携帯で連絡を取り始めた。
「まいちゃん!ミサに代わって……ミサ!純が大変なの。こっちはいいから、うんすぐ早乙女クリニックに行って鍵開けて!地下のベッド用意しておいて!そして結城先生に連絡して、すぐ来てもらって!お願い!いいから!後で話すーっ!」
何とか無理言って救急車で早乙女クリニックに純を運び入れる事が出来た。早乙女クリニックが精神科と分かって不審に思っていた救急隊員も、その地下にあるかなり大規模な外科手術室を見たり、結城先生という外科医と数人の看護婦の姿を見るなり少し安心していたみたい。隊員の一人は、その結城先生と顔見知りの様な感じを受けた。
「何か有れば再度連絡を」
と言葉を残して、救急隊員が去っていった。結城先生って、そういえば僕の手術の時、マニュピレータで捜査される手術器具の補助をする為に僕の横に立ってた、口髭はやしていた人だ。優しそうな顔だけど、目はすごく鋭い人。この人も表では普通の外科医って事になっているんだろうな。でも今はそんな事より!
「子供達は外!外へ出て!」
僕達を外科手術室の外へ追いやり、結城先生とゆり先生、美咲先生、そして看護婦さんが純の診察を。でも、結城先生がタオルを取って純のスカートを脱がせた時、ものすごく曇った顔をしたのを僕は見逃さなかった。その後純はレントゲンを取る為、ベッドごと奥の部屋に移された。そして暫く戻って来ない。
「ゆっこ…部屋で待ってようよ」
まいちゃんの言葉に僕も賛成。僕の部屋で口数も少なく、僕達は純の治療が終るまで待つ事にした。
「ゆっこちゃん!純ちゃんどうしたの!」
程なく河合さんが僕の部屋へ入って来る。仕事が終ってすぐこちらに来てくれたみたい。ともこちゃんが河合さんの胸に飛び込んで泣きべそをかき始める。事の次第を説明する僕の言葉を、河合さんがうなだれる様にして聞いていた。
「わかったわ。でも今日は皆もう寝なさい。私達がこうしていても、純がどうなる訳でもなし。明日警察とかでまたいろいろ話さなきゃいけないんでしょ?とにかく今日は休んで、明日に備えなさい」
河合さんの言葉に、僕達は忘れていた疲れを思い出したみたい。その日は僕の部屋で皆雑魚寝同然に疲れた体を休めた。
翌日の早朝、手術室の控え室に僕達は呼び出され、結城先生の横に座り、ゆり先生が経過報告してくれた。
「命には特に別状無いんだけど。全身数カ所の打撲、あごの骨と肋骨一本が骨折。そして、そして…」
いきなりゆり先生が顔を片手で覆い、むせび泣き始める。僕達は息を飲んだ。
「卵巣…子宮…共に破裂…。本来なら取り出す所を、結城先生が修復に努力されて、形だけは…何とか」
ところが、結城先生はその横で腕組みし、下を向いて低く呟く。
「回復の見込みは十%もねえよ…。本当に繋ぎ合わせる事だけしか出来なかった。本来の女性のなら、あれでも回復の見込みは有るんだが、あの娘のは特別だからな。豆腐を糸で繋ぎ合わせたみたいなもんだ…」
その途端、ゆり先生が持っていた書類を落し、大声で泣き始め、美咲先生がなだめる。結城先生が続けた。
「とにかく、純のためだ。機能停止した臓器をいつまでも体に入れとく訳にはいかない。早く…」
「先生!取っちゃうんですか!」
「先生!そんなの嫌だ!」
「純ちゃん!もう少しで女の子になれるのに!」
結城先生に食い付く様に僕達は激しく抗議する。しかし、
「バカな事言うな!」
結城先生の一喝で僕達はすぐ大人しくなった。
「純が死んでもいいのか!もし機能停止したら取り出さなきゃ腐っちまうんだぞ!」
あたりはシーンとなる。再び結城先生がゆり先生と美咲先生に話しかけた。
「ライ先生には俺から連絡しておいた。今日の夕方頃来るそうだ。只、かなりご立腹だったぞ。応対に気を付ける様に。それから警察にはちゃんと届けておけ、いいな」
ゆり先生と美咲先生がうなだれたまま頷く。そして美咲先生が顔を上げ、結城先生を見上げた。
「ライ先生、今日の夕方ですか…」
「ああ、俺も来るよ。怒られるなら多い方がいいだろう」
「私は今から陽子と真琴連れてくるわ。看病の人も多い方がいいでしょ。あ、河合さん、お店有るんでしょ?いいわ帰ってもらっても。後は私達でやるから」
「え、そんな…。ごめんなさい。でも何か有ったらすぐ呼んでね」
少しだけだけど、その場が和んだ。
平日だけど、僕は学校を休み、純ちゃんの看病をする事に決めた。時計は午前十時を指している。地下にある純ちゃんが寝かされているベッドに近寄ると、僕はあまりのむごさに口を手に当てた。顔は包帯ですっかり覆われ、空いている目の部分からは、うつろな目つきで天井を眺めている純ちゃんの目が有った。パジャマの上着の下も包帯で覆われ、左手には点滴の針が刺さっている。
「純…ちゃん」
返事が無い。そうだった、口動かせないんだよね。
「純ちゃん、痛む?痛いよね…」
天井を向いていた純ちゃんの目は、悲しいのか痛いのか、きゅっと閉じられた。僕はちょっと辛くてくるっと背を向く。と、純ちゃんの冷たい指が、僕の背中のブラのホックの下辺りに何か文字を書きはじめた。
「×?」
えっ?思って純ちゃんの方を振り向くと、彼女?は僕を見つめ、その指で自分をゆび指す。
(あたし、もうダメなんでしょ?)
純ちゃんの目がそう言っていた。
「違う!違う!そんな事なーい!結城先生がちゃんと手術してくれたもん!」
僕は、純ちゃんの手をしっかり握って首をぶるぶる振る。包帯の中から彼女?はそんな僕の顔をじっと見つめ、指をくるっと回した。純ちゃんの意を悟った僕は再び背を向けると、彼女?の指が再び僕の背をなぞる。
「ゆっこ、ありがとう」
僕はどう答えていいのか判らず、涙目になったその顔で純ちゃんの方に向き直る。と純ちゃんの目が笑った。そして彼女?の手が僕に向って可愛く振られる。
(ゆっこ、ばいばい。ちょっと一人になりたいから)
笑った彼女?の目がそう呟いてた。
「純!何か有ったら手元のインターホンのボタン押すんだよ!絶対だよ!」
はっきりとこっくり頷く純ちゃんの姿を見て僕は少しほっとして、ゆり先生の診察室へ向った。
診察室ではソファーでぐったりしている、ともこちゃんとまいちゃんの横で、ゆり先生が眠そうに目をこすりながら何やら書物をしていた。
「ゆり先生、純起きてたよ」
「そう…」
口だけで答えるゆり先生。依然何やらペンを走らせている。
「ライ先生への報告書なの、だけどさ、何をどう書けばいいって言うのよ!もう!」
そのままグシヤグシャと紙を丸めて、ぼさぼさの髪の毛を掻き毟るゆり先生。
「純起きてたの、そう。あ、今誰もいないわね。じゃ、あたしが付き添ってくる」
「先生、僕やるよ。ともことまい起こそう」
「いいの、あたしがやる。あんた電話番しててね。それから食事作っといて」
目をこすりながら地下室へ向うゆり先生。ともこちゃんも、まいちゃんも昨日たぶんぐっすり寝れなかったんだろな…。あ、食事作らなきゃ。
ゆり先生の机に座ってあれこれ考え始める僕。でも僕達のはいいけど、純ちゃんのはどうするのかな。点滴だけでいいのかな。あ、そうだベビーフード買ってきて、スプーンで食べさせてあげよっか。地下にいるゆり先生に連絡を取ろうと受話器を掴もうとした瞬間、それは鳴った。
「あ、先生?あ、あのね」
「純が!純が手首切った!!」
「えええええええ!!」
僕は受話器を持ったまま凍り付いた。嘘!嘘だよ!嘘だよね?そんなの純らしくないよ!嘘だよーーーー!
仰天した僕は、その直後の事を覚えてない!ともかく無我夢中でともこちゃんとまいちゃんを起こし、気が付くと、純ちゃんを抱きかかえている先生の横であたふたしていた。
「ゆっこちゃん!結城先生に連絡してすぐ来てもらう様に言って!まいちゃん!そこの点滴の器具と針用意して!ともこちゃん!そこの心電図の機械ベッドの横に付けて!!」
慣れない事に戸惑いながらも僕達はゆり先生に従い、何とか輸血は無事に開始されたみたい。電話番号のメモを片手に僕はそのまま大急ぎで電話を取り、結城先生に事情を話した。
「この馬鹿野郎!!お前らそれでも精神科医か!」
途端に電話の向こうからすごい声!ゆり先生に向って言ったんだろうけど、でもそんな事言ったって!。やっと僕達は事の重大さに気付き青くなった。
(純!純!なんてバカな事を!)
僕達はもう驚きを通り越し、声も出ず、ただ呆然と青くなった純ちゃんの顔を見ていた。さっき僕が離れた一瞬の隙に、純ちゃんは起きあがって点滴の針を外し、どこからか持ってきたメスで左手を切り、部屋から出て廊下を奥へ歩いて行き、途中で倒れたらしい。
廊下からは、まだ掃除されてないんだろう、純ちゃんの物と思われる血の匂いが漂っていた。
「ゆり先生!純助かるの!ねえ!」
まいちゃんの叫びにふと思い出した様に心電図と脈拍を見るゆり先生。生きている事は確かだった。でも!?
「大分弱ってる…純ったら、手術の麻酔がまだ残っているうちに手首を…なんであんたそんなに知恵が回るの!もう!」
純の寝ているベッドに泣き伏す先生を僕達は只じっと見ているだけ。その時玄関の呼び鈴が鳴った。
「あ、多分結城先生だ!」
僕は階段を駆け上がりドアを開けた。
「結城先生!純を…キャーーー!」
いつの間にか外はどしゃぶりの雨、そしてそこに立っていたのは!真っ黒なトレンチコートに黒いベレーの二mは有るガイコツのお化けみたいな初老の老人!偶然光った稲妻に照らされたその顔は、怒りで目を光らせた、あの…
「ラ…ライ先生…」
そしてライ先生の後ろから、結城先生と一人の助手みたいな人が無言で部屋に滑り込んできた。
「*'>¥¥!!」
僕を睨みながら、その怪物が何か中国語で怒鳴る。でも僕は恐怖と言葉が分からない事で立ちすくむ。
「ユリハドコダ!!!」
今度は日本語ではっきりと怒鳴る。
「あ、あの、地下室にいます…」
怪物は僕を突飛ばし、地下室に消えた。僕も起きあがってすぐ後を追う。地下室では突然現れたのライ先生を目の前にして、あきらかに慌てふためいているゆり先生、そしてその後ろに隠れる様にしてじっとライ先生を見つめるともこちゃんとまいちゃん。そして純の側に行き、いろいろ手当てしている結城先生が見えた。
「ライ先生…今日夕方いらっしゃるのでは」
「昨日から俺の医院で、前準備とか仕事してたんだよ!純が自殺を図ったと聞いたから、大急ぎで来たんだ!」
慌しく、止血で紫色になった純の左手の処置をしながら結城先生がいらいらしながら答えた。
「コノオオバカモノ!!」
怪物の一喝に一同シーンとなる。
「ライ先生、申し訳御座いません…」
ゆり先生が怪物の足元に土下座、でも怪物の怒りが収まらない!
「ダマレ!キサマ!キサマハ!」
ゆり先生が気になって、僕はその元に駆け寄る。
「ユリ!キサマハ!クビダ!」
「クビ!?…」
その時一気にゆり先生の疲れとショックが吹き出したのだろう、気を失ったみたいにその場にぐったり崩れた。
「先生!」
「ゆり先生!」
ともこちゃん、まいちゃん、そして僕が駆け寄る。僕は一方的に喋るライ先生に一言言い返したくて、怪物をキッと睨んだ。その時、
「デテウセロ!」
お腹にずっしり来る咆哮の様な怒鳴り声が、容赦無しに僕達に浴びせられる。
「ゆっこちゃん、ひとまず、ほら!」
横で純の手首の治療していた結城先生が、手で「出ろ」のサインを送る。僕達は三人でゆり先生を抱え、部屋のソファーに寝かせた。
暫くして、たぶんともこちゃんが呼んだのだろう。河合さんが飛び込んで来た。そしてほぼ同時に陽子ちゃんと真琴ちゃんを連れて美咲先生が到着した。
「純が!自殺!?そしてライ先生が!?なんで!どうして!どうしてなの!?」
あっちゃー、というポーズで美咲先生が額に手を当て、壁に倒れかかった。陽子ちゃんと真琴ちゃんが心配そうに、寝ているゆり先生の顔を覗き込む。二人もまた変わったみたい。茶色のセータに黒のスカートの陽子ちゃんはもうお尻の小さい所除けば、もうほぼ女の子。真赤なセーターに茶のミニスカートの真琴ちゃんの胸はぷっくり脹らんで、前見た時はまだ殆ど男だった足のふくらはぎは、ストッキングに包まれ女らしい丸味がでている。ううん、今そんな事見てるところじゃない!
二人に顔を覗かれて、ふとゆり先生が目を覚ました。
「いいよ、純今手当て受けてるから、心配しないで寝てなよ」
僕もゆり先生の顔を覗きながら言う。
「あ、だめよ。私も起きなきゃ。あ、あたしクビになったんだっけ」
「ゆり先生!絶対辞めないでよ!」
ゆり先生が起きあがり様、僕の頬を手でタッチしてくれる。それから暫くして結城先生一人が部屋に入って来た。
「結城先生!」
「先生!純は?純は!?」
口々に僕達が声を掛ける。
「ゆり君は?ああ大丈夫か。ああ、美咲君来てたのか、ご苦労様。とりあえず命には別状無いよ。それと、こんなのが…純のベッドの中に有った」
ちょっとうつ向き気味に紙切れみたいな物を白衣のポケットす結城先生。ゆり先生が受け取り、それを眺める。その途端…。
「こ、これ!純の…遺書じゃん!」
「えーーーーーーーーー!!」
皆がその紙切れを見ようと群がり、美咲先生がそれを傍らのテーブルに広げた。
「純…いつのまにこんな物を…。あの子本気で死ぬ気だったんだ…」
片手で書いたのだろうか、何かの医療機器の広告の裏に、乱れているけど細かい字が鉛筆でびっしり綴って有る。
「ゆり先生、美咲先生、結城先生、それとみんな、本当にごめん。これ読んでるって事は、私今もうこの世にいなくなってるんだろな。あのね、あたし全部聞いてたんだよ。私の治療中の時の話しとか。本当はもう取らなきゃいけないんだけど、あんまりだからって、結城先生が戻したんだよね。わかるんだよ、自分の体だもん。もう卵巣とか子宮とか血が巡ってないって。もう私どうしていいかわからない、でも私が原因でこうなったって事分かってるから。もういいよ、疲れちゃった。みんな本当にありがとう。
ゆっこ、ともこ、まい、ようこ、まこと。女になるんだったら、もう絶対あたしみたいな事しちゃだめだよ。本当に。本当に女ってさ、はかない生き物だもん。いくら強がってもさ、いくら抵抗してもさ、男に捕まって押し倒されたら、もう終りなんだよ。本当、もうどうする事も出来ないんだもん。
そうそう、もしさ、何か困った事有ったらさ、空に向って手振りなよ!背後霊みたいにさ、後について守ってあげるからさ。絶対そうしなよ。 じゃね 純より。
本当に今までありがとう!みんなありがとう!ゆり先生!あのクリスマスの夜私を拾ってくれた事、介抱してくれた事、絶対忘れないから!」
「純は大丈夫だよ」
その言葉は皆の耳には入らなかった。皆その文字を指で撫でる様にして読み、皆鼻をぐすぐす言わせ、涙を拭いている。そして言いずらそうに、でもはっきりした口調で結城先生が僕達に驚くべき事を口にした。
「純は…純はたった今から香港へ、香港へ送られる事になった!」
純が!!香港へ!?どういう事!!皆の口々からは言葉にならない声!大騒ぎになった。
「ちょっと、結城先生!それってあたしから純を取り上げるって事!?」
非情にも結城先生はしっかりと頷く。
「ちょっと!先生!今までの事は本当にお詫びします!だから!純を連れて行くのだけはやめて!御願い!あたしの子宮とか卵巣とか!必要ならあの子にあげてもいい!だから!純を連れて行くのは止めて!あたしから純を取り上げないで!!!」
「結城先生!それって!あまりにもひどすぎます!ゆりは何も悪い事してません!悪いのは渋谷でのさばってるあの悪共なんです!ひどすぎます!あんまりです!」
悲鳴と言ってもいい様に言葉がゆり先生と美咲先生の口から出る。結城先生も辛そうな表情、でも言葉は非情だった。
「極端な管理不行届…これはライ先生の決定だ!俺にはどうしようもない!それに、既にゆり君はもう我々の研究組織の人間では無い!俺も辛いがわかってくれ!」
結城先生が地下室に戻っていった後、暫くの間皆何も喋らなかった。放心状態のゆり先生に寄りそう様に美咲先生と河合さんが体を寄せて項垂れている。僕達はどうしていいか判らず、ただソファーに座り、純ちゃんの無事を祈っていた。
それからまた暫く経った頃、急に玄関が騒がしくなった。
「まさか!?」
診察室から飛び出した僕の目に映ったのは…僕の予感は当たった。何人かの私服のアジア系の男達がドアを開け、次々と地下室へ入っていく。
「純が連れて行かれる!!」
僕の悲痛な叫びに、部屋から飛び出してくるゆり先生達!でも新たに入って来た東洋系の男達三人にドア付近で僕達は阻止されてしまう。
「やめて!純を連れてかないで!!」
皆が口々に叫ぶ中、点滴器具付けたベッドごと純ちゃんが地下室から運び出されて来る。僕達は男達の妨害を何とか突き抜け様と手足をばたばたさせるけど、半分女の子の肉体になってしまった僕達の抵抗は空しく男達に阻止されてしまう。
皆の悲鳴の中、とうとう純ちゃんは玄関から外の車へ乗せられた。最後に出る間際、結城先生が僕達の方をちらっと見た後、辛そうな表情で玄関から出て行く。
「結城先生!ライ先生を止めて下さい!御願いです!」
もう声も出ないゆり先生の横で美咲先生が叫ぶ。しかし、結城先生は純を乗せた車に乗り、どこかへ。
「純…いっちゃった…」
その直後地下室からライ先生が上がってきて、僕達を押さえていた男達に指図すると、男達はさっと玄関から外に出て行く。僕達は怨みを込めた目を一斉にライ先生に向けた。だが、その怪物は何やら中国語で僕達に怒鳴る。僕達には分からないけど、ゆり先生と美咲先生が聞いていた。
「河合さん、子供達をゆっこの部屋に連れて行って。もういいって言うまで決して外に出さないように」
河合さんが頷く。
「やだ!あたしたちも怪物にいっぱい言いたい事有る!!」
陽子ちゃんとまいちゃんが抵抗するけど、皆仕方なく僕の部屋に集まった。診察室に怪物とゆり先生と美咲先生が消えていく。