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◆高江ヘリパッド建設と住民運動◆



■上■金高 望<公開法廷で審議を/不明確な「国策上の損害」>(沖縄タイムス2009年03月16日)
■中■佐藤 学<地域の権利保障を/効力無き「グアム協定」>(同03月17日)
■下■高良鉄美<揺らぐ中立的立場/政治の司法権利用を危惧>(同03月18日)

■上■
公開法廷で審議を/不明確な「国策上の損害」



金高 望
(沖縄弁護士会)

 日米両政府は、1996年のSACO合意において、2002年度末までをめどに北部訓練場の過半を返還するものとする一方、その条件の一つとして、ヘリコプター着陸帯を返還される区域から北部訓練場の残余の部分に移設することを決めた。このヘリコプター着陸帯の移設先が、現在国が工事を進めようとしている東村高江のヘリパッドである。

「アセスは不要」

 高江には既存のヘリパッドがあり、住民はこれまでもヘリコプターの騒音や墜落の危険にさらされてきたが、新たなヘリパッド建設は、住民に対して更なる基地負担を押しつけるものである。
 また、高江付近は、貴重なやんばるの自然が残る地域である。沖縄県環境影響評価条例は、滑走路長30メートル以上(特別配慮地域では15メートル以上)のヘリポートを建設するにあたっては、事業者に対し、環境に与える影響を調査・予測・評価する環境アセスメントの実施を義務づけている。今回の事業では、これを遙かに上回る規模の着陸帯の建設が予定されており、県条例に基づく環境アセスメントが必要なはずである。
 ところが、国は、「ヘリパッド」と「ヘリポート」は異なるとの詭弁により、県条例に基づく環境アセスメントを行っていない。ヘリポートは誘導路やエプロン等の施設を含むが、ヘリパッドは着陸帯だけであり、両者は異なるとの理屈のようであるが、到底説得的な主張とは言えまい。

提訴強行した国

 高江区自治会では、これまで2度にわたりヘリパッド建設反対を決議し、また、住民有志は、沖縄防衛局(以前の那覇防衛施設局)への抗議行動や、さらに、国が工事に着手した後は、現地において、沖縄防衛局の行動を監視し、時に説明を求め、高江住民が被る苦痛を説明する活動を継続してきた。このような活動は、民主主義の根幹をなす正当な表現活動と評価すべきものである。
 ところが国は、2008年11月25日、高江住民らを相手方として、裁判所に対して「通行妨害禁止仮処分」の申立をした。
 今回の手続きは、「仮の地位を定める仮処分」というもので、裁判所は、争いがある権利関係について、著しい損害又は急迫の危険を避けるために必要がある場合に命令を発することができるとされている。要するに、時間がかかる通常訴訟の結論を待っていては「著しい損害又は急迫の危険」を避けることができない場合に、簡易・迅速に裁判所の命令を求める手続きである。

稚拙な申立内容

 今回の国の申立は、極めて問題が多いものといわなければならない。
 まず、本件は、新たな基地負担に反対する住民らの活動を封じるために、国が積極的に司法を利用したおそらく初めてのケースである。これまで国は、自衛隊や米軍基地の存在が裁判上問題になった際には、「政治問題に司法は積極的に口出しすべきではない」とのスタンスで臨んできたはずである。ところが今回、国は、司法を積極的に利用して住民運動を排除しようとしている。なりふり構わず反対運動を封じ込めようというものであり、住民に対する一種の恫喝である。
 次に、「仮処分」という手続き選択にも重大な問題がある。先に述べたとおり、仮処分は、簡易・迅速に裁判所の命令を求める手続きであり、通常、審理は非公開で行われる。本件のような県民の重大な関心事について、簡易・迅速な密室の審理で手っ取り早く命令を得ようという姿勢はいかがなものか。
 国は、早急に本件事業に着手できなければ、国策上の損害が極めて甚大になると主張する。しかし、SACO合意では、北部訓練場の過半の返還は2002年度末を目途とされていた。既に「めど」から約6年が経過しており、今さら早急に事業に着手できなければ国策上の損害が生じるという国の主張に説得力があるとは思えない。むしろ反対に、SACO合意の見直しも含めた議論こそが必要な時期ではないだろうか。
 司法的な解決を図るにしても、本件は、公開の法廷における十分な検討が必要な事案であって、簡易・迅速な非公開手続きで決すべき事案ではない。裁判所は、本事案の特殊性に配慮し、公開の口頭弁論を開催すべきである。
 そのほか、国の申立には、相手方とされた住民に完全な人違いがあったり、また、住民らの行動が全く特定されていないなど、致命的な問題が多々含まれている。裁判所も、国に対して、「国が考えている通行妨害行為」とは一体何なのか」と説明を求めたほどである。あまりに稚拙な申立と言わなければならない。
 今回の裁判手続きを通じて、住民らの行為は法的に保護されるべき表現活動であること、他方、国による高江ヘリパッド建設事業は、住民に新たな基地負担を押しつけ、やんばるの豊かな自然を破壊するもので、正当性を持ち得ないことを明らかにする必要がある。
(沖縄タイムス090316)


■中■
地域の権利保障を/効力無き「グアム協定」

佐藤 学
(沖縄国際大学)

 高江ヘリパット建設は、先月17日に、来日したクリントン米国務長官が署名した「在沖米海兵隊のグアム移転に係る協定」に含まれる、いわゆる「パッケージ」の一部として、名護市辺野古での新海兵隊航空基地や、グアムにおける海兵隊基地建設等と共に、強行されようとしている計画である。しかし、国が決めたことは、覆すことが出来ないのだろうか。地域の住民には、自分たちの土地の将来を、自分たちで決める権利が無いのだろうか。
 外交と防衛は国の専権事項である、ということがいわれる。地方分権が推進されたとしても、この分野は国の政府のみが決定権を持つという主張である。無論、対外的に国を代表して条約を結ぶ権限は国の政府のみが持つ。その意味では「専権事項」である。しかし、外交・防衛政策を執行する上で、当然国内各地域に影響が及ぶこととなる。それは高江のような軍事基地の建設だけではない。貿易や環境の分野で、国際協定を結んだ後、それらが地域に影響を与える状況を想像することは容易であろう。その場合、地域には、一切政策に関わる権限は無い、というような主張はされないであろう。

対等同格の関係

 日本が中央集権制の国ならば、この場合にも地域の関わりが強く制約されることが想定されようが、現在の地方自治法において、国と自治体は、原則的に対等同格の関係と規定されている(同法第一条二項)。これは、たとえ日米安全保障条約に関する決定は国の権限であるとしても、その下での基地配備決定については、当然、地域の権利が保障されるべきということである。
 東村にとり、高江区にヘリパッドが集中的に建設されれば、これまで尽力してきた村おこしを台無しにすることになる。恒久的なジャングル戦闘訓練が行われ、辺野古の新基地との間で海兵隊員が頻繁に往復する、そのような土地にエコツーリズムが成り立つはずがない。また、使用される兵器を監視も規制もできない状況で、環境汚染の虞が生じれば、パインの里としての定評はどうなってしまうのだろうか。東村の村おこしは、国に対しても正当性を主張できる地域の権利なのである。地域の将来は、住民が決め、作らねばならないのだ。

地方自治の本旨

 今回のような国際協定が結ばれた以上、それは国内法を上回る効力を持つのであり、対外的な約束の縛りが、このような地方自治の原則を超えるという見方がある。では、米軍は、今回の協定にそのような効力を認めているのであろうか。
 今回の協定は、「行政協定」として署名された。本来、米国憲法においては、対外的な「条約」を締結する権限は、議会が持つ。条約は、議会上院の3分の2の多数議決による承認を以って、大統領が署名する。それに対し、全ての対外的な「条約=取り決め」を、この手紙で結ぶことの実際上の煩雑さを避けるため、大統領が議会議決を経ずに結んできたのが行政協定である。
 米国連邦最高裁判所は、行政協定にも条約と同等の効力を認め、大統領がそれを結ぶ権限を1930〜40年代の一連の判決で認めた。この限りでは「グアム移転協定」は、重い拘束力を持つことになる。しかし、米国政府が、上院の3分の2、あるいは貿易協定で見られたような下院の単純過半数という議決を経ずに、今回のグアム移転協定を結んだ事実は、この協定を、自らを強く拘束するものとは考えていないことを意味する。そのような条約・協定は、今日でも議会の議決が必要とされる。
 グアム移転協定は、毎年米政府が数百結ぶ行政協定の一つという重みしかないのである。これが全ての反対を押し切り、日本の政権交代があっても、基地建設を強制するなどという効力は無い。
 また、米最高裁は、米国憲法が全ての行政協定に優越するとの判決を50年代に下している。行政協定が憲法を超える効力を持つという法理論を、米国自体が否定しているのであり、日本側のみが、地方自治の本旨という、憲法が保障した原則を、協定の前に曲げねばならない理屈はない。

体制を崩す条件

 高江のヘリパッド、辺野古の新基地の建設を止めることは、非常に困難な状況になっている。
 しかし、オバマ政権自体に、このゴリ押し体制を崩す条件がある。それは、一つは言わずとしれた財政難であり、もう一つは、オバマ大統領自身に人権、環境、司法という価値を重視しなければならないという体面があるからである。
 現在、米国の予算が審議されているが、軍事予算には、経済危機のために、ブッシュ政権下とは異なり、強力な抑圧がかかり、緊急度の低い支出は削滅する方向である。その中で、F22型ステルス戦闘機と共に、V22型オスプレイ垂直離着陸戦闘機も製造中止の候補として挙がっている。オスプレイは、辺野古・高江での使用が想定されていることは周知の事実であるが、米国国防総省自体が必要無いと判断しかねない航空機のために、県議会と多くの県民の反対を押し切って新たな基地を建設するようなことを許して良いのだろうか。
 地域住民の人権を抑圧し、環境を破壊する、この「パッケージ」の非道を粘り強く、多様な方法で訴えていくこと。それが、実は日米政府にとっても最善の結果に繋がるのである。
(沖縄タイムス090317)


■下■
揺らぐ中立的立場/政治の司法権利用を危惧

高良 鉄美
(琉球大学法科大学院)

 そもそも憲法とはどうようなもので、何のためにあるのだろう。憲法の意義は時代によって異なってきた。国家権力(君主、独裁者など)が国民に義務を課し、自己の権力行使をやりやすくするために作った、国民に仰がせるルールなのであろうか。一頃はこれをも憲法と呼ばれていた。

三竦みの構造

 しかし、現在では、国民の人権に重きを置かず、自己の権力を誇示する国家体制の一方的宣言のようなものは、憲法とは呼べない。「権力が分立されず、人権が保障されない国家は憲法を持っているとはいえない」という言葉がそれをよく表している。
 つまり、憲法は国家権力から国民の人権を保障することに目的があり、その手段・方法として国家権力を分立させ、なるべく国民に対して強大な権力にならないよう、立法・行政・司法に分立させているのである。
 それだけではなく、立法権・行政権・司法権が互いにチェックして牽制し合うような特別な工夫を入れている。たとえば、立法権と行政権の間には国政調査権、内閣不信任議決、衆議院の解散などがある。議院内閣制の下では、政治的権力としての立法権と行政権とが同一政党によって大多数を占められた場合、一つの政党の方針で国政が運営され、チェック機能が作用しなくなるおそれもある。
 いわば立法権と行政権の一体化で、その場合には三権分立ではなく、二権分立のような形になってしまい、憲法がせっかくバランスをとれるように、三竦みの権力構造にした意義が弱まっていく。
 それでも憲法は、司法権には立法権と行政権とをチェックする司法審査権(違憲立法審査権)を駆使して、懸命にバランスを保ち、国民の人権保障に努められるよう、司法権の独立をも保障している。司法権を担う裁判所が「人権保障の砦」といわれるのはこの意味である。

権力へブレーキ

 このように、憲法は人権を保障するために国家権力を制限するものであり、国家権力の行使は常に国民の人権との関係を憲法に照らして抑制的に、慎重にすべきことを求めているのである。これが立憲主義の基本的視点である。
 国家権力が国民の人権などを強圧的に侵害するような場合には、国民はそれに対して言論・出版による批判や集会・デモによる意思表示などを通して、国家権力にブレーキをかけたり、再考を求めたりする権利が、憲法によって表現の自由という基本的人権として保障されているのである。憲法は国民が個人として尊重され、自分の人生が幸福に送れるよう、個人を中心にして、表現の自由等の行使による自己の基本的人権の保障と、司法権の制度による国民の人権保障との二重の濠を国家権力に対して作っているのである。

抗議の意志表明

 さて、この視点から今回の高江ヘリパッド仮処分事件について見てみよう。高江の周りをぐるっと取り巻くヘリパッドの建設は、住民の平穏な生活に大きな影響を与えることは誰の目にも明らかである。
 基地(建設)による平穏な生活の侵害自体にも平和的生存権の侵害等、重要な憲法上の人権問題がある。このような侵害に対し、地域住民が自らの生活の確保の重要性を訴え、あるいは支援者が地域住民の生活を一方的に犠牲にする不合理なヘリパッド建設に反対し、プラカードや横断幕、集会、座り込みなどによって、抗議の意思を表明し、外部にメッセージを送ることは、明らかに憲法21条の保障する表現の自由の射程にあるものといえよう。
 この構図は、少なくとも大規模な暴動とかとは縁のない表現行為に対し、司法権を通じて仮処分の申立を行政権が行っているものである。前述した憲法の人権保障の「二重の濠」構造からすれば、巧妙に国家権力が内濠の表現の自由による行為を外濠の司法権の力を利用して、実質的に両方の濠を埋めていくようなものともいえよう。
 今回の仮処分申立を巡る状況からすると、司法権にどうしても仮処分命令を出してもらわなければならないほどの緊急性や必要性があるか疑問なしとしない。司法権がきちんと法律に則って判断を下したとしても、中身によっては政治に巻き込まれた感は否めず、国民の目に司法権の中立的立場が揺らいで映った場合、「人権保障の砦」に対する信頼の揺らぎも危惧される。
 現在のところ、裁判所の審尋では中立性や信頼が揺らぐようなこともなく進行しており、その内容に問題点を見いだしているのではない。司法権が問題なのではなく、国民の基本的人権がかかわった場合に、政治権力によって司法権が利用されることが一般化してくることをおそれるのある。
 立憲主義の視点からすれば、前述の「二重の濠」は憲法構造の上で埋められてはならないものであり、個人の尊厳、国民の人権保障のシステムとして、国民の人権保持努力義務と司法権の本来的役割が試されているともいえよう。筆者の脳裏に、1950〜60年代の米国で黒人の公民権獲得に大きな展開を見せた座り込み(シットイン)運動が浮かんできた。
(沖縄タイムス090318)

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