鹽竃(しおがま)神社
(探索日 25/3/15)

☆ 解 説 ☆

主祭神 鹽槌翁命
配祀神 祓戸大神四神(瀬織津比賣神、速開都比賣神、速佐須良比賣神、気吹戸主神)

当初は玉津島神社の祓所として創建され、
神社としての創建は1917年(大正6年)と比較的新しい
安産、子授け、不老長寿、漁業豊穰、航海安全の守護神として崇敬されている

天野丹生明神(現・丹生都比売神社)の神輿が
玉津島神社への慣わし(表敬訪問する浜降りの神事)の際、
神輿が玉津島神社に入る前にこの洞窟に入ったことが始まりと伝わる

祭神である鹽槌翁命は『古事記』に記されており、
「海幸彦・山幸彦」の記事の中に「鹽推神」として登場している

また、この地は製塩が盛んに行われており、
近くには紀州藩の塩田跡(現・和歌山医科大学付属病院)もあったとされ、
江戸時代以前から大正後期まで行われ、入り江では海苔の生産も行われていたという






史跡である不老橋の向かいに神社があります




鳥居にある扁額




境内は狭く、鳥居から拝殿が見えています




拝殿前から鳥居を撮る(右は社務所)




拝殿傍らにある手水舎




拝殿内部は洞窟のような造りになっています

祭神は岩穴の祠に納められています




通りから社務所を撮る



鳥居から向かって右端に山部赤人(?〜736年)の歌碑があります

「和歌の浦に 潮みち来れば潟を無み あしべをさして 鶴鳴きわたる」

聖武天皇の玉津島行幸の供として来訪した際に詠んだと伝わる




紀州藩14代藩主徳川茂承(1844年〜1906年)篆刻の碑が、山部赤人の歌碑の隣にあります


 

鳥居から向かって左側にも石碑がありました

中世までは海に浮かぶ島であり、

船で渡るしか方法はありませんでした

奠供山、鏡山は現在も玉津島神社の境内にあります

その他、妹背山(海禅院)、妙見山(旧雑賀城跡)も残っています

小さな神社ですが、玉津島神社に寄り添うように佇んでいました


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