ひゃっはー!ここから先はにゃんにゃかにゃん!

不幸は突然やってくる!?

「マリア(真莉愛)ちゃん、いつもありがと。ほら、これ持ってきな」
「あの、いつもいつも、いいんですか?」
「いいんだよ。綺麗にしてもらったお礼さ」
「ありがとうございます」
「しかしまあ、紫音ちゃんといいあんたといい、二人とも男だなんて、世の中変わったねえ」
 日付はもう翌日。お客さんが帰った後の深夜の猫鰹飯店。清掃のバイトが終わった後、いつも残り物を持たせてくれる店のおばさんの言葉に何と答えていいかわからずに、只少しひきつった表情でただ笑っているあたし。
「じゃあ、また明日よろしくね」
「はーい、おやすみなさい」
 貰った肉団子と春巻きの包みを手に、深夜の街中をにゃんにゃか荘へ急ぎ足で戻るあたし。
 なんかあたし掃除のスキルはあるみたい。というか、昔から綺麗にしないと気が済まない性分だったから、店の厨房の床とか壁のタイルとか、もう汚れていたら綺麗にしないと気が済まない。調味料入れなんて全部中身を一旦取り出して綺麗にしちゃった。
 あたしの努力で築三十年の猫鰹飯店の超汚かった厨房は、ようやく普通の小綺麗な厨房に。
 バイト料は月に十万も満たないけれど、紫音さんの食事の支度と部屋の清掃で半額彼に出してもらってるし、食事だって猫鰹飯店からもらってるおかずと紫音さんが出してくれる食材費であまりかからない。うん、なんとかあたし東京でやっていけそう。

 あたしがにゃんにゃか荘に来てから二週間位たったある日の朝、いつも通り紫音さんのどうでもいいうんちく話聞きながら朝ご飯食べていた時、
「紫音!紫音おるか?頼みあるんやけど…」
 にゃんにゃか荘の玄関で、なんかテレビドラマで観た大阪弁のおばちゃんそのものの声で紫音さんを呼ぶ声。応対するはずの管理人の遥さんはさっき朝の散歩に出て行ったばかり。何故か声を無視して猫鰹飯店の春巻きを食べている紫音さん。
「あの、あたし行ってきます」
 そう言ってお茶を一口すすって急ぎ足で部屋から出ていくあたしに何か紫音さんが言ってたけど、お客さん待たせちゃいけないと気にしないで玄関へ行く。
「はーい」
 そう言いながら足早に玄関に行くと、そこにいたのはトートバッグを肩越しに持ったGジャンにジーンズの背の高いモデルみたいな女の人。
「あれ、知らん顔やんか。最近ここに来たんか?ああ、そうなんや、あんたも…?。なあ、紫音呼んで来てくれへんか」
 その女の人の容姿と言葉に気後れして一瞬廊下の壁に顔だけ出しい隠れたあたしは、
「あの、ちょっとお待ちください…」
 そう言ってポニーテールの髪をひるがえし、慌てて二階の紫音さんの部屋へ。と、内側から鍵がかかってるのかドアが開かない。
「紫音さーん、お客さん。ちょっと、なんで鍵かけてるんですか?紫音さーん開けて…」
 あたしがそう言いかけた時、いきなり部屋のドアが開いて腕を掴まれて中に引き込まれるあたし。
「静かにしてください!私がいるとばれるじゃないですか!」
「え?居留守使うんですか?あんな綺麗な人」
「あれは、魔性の大阪女なんです!」
「え、なんか気の強そうな人でしたけど、そうは見えない…」
「私に幸せと不幸を持ってくる人なんです」
「え、あの幸せも持ってくる人?」
「あの女が頼みがあるって言った時は、百パーでただ働きをさせられる…」
 とその時、
「なんや紫音おるやんか?。なんでメール返せへんの?」
 いきなりあたしの背後でさっきの女の人の声。勝手知ってるのか、ずけずけと入って来たらしい。
「あれ?紫音の部屋やろ…なんでこんなに片付いてんの?あー、そーゆー事か?」
 びくっとして後ろを振り返ったあたしに、その声の主が意地悪そうな笑顔を見せた。
「同棲中ってわけやな」
 なんかあたしこの女の人むかつく!
「あのなー紫音、頼みが…」
「わ、私は今流行りのフレアウィルスという奴で、ゴホ…」
「連れ部屋の中に入れてウィルスはないやろ。メイド喫茶に新人二人派遣するとこになったさかい、稽古つけたってな。今から事務所行くで!」
 仮病使う紫音さんの言葉に耳も傾けず、大阪弁のおねーちゃんが一方的に喋る。
「そんな急にただ働きなんて無理です」
「ええやないか、次仕事するとき割り増しで払うさかい」
「幸奈さんから頂く仕事は、ただ働き含めて平均すると時給千円位です」
「あれ?そうやったっけ?」
 幸奈って言うんだ、この気の強そうなおねーちゃん。
「ほな頼むでぇー!」
 そう言ってGジャン大阪弁のおねーちゃんはくるっと階段の方へ向き直って笑いながら手を振ったと思ったけど、
「あんたもどうせ男やろ?ふーん、まあそう見えんけど…」
 いきなりあたしの方に近寄って、肩とか頬とかお尻とか、
「これ、ほんまもんか?」
 そう言いつつあたしの胸元をいきなりなで回す彼女。
「ちょっと!何するんですか?」
 たまらず叫ぶあたしを気にする事なく。
「顔はまあまあやけど、もーちょっと肉欲しいなあ…」
「肉、あったらどうするんですか!」
「うちで派遣で雇ったる」
「結構です!」
「ええんか?うちは身内には厳しいけどバイトには優しいでぇー」
「あたしはご飯屋のお掃除で満足してます!」
「あはははは!そーかそーか」
 なんなのこの女!関西の女の人ってみんなこんななの?
「紫音、もうええかげん燻ってないでうちに来―や。副社長にしたるてゆーてるやろ?」
「社員あなただけの会社に副社長で入ったら、安月給で死ぬほどこき使われる奴隷と一緒だから、やです」
「ようわかってるやんか。まあ、どーでもええわ。ほなついでやから車で事務所まで拉致ったるわ!行くでぇー!」
 女にしてはかなり背丈のある幸奈さんは、そう言って紫音さんを脇に抱える様にしてそのまま階段を降りていく。と。
「あら、幸奈ちゃん、お久しぶり」
「あ、おばさん、おはよーさーん。紫音借りてくわ」
「あー、好きに持っていきな」
「あ、あの…」
 段降りていく紫音さんと幸奈さんを追いかける様についていくあたし。そして玄関にいる遥さんと目が合うと、いいんですかって感じであたしは彼女を見つめる。
「いいんだよ、いつもの事だ。紫音だってそんなに嫌がってないし」
 多分幸奈さんの車だろう。玄関前の小さな駐車スペースに停められた高そうな車に紫音さんが押し込まれ、そのまま門柱経由でエンジンの音響かせながら車は消えて行った。
「真莉愛ちゃん、ちょっとあたしの部屋来な」
「え、あのお家賃の事ですか…」
「違うよ、いいから部屋入んな」
 玄関から向かって左の管理人室のドア開けて入ろうすると、丁度アパート内の朝のパトロールを終えた猫のにゃんちゃんとにゃかちゃんが一緒に入って来た。
「一応ドアに鍵かけときな」
 そう言って部屋の大きな窓にカーテンを閉める遥さん。そして、
「真莉愛ちゃん、ちょっと服脱いでみな」
「えーーーっ!」
 突然の遥さんの言葉に驚いて一瞬凍るあたし。
「心配するんじゃないよ。あたしゃあんたみたいな子を何十人も見てきてるんだ。並みの精神科医や整形外科医よりは目利きは確かだよ」
 遥さんの言葉に少し安心したけど、敷金の事とか面倒見てもらってるし。あたしは恐る恐るジーンズとシャツを脱ぎ始めた。
「パンツまで脱げと言わないから、ブラは外しな」
 ブラ外しながらあたしは思った。さっきの幸奈さんといい、あたしみたいな人ってやっぱりそういう目で見られてるんだ。これ絶対品定めなんだ。あたしか風俗で働けるかどうかの…。あたしはブラのホックにかけた手を一瞬止めた。
「あの、遥さん。あたしやっぱりここ出ていきます」
「はあ?なんで?」
「あたし、その、風俗で働く自信ないですから…」
「はあ?」
「キャバクラとか、ニューハーフのお店とか無理ですから」
「何バカな事言ってんだよ」
 そう言って遥さんは立ち上がってあたしの前に立ち、器用に両手であたしのブラのホックを外してするするとブラを外してしまう。
「ふう、まあ思った通りだわ。飲み薬だけとは聞いてたけど、あんまり効果出てないね」
 今のあたしの胸はバストトップは黒ずんでて、先っぽはなんとか円筒形保ってて。ボタンみたいになってるけど膨らみはAぎりぎり位。
「大体わかったよ。服着な。出かけっから」

 にゃんにゃか荘の裏の小さな駐車場にある古びたシトロエンに、遥さんにせかされる様に乗せられるあたし。横には真新しい白のボルクスワーゲンが停まってる。
「これは紫音のだよ」
 それだけ言って行先も言わないまま、シトロエンはあたしと遥さん乗せてにゃんにゃか荘を出た。さほど走らないうちにどうやら目的地に到着。そこはなんと
「驚キ桃ノ木クリニック!?」
「早く降りな」
「なんですか!ここ!」
「いいから早く降りな」
「あ、はい…性病の検査か何か…」
「なんであんたはそんな風にしか物考えられないのかねーもう!」
 遥さんに手を引かれて半ば強引にあたしはその病院に連れ込まれてしまう。

「七沢真莉愛さーん。じゃ問診票お預かりしまーす。奥の部屋に入ってお待ちください」
 結構細かい質問書かれた問診票を綺麗な看護婦さんに渡して、頑丈そうな奥の診察室の横のソファーに座るあたし。ようやくわかって来た。
「ここって、あの、性同一障がいの人の…」
「ああ、それもやってる内科と精神科だよ」
 あたしの横に座った遥さんが答えた。
「暫くあんたの事観てたけどさ、まあ本物だと思うよ」
「そうだったんですね」
 実家にいた時はこんな所なんて間違っても来れなかったけど、やっぱり東京に来てよかった。と、いきなり足ががくがく震えるあたし。今日あたしにとって記念すべき日になるかも…
「七沢真莉愛さん、お入りください」
「は…はい…」
 女性看護師さんの声。あたしの新しい日々が始まるんだ!

「どうしたんだい、豆が鳩鉄砲食らった様な顔して」
 病院出たのはもう昼近く。みっちり精神科の診断受けたあたしは只ぼーっとした目付のまま遥さんに付いて駐車場に歩くあたし。
「あの、その性同一障がいの診察って初めて受けたんですけど、どこもあんな風なんですか?」
「まあ、会話だけの診察だからね。注射も薬もないし」
「いきなり部屋入って、けひゃひゃひゃって笑いながら女ホル一本行っとく?とか」
「ああ、まだそんなバカな冗談言ってるんだあの先生」
「しかも椅子に座ってるのは先生じゃなくて人形なんですよ!牛乳瓶の底みたいな眼鏡した中国の仙人みたいに痩せて髭はやした二頭身の人形。あたしずーっとその人形に仕込まれたスピーカーと話して手、最後にその人形そっくりの本物の先生が出てきて、はいお疲れさんて」
「全然変わってないねあの先生。まああたし達の業界じゃ伝説の先生だよ。もう半ば引退してて予約が今日しか取れなかったんだし。日本は暑いからって明日からアラスカへ旅行に行くなんて言ってるしねえ。まああたしの口聞きだし、心配すんな」
 シトロエンの助手席のドアに手をかける不審そうな顔のあたし。
「信用できるんですか?あの先生?」
「信用できなきゃあんな美人の看護師さんに囲まれちゃいないよ」
「なら、いいですけど…。あの、次どこか行くんですか?」
「何言ってんだよ。家出同然で出てきたんだろ?役所だよ。保険とか印鑑登録とか。今日はあたしが立て替えたから、後で保険使ったら戻ってきた分ちゃんと返すんだよ。それくらいまだお金残ってるだろ?高いもんじゃないから」
「あ、はい。でも、いいんですか?こんなにしてもらって」
「暫くあんたの事見てたけど、多分あんたは本物だよ」
 そうこうしているうちにあたしと遥さん乗せた車は街のメイン通りを走り出した。

 役所とかでいろいろ手続きしての帰り道、車の助手席で今日のあのへんな先生の人形との会話をぼーっと思い出していたあたし。生まれてから今日までの事とか、女の子になりたいと最初に思った時の事、生活環境その他いろいろ。思えば自分の事をあんなに喋ったのは初めて。相手が人形だったからためらいもなく言いたい事一杯言えた。
「ところで、改めと聞くけどさ。いいんだね?女になって」
「あ、はい」
「女のいいとこばかり見てないかい?女で生きていくのは男の時の倍以上辛くて面倒で、忍耐が必要なんだよ」
「あ、あの、わかってます」
「ある期間過ぎたら男にも戻れなくなるんだよ。まあ、でもあんたの場合もう戻れないかもしれないけどさ。それ苦にして自殺した子もあたしの知ってる限り少なくないんだよ」
「大丈夫です!」
 あたしだってここまで来る間にいろいろ見聞きしてきたんだもん。女の楽しみと苦労位わかってる。
「次はいつだっけ?」
「三日後です」
「そうかい…」
 車運転しながら器用に煙草に火を付けながらそう言う遥さん。そして、
「まあ、がんばりな。本気なら応援してやるから」
「ありがとうございます!」
 ようやくあたしの顔の笑顔が戻った。

 翌朝、多分幸奈さんに飲まされたんだろうか、昨日の深夜ぐでんぐでんに酔っぱらって帰ってきて部屋の中の玄関先で寝ていた紫音さんはまだすごいいびき掻いてる。
 取り急ぎ彼の朝ごはん用に卵焼きと昨日のバイト先で貰って来た餃子温めてると、また遥さんが部屋まで訪ねて来た。
「真莉愛ちゃん、暇だろ。今日も付き合いな」
「え、今日どこへ?」
「下着と服見繕ってやっから」
「え、あのいいですよ。それくらい自分で…」
「いいからあたしに任しときな。あんたみたいな子に合うの探してやっから」
 とその時、いびきかいて寝ていたはずの紫音さんがむくっと起き上がる。
「あの、遥さん、それ、私の仕事…」
「あんたにだけは任せとけないから言ってんだよ!ほら、支度しな」
 遥さん本当世話焼きの人みたい。あたしは家でこっそりつけてた下着とか地味な女の子用の服とか全部こっそり通販で買ってたし、お店で買う事なんてなかった。それも殆ど全部置いてきちゃったし。でも今のあたしの姿は…
「何突っ立ってんだよ。部屋戻って支度しな」
「あの、ジーンズとかでいいですか、男物なんて…」
「あんたが成りたい姿でいいから!ブラ付けていいから。逆に付けてないとと今のあんたはむしろ変に見えるからさ。ぱっと見なら女に見えるから!もう世話のやける子だねえ!」

 車で遥さんに連れられて来たのは、近くの特急停車駅の有る大きな街。車を駐車場に入れて、駅前商店街の中を暫く行くとどうやら目的の場所に着いたらしいけど、
店の名が、ランジェリーショップ…ラン…。
「あ、あたし帰ります!」
「またバカの事言いだした!」
「こんなとこ恥ずかしくて入れません!」
「だったらこの先どうして行こうって言うんだよ!」
 呼び鈴替わりの自動ピアノの音と共に、あたしは店の中に遥さんに強引に手を引かれて連れ込まれた。
「いらっしゃいま…あら遥さん。お久しぶりです」
「ああ、一年近くご無沙汰だね」
「お店はもう?」
「ああ、若いもんに継がせたよ。今はオーナー業のみで悠々若隠居さ」
 遥さんとは顔なじみらしい若いお姉さんて感じの店員さんが応対してくれた。
「あら、その子は、もしかして?」
「ああ、この子真莉愛って言うんだけど男の子だから」
「うわあ!わあ!わあ!」
 突然の思いがけない遥さんのあたしの身元ばらしに動揺して声を上げて思わず彼女の体叩いたり服を引っ張ったり。
「下着とかちゃんとしたの選んでやってくれよ。なんか着の身着のままで東京来たみたいだから」
「遥さんがお店やってた頃でも新しい子が入ったらいつもこんなでしたよね」
 そう言いながらあたしの手を引いて店の奥のフィッティングルームへ半ば強引に連れていく店員さん。
「あ、あの、あたし」
「大丈夫だから、あなたみたいな人たくさん見てきたし」
「あの、やっぱりやめます」
「いいから、お姉さんに任せなさい」
 そう言いながらあたしを無理やり裸お披露目空間に押し込む店員さん。
 これから何されるかわかってる。母親にも見せた事の無いあたしの胸が今日会った全く知らない人の前に晒されるって事。もうどうでもいいって感じでやけになってそこで目つぶってTシャツ脱ぐあたし。
「ああ、このブラ通販の安いのでしょ?これじゃ付けてるだけでブラの機能してないよねえ」
 そう言いながら店のお姉さんは背中に手を回して、あたしのブラのホックをさっと外すと、とうとう露わになったあたしのバストトップ。
「ああ、膨らみはあまりないけど、トップはもう女に近いですね」
 冷たくて柔らかい指で胸触られたあたしの顔はもう恥ずかしさで真っ赤。と、あたしの胸の二か所にメジャーが当たらる。
「アンダーが…トップは…」
 独り言言うお姉さんの声にあたしの頭の中で何かがはじける。そう、
(あたし今生まれて初めて女として扱われたんだ)
 恥ずかしさがいきなりものすごい感動に変わってしまう。
「彼氏はいるの?」
「か、彼氏…ですか!?」
 そんなのいる訳ないじゃん!
「い、いません…」
「じゃあ、安くておっぱいメイク重視の物多めに選んであげるからさ」
「あ、はい、あの、お願いします」
「彼氏できたらまた来なさい。可愛いの選んであげるから」
 そう言いながらあたしの頭を軽く撫でてくれる店員のお姉さん。
「あの、この店は男の人にも下着とか売るんですか?」
「いいえ、原則は禁止ですよ。でも女の子に見えたり、ちゃんとした人の紹介があれば売りますよ。男丸出しの人には店のイメージもあるからお断りしてますけどねー」
 そう言いつつ尚もあたしの上半身をあちこち触っていたお姉さんが遥さんの方へ向き直る。
「遥さーん、この子Bカップいけるよ」
「へえ、そうなのかい?」
「もっと大きくなるんでしょ?Aでもいいんだけど、胸元豊だし大きくなったら全部買い直すの面倒でしょ?」
「任せるよ」
 店員さんがフィッティングルームから出て行った後、一人残ったあたしは感動と興奮で足ががくぶる。彼氏とか、おっぱいメイクとか、胸大きくなるとか、女扱いされたし、しかもあたしの胸にBカップのブラがこれから付けられる!
「ショーツと、ガードルもこれにしとこう。前の膨らみ隠せるからさ」
「あ、はい…」
 再び顔真っ赤にしたあたしがうつむき加減でうなづいたその時、
「やめとけー、そんな色気の無い下着やめとけー」
 小さいけどはっきりとどこかで聞いた声。
「え?誰?まさか真莉愛ちゃんの彼氏?」
 まさか!と思ってフィッティングルームから一歩外出るんだけど、上半身裸だと気づいていきなり両手で胸を隠して引っ込むあたし。なんでだろう、こんな女の子みたいな仕草したのは初めて。
店のショーウィンドウ越にあたし達をのぞき見していたのはっぱり!
「違うよ、ありゃ只のド変態だよ!」
 そう言いながら店の外に駆け出して行く遥さん。
「なんでここがわかったんだよ!?」
「ここしか無いじゃないですか。ああいう子連れて下着買いに行くのは」
「いい歳こいたむさい男がランジェリーショップのショーウインドウへばりついて!トランペット欲しいとかやってんじゃないよ!」
 その瞬快遥さんの足が動いて、その場で一回転する紫音さんがショーウィンドウ越に見えた。と、
「営業妨害だっつーの…あーもしもし、警察?○○駅の近くにランていう下着屋あるだろ?その真ん前に白のボルクスワーゲン停まってて邪魔だからさ…」
「遥さん!それ自分のアバートの店子にする仕打ちとちゃうやろ!」
 いきなりアイフォンで警察へ電話かけ始めた遥さんに、昨日幸奈さんに付きあったせいなのか、大阪弁がうつったらしい紫音さんがそう言って慌てて車に乗り込んでどっかへ行ってしまった。
「遥さん、なんか空手とかやってたんですか?」
「少林寺だよ。昔男らしくなろうと思って初段まで取ったさ」
「警察へ電話しちゃったんですか」
「嘘電話だよ。あいつらだってそんなに暇じゃないだろ?こんなつまらない事で呼ぶのかわいそうだし。さあ早くお会計済ましちゃいな」

 遥さんの車の助手席に座り、二つの大きな紙袋を大事に抱えるあたし。あたしにとって宝物みたいなものが入ったその袋の中を時折覗いて夢実ごこち。こんな気持ちになったの、本当何年ぶりだろう。
「着いたよ」
 知らない間に車はどこか郊外の大きなファッションセンターに停まっていた。
「最初はあたしが見繕ってやっから。使える予算あとどれくらい残ってる?」
「あ、あの」
 そう言って財布の中身をちらっと見せるあたし。
「ああ、わかった」
 そう言う遥さんに連れられて、なんかテレビで時々コマーシャルで店名観るその店内へ入ると、いきなり遥さんが買い物籠持って店内を物色。
「女は安くて可愛いのを一杯持ってた方がいいんだよ」
 そう言って遥さんは、次々と可愛いロゴや柄のシャツ、ブラウス、スカートを次々と籠に入れていく。
「サイズはさっきの下着屋に聞いてるからさ」
「あの、そんなにたくさん…」
「まあいいさね。お金足りなかったら少しは出してやるから。ミュールとパンプスも入れといてやっから」」
「いえ、あのそんな…」
「気にすんなって、頑張る子には精一杯応援してやるから。返せる様になったら返してくれりゃあいい」
 買い物籠を通路に置いて、ミュールとバンプスをあたしに合わせてくれる遥さん。 品物選びもそろそろ終わりかなって思った頃、
「あれ、真莉愛ちゃん、こんな派手で高いの選んだらだめだろ?」
 買い物籠の中を確かめていた遥さんが、あたしに向かって言う」
「いえ、あの、あたし何も選んで…」
 とその時、たくさんの服が掛けてある店内のハンガーの列の上に何かが動いた気がする。それはあたしが良く見ているチューリップハットの先っぽ。それがささっと店の出口に向かって移動していく。
「あ、あれ…」
 あたしがそう言った時、既に遥さんはその帽子の主を追いかけて店の出口に走りだしていた。そして、
「余計な事すんじゃないよ!」
「だめです!あんな地味な物ばかり…」
「あんたが女装する時はよそ行きの服ばっかだからそんな事言うんだよ!」
「いや、私は真莉愛さんの事…」
「まだ女装と性同一障がいの違いがわかんないのかい?あんな派手な服着て定食屋でバイトなんかできねーだろ!」
 今度は地面と垂直に一回転する紫音さんが店の窓越しに見えた。店のレジの人も何事かとそれを見ている。
「まったくあのド変態は…」
 あたしは痛そうによろよろと起き上がってどこかに去っていく紫音さんを哀れみの目で見ていた。
「あ、あの遥さん…」
「手加減はしてるよ。昔男らしくなろうと思って柔道もやってたさ」
多分あたしの事思って、籠の中に代金遥さん持ちの服入れてくれたと思うんだけど、バレバレすぎ。
「女は普段は着心地良くて毎日洗える安可愛い服一杯持ってりゃいいんだよ」
 そう言ってお会計済まそうとした遥さんだけど…
「あのド変態の言う事も一理あるねぇ…」
 そう言って売り場に行って戻って来た遥さんの手には、
「それ、だめです!そんなのあたし履けません!」
「どうしてだよ、ちゃんとガードル買っただろ?」
「そんなんじゃなくて、そんな恥ずかしいの人前で履けません!」
「いいから、今日の夜でもそれ履いてバイト行ってきな」
「…無理てす…」
「ああもう、じれったいねこの子は…」
 遥さんがレジに持ってきたのはどう見てもミニの紺のジーンズのスカートとベージュのショートパンツ。それも一緒にお会計した時、遥さんの財布から一万円札が二枚も出ていくのを見届けてため息つくあたしだった。
(遥さんに悪いから…アパートの中だけで履こ…)

 にゃんにゃか荘へ戻ったあたしはその足で遥さんのいる管理人室へ。カーテンと閉めてドアに鍵かけて早々あたしの新しい下着の試着。
 ショーツはいいして、ブラ。母親がよくやっててあたしも真似してたたブラのホックを前で止めて後ろへぐるっと回す方法やろうとすると、遥さんがあたしの手をパチンとはたく。
「そういう不作法するもんじゃないよ、ちやんと肩紐に腕通して前鏡になってプラのカップ胸に当てて…」
「こうですか?」
「そう、それで両手背中に回してホック留める」
 初めての事にあたしがゆっくりそれやってみるけど、
「いたたたたた…」
「どした」
「手と、胸が攣る…」
「だらしないねえまったく…」
 もう少しで本当に攣りそうになった手を振ったりさすったりするあたしを読頃に遥さんがあたしのブラのホック留めてくれた。
「これから毎日練習しなよ。若い子でもブラぐるっとする子いるけど、ちゃんと胸の肉収まらないから」
「でもあたしの胸ってまだ…」
「いいから言われた通りにしな。若いんだからいずれあんたの胸も普通の女みたいに大きくなるさ」
 そう言いながら今度はあたしのブラのカップに手を入れて、脇の肉を寄せていく遥さん。
「あ、本当だ。少し余裕あるけどBカップあるわ」
 遥さんの言葉にふと自分の胸元を見て、思ほず口に手を当てるあたし。胸元には微かに谷間が出来ていた。
「ほら、Tシャツ来てみな。ジーンズはあたしの若い頃のやつ貸してやっから」
 買ってきたピンクにチョコレート色のロゴの入ったトップス着て、そして初めて履いた女の子用のストレッチの効いたジーンズ履いて、言われるままに鏡の前に立つあたし。その瞬間あたしの口からは…
「えーーっ…」
 思わず出た驚きの声。なんか、あたし、いつもより可愛らしい女の子に見えるじゃん…。
 ポニーテールに大きな丸眼鏡の顔はいつもと変わらないけど、いつもと違う小さいけどはっきりした膨らみのある胸元、そしてストレッチジーンズトガードルで矯正された膨らみの無いすっきりした下半身とふっくらした太もも。それに後ろむきで鏡見ると、小さいけど可愛く真ん丸になったヒップ。
 再びあたしの顔はここ数年来浮かべた事の無い笑顔が浮かび、かかとを上下させたり胸元で手を組んだり、両手をハの字にして踊り気味になったりくるっと一回転したり。なんだろうこのうきうき感!
「まあ、いつもよりはマシになったじゃん。今日はその恰好でバイト行ってきな」
「あの、遥さん、このジーンズは…」
「いいよもう、あたしにはサイズが合わなくなったからあげるよ」
「あの、本当に申し訳ないというか…」
「いいんだよ。頑張る子には精一杯応援してやっから」
 
 あの変なお医者さんのいるクリニックへ行く当日の朝、一人で行ってきなと遥さんに言われて、びくびくしながらそこの受付に診察券と真新しい保険証を出すあたし。程なくあたしの苗字だけ呼ばれて診察室へ。そこにはあの変な先生じゃなくてちょっと美人の女性のお医者さんが座っていた。
「あの、よろしくお願いします」
「はーい…」
 あたしの挨拶に電子カルテを観つつ女医さんが軽く答えてくれた。
「先日はうちの院長から過去のあなたの事いろいろ聞いたけど、今日はこれからのお話するね」
「あ、はい…」
 あの変な先生って、ここの院長だったんだ…。
 大きなパソコンみたいな画面からあたしの方へ向き直った先生が話始める。
「最初にね、女になりたいって言うけど、もしかして女のいいとこばかり見ていないかって、それがちょっと心配だったんだけど。まあ将来どうなるかわかんないけど少なくとも生理の辛さは無いわよね。それ以外は薬で女みたいにはなるんだけどね」
 そしてその後、男にはわからない女として生きる辛さを延々と聞かされる事になったあたし。
「重い物持てなくなるしー、早く走れなくなるしー…」
 深刻な事を何故か楽し気に言う先生。やっぱりこのクリニック変!そのほかにも、
・朝一時間早く起きて身支度しなきゃいけない
・すごく疲れやすくなる
・いつも綺麗でかわいくいなきゃいけない
・人前ではいつも笑顔でいなきゃいけない
・常に体のどこかが痛む
・美味しい物たくさん食べるとすぐ太るし、下着とかしめつける物が多い
・トイレがめんどくさい
・男と同じに働いても給料安い
・怖がりになる
・夜道ひとりで歩けない。男に捕まって押し倒されたらもう終わり
・稼いだお金はコスメと服で全部消えちゃう
・理解出来ない事で嫌われたりハブられたりするし、女の妬みや嫉妬そしてそれから来る苛めは男性の想像を絶する
・皮膚が弱くなるから、傷付きやすくて治りにくい。ぶつけたらすぐ青痣出来る。転んだりしたらすぐ骨折。
 その他いろいろと淡々と喋る先生だった。あたしも実はそのあたりは知ってたけどこう改めて言われるとちょっとぞっとする。
 あたしが何も言えないでいると、女先生はちょっと意地悪そうな笑顔で話しを続ける。
「男の人は好きなの?恋した事有る?」
 流石にそんな感情はちょっと…。
「思った事も無いです」
「そう…」
 あたしの答えにあたしからふと目を逸らして短く答え、そして続ける。
「まあ、それはいいわ。でも覚悟しておいてね。そのうち薬使い始めると嫌でも男の人好きになるから」
「え、そうなんですか?」
 あたしの答えに今度はじっとあたしを見つめる女先生。
「女になるって事は生物学的に弱くなるし、社会的にも不利になる。加えてそんな自分を守ってくれる人、愚痴とか聞いてくれる人。そして可愛がって褒めてくれる人がどうしても欲しくなってくる。更に女性ホルモンは真莉愛ちゃんの頭の中をだんだん女にしていく。まあ、殆どの人は最初はそうでなくてもそのうち男の人を異性とみつつ、性対象にしていくもの」
 ちょっと驚いた様子のあたしの顔をじっと見ていた先生は、今度はあたしの両手を軽く握って話を続けた。
「好きになった男の人の言う事に逆らえなくなるんだよ。その人にキスされて体を触られてさ。アダルト映像とか観た事あるかどうかわからないけど、男の人の下になって、演技でも可愛いよがり声あげてる方になるんだよ。する方からされる方に。そして」
 あたしの手を握る先生の手にちょっと力が入る。
「入れる方から入れられる方になるんだよ。男の人の物になるんだよ」
 何も言えずに黙って先生の顔観てるあたし。尚も彼女は続ける。
「但し、あたしの言いたいのはそういうエッチな事なんてどうでも良くて、例外はあるけど、女は全てにおいて男や社会に従属する立場になる。真莉愛ちゃんはそういうに立場になってもいいの?って事なの」
 長々と先生の話を聞いてたけど、最後の言葉を聞いて、あたしの頭の中で何か答えみたいなのが出来ちゃった。
「あたし、子供の時から言う事聞けって親に言われ続けて今まで生きてきたんです。多分それが根に付いちゃったから、もう戻せないと思うし。従属的な立場でしか生きられないと思うんです。それに、女は辛いって言われるけど、男女共に辛い事なんて同じ位あるし、幸せって思う事も男女平等にあると思う。幸せの質から言えば、あたしは女の方の幸せの方が好きです」
 こんなにはっきりと自分の意見言えたの初めてだった。
「そう、わかった」
 そう言うと女医さんは引き出しから一通の封筒を取り出した。
「はい、これGIDの診断書。普通はこんなに早く出ないからね。院長先生のおはからい。それと、今日注射一本打つから」
「え、何のですか?」
「決まってるじゃないの。これを打つ為にこの病院来たんでしょ?」
「あ。あの、それ…」
「何?嫌なの?」
「え、え、あ、あの、お願いします!」
「じゃあ、ジーンズとパンツ脱いでベッドにうつ伏せに」
「あ、は、はい…」
 若い女の人の前でお尻見せるなんて…でも、いつかあたしお風呂とかでそれが当たり前になる日が来るかもって自分に言い聞かせて言う通りにした。
「じゃ行きますよぉー」
 消毒綿の冷たい感触。と、
「これ一本打つごとにあなたの体のどこかが女になりますからね。完全な男じゃなくなりますから」
「いいんです。あたしもう二年薬飲んでますから」
「そんなのとは比べ物になりませんよ。この薬は」
 女医さんはそう言ってあたしのちょっとオンナの形になり始めたあたしのお尻を軽く触る。そして、
「裏切らないでくださいね。ごくたまーに、やっぱり男のままの方が良かった!GIDの診断出した医者の責任だ!なんてとんでもない事言う人いますからね」
「あたし、そんな事言いません…」
「じやあ良かった」
 その瞬間お尻にちくっとした痛み、そしてつねられたみたいな痛みがそこ中心に広がった。
「筋肉注射ですから、痛いですけど我慢してくださいね」
「あ、はい…」
 一瞬の痛みだったけど、それはたちまちあたしが女になる為の第一歩だと気が付いた。それ思うと痛みなんて飛んでしまう。
「はーい、終わりです。毎日飲む薬出しておきますね。かなり強い薬だから生理痛の薬も出しておきますね」
 生理痛って聞いてぼーっとするあたし。これからあたし、ここでは女として認められるんだ!

 クリニックを出て電車でにゃんにゃか荘の最寄の駅に戻る途中で、早くも体にだるさが出てきて、駅降りてアパートへの道で今度は頭痛が襲ってくる。
(女の体になる為、我慢しなきゃ…)
 そう思いながらやっとの思いでにゃんにゃか荘の自分の部屋に戻ると、大急ぎで生理痛の薬とか言うのを水で喉に流し込んでそのまま敷いてあった布団に即ダウン。と、ドアをノックして遥さんが部屋に入って来た。
「帰ってきたのかい?あれ、大丈夫なの?」
「大丈夫…です」
 全然そうじゃないけどそんな返事するあたし。
「まあ、そのうち慣れるから、今は我慢しな」
「はーい…」
 そう答えたあたしはいつしか気を失ったみたいに眠りこけた。

 気が付くともう陽はかなり暮れていた。
「あ、もうこんな時間…」
 紫音さんの晩ご飯のしたくしなきゃと重い体を起こしたと思ったけど、なんだか体が軽い。頭痛も消えて、なんだか頭はっきりして総会な気分。
「あー!良く寝た!」
 そう独り言言ってぴょんとおどけて飛び起きるあたし。何だろ?このうきうき感。まさか薬のせい?それとも女の体になる第一歩を経験した嬉しさ?ううんそんなのどうでもいい!
 あたしはその足で紫音さんの部屋に行く。今日もどこかで怪しいお仕事してるのか彼の姿は無かった。
 冷蔵庫の中にあるバイト先で貰ったチルドの餃子焼いて、手早くチャーハン作って。チンして食べてくださいの書置き残して、あたしは部屋に戻ってバイト先の猫鰹飯店へ行く準備。
 遥さんに教えられた通りにブラとシヨーツとガードル付けて、いつものジーンズを履こうとした時、あたしの目は先日買ってまたそのままにしてある服の山に行った。
 衣装の山をみているうちに、あたしの頭の中で何かが小声で囁いてくる。
(行っちゃえ!もう女になる薬打っちゃったし、女として扱われたじゃん!)
 何か面白い悪いいたずらを考えた感じであたしはジーンズを脱ぎ、そして生まれて初めて人前で膝上のミニスカート姿をお披露目すべく、デニムのジーンズに足を通して先日服と一緒に買った白のハイソックスを履いた。
 遥さんに会うのが恥ずかしくて廊下を急いだつもりだったけど、玄関であろうことか買い物帰りの彼女と鉢合わせしてしまった。
 ちょっと驚いた様子の遥さんだったけど。いきなり笑ってあたしの背中を軽く叩いてくれた。
「似合うよ。バイトだろ?行っといで」
「はい!行って来ます!」
 
 なんだろう!太ももに当たるこの初夏の風の心地よさ。それに。それに
(あたしに、胸がある!)
 Tシャツの胸元にはブラで矯正されてるとはいえ、ちゃんとした本物のBカップの胸。もう思わずスキップまで出ちゃった。今年二十歳なのに!
(猫鰹飯店の親父さんとかやばさんとか、どんな顔するだろう!)
 普通に考えたらそれすごく恐怖なのかも知れないけど、今のあたしにはもう怖い物なんてない!だって、クリニックの先生にも、遥さんにも、ちゃんと褒められたし!
「こんばんわあ!」
 時刻は夜の八時三十分。いつもより元気な声で猫鰹飯店の戸を開けると、閉店間際の店内にはお客さんが三人。そのうち一人は会社帰りだろう。作業着姿て閉店近くに来ていつもビール餃子と一品料理頼んでくれる顔なじみの初老の常連の人。
「なんだよー真莉愛ちゃん。今日は珍しい恰好じゃねーか。彼氏でも出来たか」
「いーえ、違います」
 なんか褒められた気がして素顔で応対するあたし。
「いやあ、最初見たときゃ、なんか男みたいな娘っ子だなとおもったけんどよお。最近色っぽくねーか?」
 そうだよ。数日前から下着新調したし。今日初めてのスカート姿のお披露目だし」
「めんこくなったよなあ」
 かなり酔っぱらってるのか呂律の回らない口調でそのおじさんが言った時。
「こら、徳さん!だめだよ、うちの看板娘に」
 ふと後ろ見ると、今初めて名前知ったんだけど、徳さんとやらが笑いながらあたしのお尻に手を出していた。
「そういうのは家帰って奥さんにしてやりな」
「いねーよ、そんなの…十年も前にどっか行っちまったよ…」
 ちょっとさの徳さんとやにが可哀そうには感じた。それに看板娘と言われたり、危うく女としてセクハラされそうになったりで、悲しいやら嬉しいやらで混乱してその場に立ち尽くしてしまうあたし。
「ほら、真莉愛ちゃん困ってるじゃないの!」
「いやあすまんすまん」
 何故だろ、お尻なんて触られても別に何ともないじゃんと思ってたのに、スカート履いたせいだろうか、なんだかすごく嫌な気分。と、
「真莉愛ちゃん、今日はどうしたんだよ。珍しい恰好してさ。男でも出来たか?」
 厨房の奥から店のご主人が笑いながら出てくる。あなたもおばさんもあたしの正体知ってる癖に!
「なんでもありません!」
 そう言ってあたしは店の奥の座敷の更に奥の更衣室替わりの居間でバッグを置いて可愛いエプロン付けて店の厨房に入ると、
「真莉愛ちゃん、出来たら明日から夜の六時に来て仲居さんやってくんねーかな。真莉愛ちゃんのおかげで厨房綺麗になったし、やっばり最近年だからちょっと楽したいしさ。夜は早めに帰っていいから。まあ、今まで三時間だったけど、明日から都合五時間という事で」
「本当ですか!ありがとうございます!」
 いきなりの店のご主人の申し出にあたしはそう言って深々と頭を下げた。ひょっとして遥さんがあたしにスカート履いていけって言ったのはこの事を予測してたのかな?
 とにかくお給料あがる!女子力アップのウェイトレス?の経験もできる!女の子として認められた!もうみんなのおかげ!みんなありがとう!あたしの東京での子暮らしはとうとう順調に始められる!

 はずだった…

 翌日の昼前、にゃんにゃか荘の前に一台の軽トラックが停まる。そこから出てきた麦わら帽子被った初老の男性は、運転席から降りて大きく背伸びして体を左右に揺らしてストレッチした後、いきなり助手席に置いてあった拡声器を手に取る。
「あ、あー、いーしやーきいもー!、違う違う、どうもこれ持つと仕事の癖が出ちまうな」
 拡声器から独り言と咳払いの後、そのおじさんの声が近所中に響く。
「あー、熊二郎!おめーは完全に包囲されておる。おとなしく出てきなさい!こらあ!熊二郎!熊二郎!」」
 その声と共に二階のロフト付きの部屋の窓からまず紫音さんが顔を出し、その足で遥さんの部屋に駆け足で向かう。
「遥さん!呼んでますよ!近所迷惑だから早く出て行ってあげなさい!」
「熊二郎ってあたしの本名はもっとぷりちぃな名前だよ。あんたじゃないのかい?」
「違います!私の名前はもっとエレガントな名前です」
 相変わらずアパートの前では、
「おーい!熊二郎!熊二郎!」
 という大声が拡声器から聞こえてくる。
「誰なんだよ、熊二郎ってさ」
「私が知るわけない…」
 そう言った瞬間二人は同時に、
「まさか!」
 と叫び、あたしの部屋のドアを強烈にノックして入ってくる。そして二人は遥さんから借りた布団にすっぽり潜り込んで震えているあたしを見た。
「おーい!熊二郎!いるのはわかってんべ!出てこーい!」
 相変わらず外からは拡声器越しの大声。とその時、
「いやあーーーー!その名前いやあーーーーー!」
 布団の中であらんかぎりの悲鳴に似た声を上げるあたし。
「まさか、熊二郎って、あんた…」
「熊…二郎…て、なんかラーメン屋二軒足したみたいな名前…」
 遥さんの驚いた様な声と、続いてぼそっ話す紫音さんの声を聞くやいなや、あたしはがばっと布団から跳ね起きて、傍らにあった枕を思いっきり紫音さんに投げつけ、そして泣きっ面で小声で喋る。
「あたしの…本名なんです…」
 そう言って大きく鼻をぐずるあたし。
「…そうだったのかい…」
 と遥さんが哀れみ込めた声でため息をつく
「道理で初日に不動産屋が驚いてた訳…」
 紫音さんの声聞いたあたしは、部屋の隅に転がってた枕をいきなりひっつかんで、失礼な男の頭を数発殴りつけた。
 外の声がしばし止んだかと思ったけど、今度はなんと映画のビルマの竪琴で使われていた(羽生の宿)の音楽が大音量で流れ始め、そして、
「おーい、熊二郎!一緒に家へ帰ろう!」
 拡声器から再び大声。
「なんかいろいろ仕込んできたみたいですね」
 紫音さんの言葉に大声で布団の上に泣き崩れるあたしを見てとうとう遥さんがアパートの外に飛び出した。
「ちょっとあんた!人ん家のアパートの前で何やってんだよ!近所迷惑だし、そもそもここには熊二郎なんて子はいないよ!」
 ようやくその男は口元から拡声器を外した。
「いんや、多分名前偽ってここに潜伏してるんだべ。いるのはわかっちょー」
「なんでわかるんだよ!」
「出ていく前の日から鞄取り出したり様子おかしかったからよー、探偵屋雇って跡ばつけさせたんだわ。ほれ、ここに出入りしとる写真もちゃんとあるで」
 そう言ってその男はポケットから真を出すと、男睨みつけながらそれを軽く払いのける遥さん。
「詰めが甘いですね。人知れず家出するならもっと計画的に…」
 窓の外からのそんな会話聞いて他人事みたいに呟く紫音さんを。泣きながら再び枕を手に取り部屋中を追いかけまわすあたしだった。
「おーい熊二郎!一緒に家へ…」
「やめなっつってんのがわかんないの!?マジで警察呼ぶわよ」
「おお、こぇーな、おばさんよぉ」
 とその時、腕で目頭押さえながらあたしはアパートの玄関から飛び出した。親父と遥さんには目もくれず、ダッシュで門柱を駆け抜けて駅の方面へ走っていく。
「こらあ!熊二郎!見つけたど!一緒に帰るべ!」
 そう言って親父は軽トラックに乗り込み、羽生の宿の音楽を鳴らしながら全速力で逃げるあたしを追いかけ始める。途中の狭い路地にあたしが身を隠すと、程なく親父のトラックは路地の前をドップラー効果で変調する羽生の宿の音楽を鳴らしながら通過。
「おーい熊二郎!一緒に日本へ帰ろう!…じゃねーだろ…」
 拡声器からの大声が遠くから響いて消えて行く。それを聞きながら細い路地に座り込んで大声で声にならない声で泣き叫ぶあたし。
 どうしてよ!どうしてなのよ!折角新しい生活が始まろうとしてたのに!
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